第090話:それでも、飯は温かい
泥だらけの防災リュックから非常食の缶詰を取り出しながら、早川志保は小さく息を吐いた。
地上安全宣言が出され、第1種強化地下シェルターからタワマンの自宅へ戻って2日。
街の瓦礫撤去は進み、避難所となっていた学校や集会所も日常を取り戻しつつあった。
だが、壁に染み付いた埃の匂いと、廊下の隅に積まれた段ボール箱が、激闘の爪痕を生々しく物語っていた。
「陽菜、おもちゃ箱はリビングの隅に寄せておいてね」
「はーい!」
4歳の長女・陽菜が、元気よくブロックの箱を抱えて走っていく。
「陽菜はお姉ちゃんだから、シェルターでも全然怖くなかったよ!」と誇らしげに胸を張る姿は健気だった。
けれど、遠くの外郭通りでパトカーのサイレンが鳴り響いた瞬間だった。
ピクッ、と陽菜の小さな肩が強張った。
抱えていたプラスチックの箱を取り落としそうになりながら、小走りで志保の足元へ駆け寄り、エプロンの裾をぎゅっと両手で握りしめた。
唇を真一文字に結び、必死に涙を堪えている。
「大丈夫よ、陽菜」
志保はしゃがみ込み、陽菜の小さな頭を胸元へ抱き寄せた。
「ママがいるからね。もうお化けも魔獣も来ないわ」
「うん、陽菜、いい子にしてる」
リビングの絨毯の上では、2歳半の次女・芽依と、お隣の鈴ちゃんが並んで座っていた。
保育所が午前中で終わったため、凌くんに頼まれて預かっているのだ。
2人は積み木をトントンと打ち合わせて遊んでいたが、鈴ちゃんもふと手を止め、大きな黒い瞳でリビングの掃き出し窓を見つめた。
その視線の先には、青空にそびえ立つ黒い東京ピラーがあった。
まだ言葉を持たない赤ん坊でも、空気が変わったことだけは敏感に感じ取っている。
志保はスマートフォンをポケットから取り出した。
防衛軍遠征部隊に所属する夫から、昨夜届いた短いメッセージ画面を開く。
【第3防壁の無事を確認。家族の無事に感謝する。任務終了まで持ち場を離れられないが、必ず生きて帰る】
たった2行の文面を指先でなぞり、志保は静かに息を吸い込んだ。
元Bランク探索者としての勘が告げている。今回の危機は、ただのスタンピードではない。
けれど、今の自分は剣を振るう探索者ではなく、2人の娘の母親だ。
どれほど世界が揺らいでも、子供たちの前で怯えるわけにはいかない。
「よし、お昼寝のあとはおやつにしようね。みんなでボーロ食べましょう」
志保が手を叩くと、芽依が「ぼーろ!」と手を叩き、鈴ちゃんもぱっと笑顔を咲かせて「んま!」と跳ねた。
*
夕方5時。玄関のチャイムが控えめに鳴った。
ドアを開けると、作業着姿の間宮凌が立っていた。
肩には道具袋。髪にはわずかにコンクリートの粉が白く残っている。
けれど、その表情には現場帰りの探索者特有の殺気はなく、柔らかい光が宿っていた。
「志保さん、すみません。遅くなりました」
「ううん、ちょうどおやつの片付けが終わったところよ。お疲れ様、凌くん」
玄関の上がり框へ、鈴がパタパタと素足で駆けてきた。
「ぱぱ! ぱぱ!」
両手をいっぱいに広げて飛びついてきた愛娘を、凌くんは屈み込んでしっかりと受け止めた。
抱き上げられた鈴ちゃんが、凌くんの首筋に頬をすり寄せ、嬉しそうにキャッキャと声を上げる。
「いい子にしてたか、鈴」
「あい!」
凌くんの大きな手が、鈴ちゃんの背中を優しく包み込む。
