第098話:湯気立つ食卓と、握られた指
暗黒のバイパス中継地点に戻ると、削岩機の重油と煤煙の匂いが鼻をついた。
坂東の重装リグ『V-RIG』が、太い油圧シリンダーを4本、崩落しかけた天井岩盤へ突っ張り棒のように噛ませていた。
金属パイプの隙間から、ヘッドライトの光が漏れている。
「おい、戻ったぞ!」
岩陰から大盾を構えて飛び出してきたタケが、俺の姿を認めるなり、ガシャリと盾を下ろした。
その顔には、隠しようもない安堵が張り付いている。
「馬鹿野郎、遅ぇんだよ! 急に地鳴りが消えたから、何が起きたかと思ったじゃねえか!」
「文句を言うな。怪我人はいないな」
「こっちは全員無事だ。間宮、その様子だと、完全に仕留めたんだな」
一条が壁際から立ち上がり、息を吐きながら俺の右肩を軽く叩いた。
葵がスワローを手元へ呼び戻しながら、安堵に頬を緩めて駆け寄ってくる。
「本当によかった。ピラーの重力サージ、完全に消えたわ」
「ああ。坂東、退路を支えてくれて助かった」
「へへっ、現場の工兵を舐めてもらっちゃ困るぜ! よし野郎ども、掘った穴を崩しながら撤収するぞ! 誰にもこの抜け道は使わせねえ!」
坂東が操縦桿を叩き、削岩ドリルを逆回転させた。
未踏岩盤の開口部がガラガラと土砂で埋め戻され、俺たちが通った痕跡が闇の底へと消え去っていく。
水没結晶バイパスを逆走し、冷たい地下水に腰まで浸かりながら歩くこと数時間。
第7区の旧工業水路のマンホールを押し上げると、頭上から地上のかすかな朝の光が差し込んできた。
*
午後15時過ぎ、佐伯工房の鍛冶場。
炉の赤熱した火が、すすけた作業場を照らしていた。
作業台の上に、俺が持ち帰ったカルキノスの星霊重装甲の破片が鈍い光を放っている。
「ほう」
佐伯親方が革手袋越しに破片を手に取り、鉄鎚の角でカツンと叩いた。
火花すら散らず、澄んだ高音だけが響く。
「生体黒鋼の表面に、星霊の結晶が分子レベルで焼き付いてやがる。ダイヤモンド並みの硬度だ。あのアキュラじゃなきゃ、傷一つつけられずに跳ね返されてたところだな」
「親方の鎚と、雫の回路のおかげだ。刃こぼれはゼロだった」
「職人に礼なんざいらねえよ。獲物が仕事をした、それだけだ。この破片、預かっておくぞ。次の予備刃や補修材に仕立ててやる」
親方がニヤリと笑い、破片を棚の奥へ放り込んだ。
奥の研究スペースでは、雫が端末のディスプレイを食い入るように見つめていた。
「先生、東京ピラーの観測波形、完全に沈静化しています。3秒周期の鼓動は消え去り、第1区の地下封鎖ゲートにかかる内圧も安定域まで低下しました」
「そうか。街の直下の地鳴りも収まったな」
「はい。ただ、魔素のベースラインは以前より少しだけ高いままです。臨界の危機は去りましたが、ピラーが眠りについたわけではありません」
「先のことは、これからゆっくり調べればいいさ」
俺が肩を回したその時、工房の裏口が小さく開いた。
「まったく、人使いの荒い探索者ですね」
トレンチコートを着込んだ長谷川さんが、大きな書類鞄を抱えて現れた。
眼鏡の奥の瞳が、俺の顔をじっと見つめる。
「深層が公式に全面凍結されている最中に、第35層由来と思われる特大魔石が、なぜか佐伯工房の裏口に転がり込んでいるという匿名の通報がありましてね」
「偶然落ちてたんだろ」
「ええ、偶然ですね。そう処理しておきました。『防壁外の未踏地下水脈における、Aランク相当の迷宮外漏出個体の特命処理』として、ギルド本部の裏予算から正規の換金手続きを済ませてあります」
