第092話:机上の慎重論と、抜け道の確信
午前10時、新西東京特区のギルド出張所。
防音扉で閉ざされた第2会議室に、冷え切った沈黙が落ちていた。
円卓の対面に座る本部査定課長は、手元のタブレットを無造作に置いた。
「話は分かりました、如月さん。しかし結論から言えば、深層への先行調査申請は却下せざるを得ません」
「どうしてですか!」
隣で身を乗り出した雫が、声を絞り出した。
モニターには、佐伯工房の観測データが映し出されている。
通常値の1.6倍へ跳ね上がった魔素濃度と、心臓の鼓動に酷似した3秒周期のサイン波。
「ピラー地下の魔素蓄積は、先日のあの大規模危機の直前と同じ挙動です。第34層から第35層の断層付近に異常な熱源があり、放置すれば地中の調圧弁が破裂して都市直下のインフラが吹き飛びます!」
「その調圧弁という表現自体が、学術的に未検証の仮説にすぎません」
課長は冷淡に言い放った。
「WSOの査察報告書でも、東京は現状の防衛体制を維持し、復興を最優先にすべきとされています。第1区ゲートには数千トンのコンクリートが圧入されている。未確認の仮説で深層を刺激するリスクは冒せません」
「しかし課長、先日の地下調整池の件もあります」
壁際に控えていた長谷川さんが、厳しい声で口を挟んだ。
「あの時も、兆候を掴みながら対応が一歩遅れれば、特区全域の生活用水が断絶していました。間宮さんの迅速な対処があったからこそ防げたのです」
「あれは漏れ出した迷宮種の残党処理です。深層へのダイブとはリスクの桁が違う」
課長は眼鏡を押し上げ、凌を一瞥した。
「間宮さん。もしあなたの侵入で深層の巨獣が刺激され、二度目の大規模スタンピードが起きた場合、誰が責任を取るのですか。観測を継続し、封鎖を維持する。これが本部の正式決定です」
凌は静かに息を吐き、椅子を引いた。
「分かりました。お時間を取らせて申し訳ありませんでした」
「先生!?」
「行くぞ、雫」
抗議しようとする雫を促し、凌は会議室を後にした。
*
ギルドのエントランスを出ると、秋の澄んだ風が吹き抜けた。
遠くにそびえる東京ピラーは、青空に黒い影を落としている。
「悔しいです」
雫が白衣の裾を握りしめ、唇を噛んだ。
「私の仮説が、まだ論文にもなっていない思いつきだから。あんな机の上の理屈で片付けられて」
「謝るな、雫。役所の理屈としては筋が通ってる」
凌は空を見上げたまま言った。
「街は死ぬほど痛い目を見てるんだ。不確かな話に何千人も巻き込めねえって判断は、組織としちゃ正しい」
「じゃあ、このまま指をくわえて待てって言うの!?」
背後から駆け寄ってきた葵が問い詰めた。
「ピラーの脈動は今も大きくなってるのよ。地下で何かが臨界に達したら、コンクリートの蓋なんて一瞬で吹き飛ぶわ!」
「待つ気なんざねえよ」
凌は振り返り、二人を見据えた。
「机の上の証明を待っていたら、またあの地響きが来て街が呑まれる。もし俺があの第33層でベヒーモスを倒したせいで調圧弁が壊れたんだとしたら、手遅れになる前に、現場の俺が確かめてくる」
「確かめるって、どうやって潜るのよ。第1区ゲートは塞がれてるのよ?」
「正規の道が通れねえなら、抜け道を行くだけだ。一人、話を通す男がいる」
凌は端末を取り出し、通話ボタンを押した。
*
30分後、第7区の佐伯工房。
作業台の前に腰を下ろしたのは、リグ・クラフト社の重装工兵、坂東宗一郎だった。
「おいおい間宮、藪から棒に呼び出しなんて珍しいじゃねえか。どうした」
「坂東、以前一緒に開けた水没結晶バイパスを覚えてるか」
「第25層から第26層へ抜けた、あの水没坑道か」
坂東が煙草の灰を落とし、眉を寄せた。
「当たり前だろ。お前と俺の二人しか知らねえ、ギルドの地図にも載ってねぇ裏ルートだ。それがどうした」
「あそこの最奥、さらに下へ落ち込む断層の岩盤がある。お前のV-RIGの削岩ドリルと、俺の新しい天鷲なら、崩落層を迂回して第34層の外郭まで掘り抜けるか」
坂東が眉を跳ね上げ、咥えていた煙草を取り落としそうになった。
「テメエ、本気で言ってんのか? 正規ゲートが埋まってっから、横っ腹の岩盤をぶち抜いて深層へ密入国しようってのか!?」
「ああ。あそこなら封鎖線の完全に外側だ」
坂東は顔を覆い、次の瞬間に豪快に笑い出した。
