第096話:脈動の核と、重圧の覇王
石畳が沈み込み、靴底のゴムが悲鳴を上げていた。
一歩踏み出すごとに、太腿の筋肉が鉛のように軋む。
仲間たちを退避させた背後、崩落した回廊の亀裂を抜けると、空気の密度が一変した。
呼吸をするだけで、肺胞の奥に冷たい鉄粉を吸い込んだような重苦しさが広がる。
通常の3倍を優に超える異常重力場。
毛細血管にかかる内圧を相殺するため、俺は呼気とともに体内魔力を血流の隅々まで精密に巡らせた。
チリ、チリと首筋の皮膚が粟立つ。
背負った天鷲の鞘から、低い共鳴音が漏れていた。
ベヒーモスの大鉤爪から削り出した鋼が、空間の質量歪みを打ち消すようにかすかに明滅している。
この獲物がなければ、俺の膝も数歩前で床に縫い付けられていただろう。
崩れた古代の巨柱を回り込んだ瞬間、視界が一気に開けた。
第35層、大神殿の大空洞。
ドーム状に広がる天井は闇に溶け、地上からは想像もつかない数百メートルの空間が広がっていた。
壁面には紫黒の結晶鉱脈がびっしりと根を張り、血管のように青黒い光を脈打たせている。
ドクン。
3秒周期の鼓動が、床面を通じて足裏から頭蓋へと突き抜けた。
空洞の中央、祭壇のような巨大な石組みの台座。
そこに、鎮座していた。
体長20メートルを超す、異形の重装甲巨獣。
幾重にも重なり合った黒紫の甲殻は、戦車の装甲板を何枚も重ねたような無骨な厚みを誇っていた。
太い円柱のような鋼鉄の脚が8本、台座の岩盤を深く抉って踏みしめている。
そして前面に構えられた、巨大な削岩機を思わせる左右の鋏脚。
だが何よりも異様なのは、その背甲の中央だった。
甲殻の裂け目から露出した、直径2メートルはあろうかという巨大な受肉核。
逃げ場を失ったピラーの過剰アストラルを全身で貪り食い、臨界寸前の赤黒い燐光を放ちながら、心臓のように脈動していた。
深層変異受肉巨獣、アビス・カルキノス。
第1区の封鎖ゲートの下、ピラーの深奥で膨れ上がっていた歪みの正体が、そこにあった。
ジジ、と耳元の通信用イヤホンからかすかなノイズが走った。
『先生! 先生、聞こえますか!』
雫の切迫した声だった。
中継地点に残った葵が、スワローの指向性アンテナを限界までこちらへ向けてくれているのだろう。
微弱だが、声の輪郭は拾えた。
「ああ、聞こえてる。大神殿のど真ん中だ。とんでもねえ大物が陣取ってる」
『波形を受信しました! 嘘でしょう、この魔素濃度、前回のベヒーモスすら遥かに上回っています! ピラー内部に充満した過剰アストラルを、その個体単独で吸い上げて凝縮しています!』
息を呑む気配とともに、雫の声が一段と甲高く震えた。
『先生、思い出してください! 以前、佐伯工房でお話しした仮説を!』
「調圧弁の話か」
『はい! 受肉種は、ピラーが溜め込みすぎた魔素を一時的に肉体へ固定化し、外部への破裂を防ぐ調圧弁として機能している可能性があります!』
早口で捲し立てる雫の呼吸が、イヤホンの向こうで乱れていた。
『もし、もし今そのカルキノスを破壊してしまったら、行き場を完全に失った過剰魔素がピラーの主幹回路へ一気に逆流します! そうなれば、ピラー全体が臨界爆発を起こすかもしれません!』
「臨界爆発だと」
『前回の余震や部分崩壊どころではありません! 地上も含めた防壁都市全体が、地下から丸ごと吹き飛ぶ危険性があります!』
耳の奥で、血液が逆流するような冷たい感覚が走った。
指先がかすかに強張り、背中の柄に伸ばしかけた右手が宙で止まる。
街を襲った二度目の降柱、あの災厄の光景が脳裏をかすめた。
突然の地響き、揺れる地面、サイレンの音、怯えて泣き叫ぶ子供たち。
あの異変の引き金が、もし俺が第33層でベヒーモスを討伐したことだったとしたら。
今ここで目の前の怪物を仕留めれば、街を救うどころか、本当に全てを灰にしてしまうのではないか。
ドォン!