長谷川さんが端末を操作し、俺のギルドカードへ決済データを送った。
「換金総額は7800万円。税引き後、坂東さん、一条さん、葵さん、タケさんと均等に頭割りして、間宮さんの口座には1560万円を振り込みました。文句はありませんね?」
「十分すぎる。助かった」
「お礼なら、二度とこんな無茶をしないことで返してください。まあ、街を救ってくれたことには、感謝しておきますが」
長谷川さんが小さく息を吐き、腕時計に目を落とした。
俺も同時に、胸ポケットの時計を見る。
針は、16時35分を指していた。
「悪い、長谷川さん。もう時間だ」
「はいはい。お迎えですね。とっとと行ってらっしゃい」
呆れ顔で見送る長谷川さんに軽く手を挙げ、俺は工房を飛び出した。
*
安全居住特区のタワーマンション。
夕暮れの茜色の光が、最上階の共用廊下を長く染め上げていた。
エレベーターを降り、お隣の早川家の玄関ドアの前に立つ。
深呼吸を一つして、インターホンのボタンを押した。
ピンポーン。
澄んだチャイムの音が響いた直後、扉の向こうから、バタバタバタと小さな足音が近づいてきた。
「ぱぱ!」
鍵が外れ、勢いよくドアが開いた。
黄色い花柄のTシャツを着た鈴が、満面の笑顔で飛び出してきた。
「ぱぱ! ぱぱ、おかえーっ!」
小さな手が、俺の作業ズボンの膝にぎゅっとしがみついてくる。
俺は床に膝を突いて腰を落とし、小さな身体を両腕で抱き上げた。
「ただいま、鈴」
腕の中に伝わってくる、確かな重み。
服に染みついたベビーソープの甘い匂いと、柔らかい頬の温もり。
深層の極寒と重力嵐の中で、どれほどこの温もりを求めていたか。
指先から全身へ、凝り固まっていた緊張が静かに溶け崩れていく。
「ぱぱ、いた! いたー!」
鈴が俺の首に小さな両腕を回し、顔を胸元へ擦り付けてくる。
背中を優しく撫でると、鈴はくすぐったそうに小さく笑った。
「おかえりなさい、凌くん」
玄関の奥から、エプロン姿の早川志保が穏やかな笑顔で現れた。
その後ろから、陽菜と芽依もひょっこりと顔を覗かせる。
「りょうおじさん、おかえりー!」
「おかえー!」
「志保さん、陽菜ちゃん、芽依ちゃん。鈴を預かってくれて、本当にありがとうございました」
「いいのよ。鈴ちゃん、すごくお利口さんにしてたわよ。夜も寂しがらずに、陽菜と手を繋いでぐっすり寝てくれたしね」
志保が鈴の頭を優しく撫でながら、俺の顔をじっと見つめた。
「怪我はないみたいね。ちゃんと無傷で帰ってくる約束、守ってくれたじゃない」
「ええ。鈴のお迎えがありますから」
「ふふ、相変わらずね」
「志保さん、鈴を預かっていただいたお礼も兼ねて、今夜はうちで一緒に食べませんか。葵たちも呼んで、大所帯で夕飯にしようと思ってます」
「あら、嬉しい。じゃあ、作り置きのポテトサラダがあるから、それ持って隣にお邪魔しようかしら」
*
30分後、俺の部屋のダイニング。
大きな丸テーブルの上に、湯気を立てる料理が並んでいた。
台所に立ち、俺が手早く仕込んだ夕餉。
鶏モモ肉と根菜の甘辛煮、ふんわりと湯気を上げる炊きたての白飯、油揚げと豆腐の味噌汁、そして早川家が差し入れてくれた彩り鮮やかなポテトサラダ。
「うわあ、いい匂い!」
「腹減ったー! 深層から帰ってきて食う飯は格別だな!」