「ガハハッ! 最高だぜ間宮! 机の上のエリートが尻込みしてる間に、現場の職人がツルハシ担いで裏口を開けるってわけだ! いいぜ、俺のV-RIGの油圧カッターと破砕ドリル、いつでも火を吹けるぞ!」
「おい、待て待て待てッ!」
工房の引き戸が開き、タケが血相を変えて飛び込んできた。
後ろには静かに一条岳が続いている。
「タケ、一条」
「長谷川さんから聞いたぞ! 作戦を蹴られたって聞いて飛んできたんだが、お前また無茶企んでるだろ!」
「雫からデータは見せてもらった」
一条が腕を組んだ。
「一刻の猶予もないのは確かだ。だがギルドに無断で潜れば、ライセンス剥奪どころか厳罰は免れんぞ」
「街が吹っ飛んだら、ライセンスもねえよ」
凌は静かに答えた。
「現場で元凶を叩いて、何事もなかったように戻るだけだ。証拠は残さねえ」
「だったら、俺の盾を置いていくな」
タケが胸を叩いた。
「お前の背中を守るのは俺の仕事だ。抜け道掘るなら、狭い坑道で壁になる前衛が必要だろ」
「一条、お前も来るのか」
「当たり前だ。古代防衛機構や硬質魔獣には生体魔導が通じる。何より、雫の仮説を証明する現場に先輩が立ち会わんわけにはいかん」
「私も行くわ」
葵が身を乗り出した。
「アルス社の主任として、このデータを放置できない。スワローの生体ソナーで暗黒水路の射線案内は私が引き受ける」
「雫は地上に残れ」
凌が雫を見つめた。
「工房の研究室から、ピラーの波形と俺たちの生体データを監視してくれ。外からの目が一番重要になる」
「はい! 通信ラインは私が死守します!」
凌は頷き、集まった面々を見回した。
「決まりだな。出発は今夜22時、第7区の旧水路ゲート前だ。装備を整えておけ」
*
夕方16時半。
認可保育所の玄関で、凌は鈴を引き取った。
「ぱぱー!」
満面の笑顔で駆け寄ってきた鈴を抱き上げる。
小さな手が凌の首元にぎゅっと巻きついた。
柔らかな体温と、甘いミルクの匂い。
首筋に押し当てられた小さな頬の温もりに、強張っていた肩の力がふっと抜ける。
タワマンへ戻り、隣の早川家のチャイムを鳴らす。
扉が開き、エプロン姿の志保が顔を出した。
「あら、凌くん。鈴ちゃんも、おかえりなさい」
「志保さん、相談があるんですが」
リビングに通され、麦茶を出された。
プレイルームでは陽菜と芽依が鈴を取り囲み、楽しそうな笑い声が響いている。
「志保さん。急ぎの仕事が入って、今夜から丸2日ほど家を空けることになりました」
「丸2日」
志保の視線が、凌の背中に固定された。
佐伯工房から持ち帰ったばかりの二振りの長刀『天鷲』。
元Bランクの探索者である彼女の頬が、その武骨な黒いケースを見据えたまま微かに強張った。
「かなり、危険な現場なのね」
「放っておくと、この街が危ないんです」
凌は短く答えた。
志保は数秒間凌を見つめていたが、やがて息を吐き、穏やかに微笑んだ。
「分かったわ。鈴ちゃんは任せなさい。陽菜も芽依も、お泊まりできるのを楽しみにしてるんだから」
「ありがとうございます。助かります」
「ただし」
志保が真剣な眼差しで凌を見据えた。
「絶対に、無傷で帰ってきなさい。余計な手柄なんていらない。自分の足元だけ見て、必ずこの子の元へ戻ってきなさい。鈴ちゃんを泣かせたら、承知しないからね」
「肝に銘じます」
凌は深く頭を下げ、プレイルームへ向かった。
鈴が積み木を握り、不思議そうに凌を見上げる。
「鈴。陽菜ちゃんたちと良い子にしてるんだぞ」
頭を優しく撫でると、鈴は両手で凌の指をぎゅっと握った。
「ぱぱ、ばいばーい!」
屈託のない笑顔で手を振る。
凌はその手を包み込み、誓った。
「ああ。すぐ戻るからな」
*
夜21時50分。
街の灯りが遠のいた第7区の旧工業水路。
鉄格子で封鎖されたマンホールの前に、5つの人影が集まっていた。
漆黒のスーツに身を包んだ凌。
背部には二振りの天鷲、両腰には小型レイヴン。
横には機械腕を背負った坂東、大盾を構えたタケ。
魔導ライフルを点検する葵、静かに気を整える一条。
「全員、準備はいいな」
凌が問いかけると、4人が力強く頷いた。
坂東が油圧アームを作動させ、重い鉄格子を音もなく持ち上げる。
足元に口を開けたのは、光の届かない地下水路の闇だった。
遠く地底の奥底から、微かな鼓動が響いてくる。
凌は迷わず、暗黒の縦穴へと足を踏み入れた。




