日の当たらない種
私はこっそり客間へ戻ると、大きく息をついた。いつもならすぐに氷雲がついてきたが、今日は透と遊ぶことを優先したようだ。これも舵谷氷としての演技なのか、それとも氷雲のやりたいようにやっているだけなのか、やはり判断がつかない。
落ち着かなくて、客間をぐるぐると歩いた。やりきれないような気持ちが打ち消せない。いったい、なにがやりきれないのかは分からなかった。弟と話すことができないもどかしさ、あるいは嫉妬、そういう感情があるにしろ、やりきれなさとは無縁のはずである。
ひたすら歩き回っていると、目が回ってきた。私は横倒しに倒れて、視界が傾く気味の悪さをぼうっと味わった。そうして、少し落ち着くと、また目を回すために歩いた。
自分ですら行為の無益さにあきれていると、声がした。
「なにをやっているんだ、くだらない」
いつの間にか栄が客間の入り口にいて、私のことを小馬鹿にした目で見ていた。歩くのをやめると、すぐにまた視界が傾いた。立っていられなくて転がると、栄は鼻を鳴らした。
「客とはいえ、家の主の前で転がる奴があるか」
「今の斎家の主は透だろう」
「似たようなものだ。まったく、礼儀を少しはわきまえろ」
「ヒイクに見せてやる礼儀などない」
いいながら、なんとなく栄の目を見ることができなかった。栄はあきれたように尻尾を床に叩きつけると、私の正面に座って、無理矢理目を合わせてきた。
「話がある」
栄はまた尻尾で床を叩いた。どうやら苛立っているらしい。私は少しだけ居住まいを正して、奴のいうことを聞くことにした。
「お前、最近のお前の弟と透の関係をどう見ている」
栄は爪を噛みたそうに前足をうずうずと動かしている。どうしてそんなに落ち着かないのか、私はすぐにはぴんと来なかった。
「まさか、氷雲が透と恋仲になりたがっているとでも思っているのか」
冗談のつもりでいったのに、栄が真剣な顔をしたものだから、つい失笑をもらした。
「それはあるまい。氷雲は誰とでも仲良くなるのが上手い鼠だ。そのせいで色恋には疎い」
栄がまた尻尾を振った。
「ああ、いや。逆だったな。透が氷雲を見初めているようなんだ」
もう目は回っていないはずなのに、なにやら世界がまた傾いてゆく。私はぶるっと頭を振ると、栄の顔をまじまじと見た。
「冗談にしても面白くないぞ。まだ我々が世話になって一週間も経っていないではないか」
栄は蛾を噛み潰したような表情で、前足の爪を口に突っ込んでいた。
「透は、ああいう奴だ。こうと思い込むとひたすらにその思いを貫く」
「だから、素性も怪しい浮浪の若鼠に一目惚れをしたと? あり得ないだろう」
「だが事実そうなんだ。俺と親父以外にあれほど興味を示した透を初めて見た。今日は氷とこんな遊びをした、氷はなにが好きでなにが嫌いだ、そんな話を透は嬉々として俺に話す。少し前まで、俺にべったりと張りついて、俺の機嫌を伺っていたというのに」
栄の尻尾がバシバシと床を叩きつける。相当苛立っているようなので、私は栄の嫉妬心をからかうのを止めた。喧嘩になってもつまらない。その代わり、声を上げて笑ってやった。
「まあ、安心して見ているといい。氷雲は秤山家でもひたすらに可愛がられていた鼠だ。可愛がられるのには慣れている。いくら透が弟を好いたとしても、氷雲が透に惹かれることはないだろう。一方的な好意なぞ、日の当たらない種と同じ。芽吹いたとして、花開くことはないというものだ」
いいながら、私も由依花に対してほとんど一方的な好意を寄せていたことを思い出した。それでも思い続けた結果、今では由依花にも少しは思いが伝わったようであるが、そのことを自慢して栄の神経を逆なですることもあるまい。
栄は胡散くさそうに目を細めていたが、やがてふいと目をそらした。
「みっともないところを見せた。すまない」
「やめろ。ヒイクに謝られると尻尾の毛が逆立つ」
私は立ち上がって、場所を客間の一番居心地の良い奥へと移した。話のけりがついたと思ったからである。だが、栄は座ったまま、私のことを目で追った。
「なんだ、まだなにか話があるのか」
私が伸びをしながらいうと、栄は目を閉じて首を振った。
「いや、お前になだめられたのが可笑しくてな。初めて会った時のことを思い出していた」
驚いて顔を上げた。だが、栄はもう客間を出るところだった。傲然とした背中は普段と同じいけ好かないものだ。私はふっと息をついた。
穏やかな笑顔が目の端に見えたのは、おそらく錯覚だったのだろう。