タケがビール缶を開け、坂東が丼飯を両手で抱え込んだ。
葵と雫が子供用の椅子をセッティングし、志保が陽菜と芽依にエプロンを着ける。
大人6人、子供3人。
部屋の中は、まるでお祭りのような賑やかさに包まれていた。
「全員、生還おめでとう! 乾杯!」
タケの音頭でグラスが合わさる。
「鈴、あーんしてみろ」
俺は子供用のプレートに取り分けた鶏肉を、奇跡の銀匙で一口大に切り分けた。
微細な魔力を通した銀匙が、肉の繊維を赤ん坊の口当たりに合わせてふんわりと解している。
鈴が銀匙を小さな手でぎゅっと握り、口元へ運んだ。
もぐもぐと小さな口を動かし、両足をぱたぱたと弾ませる。
「おいし!」
ふくふくとした頬をいっぱいに膨らませ、満面の笑みが弾けた。
空になったスプーンを誇らしげに掲げ、小さなお皿の煮物を指差す。
「これ! これー!」
「はいはい、次は人参な」
柔らかく煮含めた人参をスプーンに乗せてやると、鈴は上手に口へ運び、ごくりと飲み込んだ。
そして小さな両手をパチパチと叩いて喜ぶ。
「ぱぱ、あむ! みて、あむー!」
「あらあら、パパが帰ってきたら食欲が倍になっちゃったわね」
志保が目を細めて笑い、陽菜も「すずちゃん、じょうず!」と拍手した。
葵が身を乗り出して「本当においしそうに食べるわね!」と声を弾ませ、雫もつられて柔らかく笑う。
タケが豪快に煮物を頬張り、「うめえ! 味が芯まで染みてやがる!」と叫ぶ。
芽依も小さなスプーンを忙しなく動かし、口の周りをタレでいっぱいにしていた。
鈴はご機嫌で体を揺らし、スープの染みたご飯を「んふー!」と鼻歌混じりに頬張っている。
温かい湯気と、弾ける笑い声。
地下35層の暗黒大空洞で、命を削って刃を振るった理由が、この食卓にあった。
世界がどうあろうと、ピラーの底に何が眠っていようと、この温もりを守り抜くこと以上に大切なものはない。
食事が終わり、賑やかな宴が一段落した夜21時過ぎ。
お腹いっぱいになった陽菜と芽依は志保に連れられてお隣へ戻り、タケたちも満足げな顔で引き揚げていった。
静かになった部屋で、俺はお風呂上がりの鈴を抱き上げ、寝室のベッドへ運んだ。
柔らかな毛布を肩まで掛けてやると、鈴は満足そうに小さくあくびをした。
俺が立ち上がろうとした、その時だった。
きゅっ。
毛布の隙間から伸びた小さな手が、俺の左手の人差し指を、ぎゅっと握りしめてきた。
指先から伝わってくる、吸い付くような柔らかさと、確かな体温。
深層の闇の中で、鉄を裂き、肉を断ち切ってきた俺の手。
血生臭いその指先を、鈴の小さな温もりが包み込んでいる。
壊してしまわないように、俺は力を抜き、そっと握り返した。
「ぱぱ」
夢現の呟きとともに、鈴の小さな呼吸が穏やかなリズムへと変わっていく。
静かな寝息が、部屋の空気を優しく満たした。
「ああ。ここにいるぞ、鈴」
窓の外を見上げると、夜の街の灯りの向こうに、東京ピラーの巨大な影が静かに夜空を貫いていた。
その巨躯は今、完全な静寂を保っている。
明日も、明後日も、現場の仕事は続くだろう。
窓の外の東京ピラーへ短く目をやり、俺は鈴の寝顔へと向き直った。
小さな指の温もりを確かめながら、俺は静かに目を閉じ、穏やかな夜の底へと身を委ねた。
お読みいただきありがとうございます。
ここまでで第12章が区切りとなりました。
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