重い衝撃波が空洞を揺るがした。
カルキノスの複眼がぎょろりと動き、侵入者である俺を捉えていた。
8本の多脚が一斉に岩盤を踏み砕き、空間の歪みが津波のように押し寄せてくる。
見えない鉄塊で殴られたように、肺の中の空気が強制的に吐き出された。
台座の周辺にあった巨石が、異常な重力に引きずられてメリメリと宙へ浮き上がり、次の瞬間に粉々に砕け散って床へ叩きつけられる。
3秒周期の脈動が、2秒へ、さらに1.5秒へと短縮し始めていた。
赤黒い受肉核が、目に見えて膨張している。
理屈がどうあれ、現実の数字は残酷だった。
この空間の歪みは、もう数分も持たない。
この怪物を放置すれば、ピラーの爆発を待つまでもなく、この大空洞が重力崩壊を起こして直上の防壁都市ごと地下へ圧潰する。
奥歯をギリリと噛み締めた。
手のひらに、じんわりと温かい感触が蘇る。
昨日の夕方、早川家の玄関先。
お泊まりの小さなリュックを背負い、俺の指をぎゅっと握りしめていた小さな手。
見上げた顔に浮かんでいた、屈託のない笑顔。
『ぱぱ、ばいばーい!』
あの手の骨の細さ、柔らかな体温。
壊れやすいその温もりを守るために、俺は今日まで泥にまみれて刃を振るってきた。
未来の爆発がどうとか、ピラーの機構がどうとか、そんなものは現場の歩兵の知ったことじゃない。
起こるかどうかも分からない先の心配をして、今この瞬間に迫っている破滅から目を背けられるか。
ここで退けば、俺は鈴の元へ帰る資格を失う。
「雫」
俺は息を整え、低く通る声でインカムへ告げた。
『せ、先生?』
「理屈は後だ」
『えっ、でも!?』
「今ここでこいつを止めなきゃ、数分後には街ごと地下へ叩き落とされる。未来の心配なんざ、生きて帰ってから佐伯の親父の工房で茶でも啜りながら考えろ」
通信の向こうで、雫が息を呑む気配がした。
「現場の解体屋にできるのはな、目の前の獲物を確実に捌き切ることだけだ」
迷いは完全に消えていた。
使い慣れた黒曜の重みが一瞬脳裏をよぎるが、組み立てに5分を要する重量狙撃銃はここへ持ち込んでいない。
射程15メートルの至近距離、空間そのものが圧縮されるこの重力場では、己の身一つで肉薄するしかない。
背中へ伸ばした右手が、天鷲の柄を確実に握り込んだ。
親指でセーフティロックを弾く。
カチリ、と金属の澄んだ噛み合わせ音が空洞に響いた。
ガシャアン!
右手の引き抜きと同時に、漆黒と銀の刀身『天鷲・壱ノ刃』が滑り出る。
刃渡り115センチの刀身に、俺の体内から注ぎ込まれた85パーセントの魔力が一気に駆け巡った。
刀身に彫り込まれた二重螺旋励起回路が青白い光を灯し、超音波の微細振動が空気を焦がすような高音を奏でる。
さらに背嚢の左ホルダーが電磁ロックを解放した。
もう1振りの長剣『天鷲・弐ノ刃』が、鞘から音もなく射出される。
刀身自体が放つ反重力フィールドにより、弐ノ刃は俺の頭上2メートルにピタリと静止した。
腰の左右マウントが跳ね上がる。
2機の小型レイヴンが鋭い風切り音を立てて射出され、俺の両脇に護衛機として展開した。
完全版アキュラ、全4スロット解放。
脳内に4系統の空間座標データが流れ込んでくるが、過疎地の解体場で培ったまな板の俯瞰感覚が、濁流のような情報を瞬時に整理していく。
ギィィィィン!
カルキノスが咆哮を上げた。
両側の巨大な鋏脚が広げられ、空間の重力波を巻き込みながら、音速を超えて振り下ろされる。
重装甲の塊が空気を押し潰し、逃げ場のない圧殺の風が吹き荒れた。
俺は靴底で石畳を蹴り裂いた。
ベヒーモスの慣性質量相殺が重力を切り裂き、俺の身体を前方の弾丸へと変える。
頭上の弐ノ刃が青い軌跡を描いて先行し、右手の壱ノ刃が低く構えられた。
深層の覇王へ向けて、俺は単身、死線のど真ん中へ飛び込んだ。