その光景を見るたび、志保の胸の奥がじんわりと温かくなった。血の繋がりなど関係ない。この青年は、間違いなく世界で一番誠実な父親だ。
「あの、志保さん」
凌くんが、片手に提げた駅前スーパーの大きなレジ袋を持ち上げた。
「今日、駅前のスーパーが営業を再開してまして。特売の鶏肉と根菜をたくさん買い込んできたんです。もしよければ、今夜は隣で一緒に夕飯を食べませんか。具だくさんの温かい鍋にするので、陽菜ちゃんたちも一緒に」
志保は一瞬きょとんとして、それから思わず吹き出してしまった。
「あら、嬉しい! 実は今日の夕飯、シェルターの残り物で済ませようと思ってたのよ。お邪魔していいの?」
「もちろんですよ。大鍋で作るんで、大勢の方が美味しくなりますから」
「決まりね! 陽菜、芽依、今夜はお隣の凌くんのお家でごちそうよ!」
子供たちの歓声が、夕暮れの廊下に心地よく響き渡った。
*
部屋に戻り、作業着の袖をまくり上げてキッチンに立った。
買ってきたのは、特売の鶏もも肉2枚、挽肉400グラム、大根、人参、ごぼう、長ネギ、それに白菜。
深層ゲートが物理封鎖されたため、以前のような高級な魔獣ジビエ肉は市場に一切出回っていない。
けれど、現場の解体屋に言わせれば、普通のブロイラーでも手入れ次第で極上の味になる。
俺は愛用の解体筋引き包丁を手に取り、鶏もも肉の皮と身の間に薄い刃先を滑り込ませた。
皮下に残る余分な黄色い脂肪と、関節まわりの硬い筋をコンマ数ミリ単位で削ぎ落とす。
さらに挽肉には、すりおろした生姜と刻みネギ、少量の塩と卵白を加え、指先で練り上げていく。
ここからが、解体屋の職人技だ。
体内の生体魔力を、指先から肉の繊維へと極微細に流し込む。魔力変換効率85パーセント。
熱を通すのではなく、魔力の高周波振動で挽肉のタンパク質を均一にほぐし、空気を抱き込ませる。こうすることで、火を通した時に驚くほどふんわりと柔らかく、肉汁を閉じ込めた極上の鶏団子になる。
大根と人参の乱切りにも、繊維に沿って極微弱な振動魔力を浸透させ、煮崩れを防ぎながら出汁の吸い込みを数倍に加速させる。
昆布と鰹節で取った黄金色の出汁が、大きな土鍋の中でふつふつと波打ち始めた。
そこへ手際よくスプーンで丸めた鶏団子を落とし、根菜を敷き詰めて蓋をする。
ピンポーン、とインターホンが鳴った。
「間宮さん! 開いてるわよー!」
賑やかな声とともに現れたのは、神崎葵だった。
スーツ姿のまま、両手に果物屋の紙袋を抱えている。
「ほら、特区の青果店で見つけた初物のイチゴ! デザートに持ってきたわよ!」
「助かる、葵。ちょうど鍋が煮え始めたところだ」
続いて、廊下から足音が重なった。
「よっ、凌! 防壁の瓦礫片付けが終わったから顔出したぜ! すげぇいい匂いが外まで漂ってやがる!」
作業着姿のタケが、缶ビールの6缶パックを提げて顔を出した。
さらにその背後から、白衣を脱いで上品な私服に着替えた如月雫が、少し緊張した面持ちで入ってくる。
「先生、こんばんは。佐伯親方から、アキュラの励起レールの再調整が終わったと伝言を預かってきました。わぁ、本当にお出汁のいい香りですね」
そして、お隣の早川家がやってきた。
陽菜と芽依が「お邪魔しまーす!」と飛び込んできて、リビングのプレイマットの上で鈴と抱き合う。
大人5人、子供3人。
いつの間にか、俺の部屋のリビングは足の踏み場もないほどの大所帯になっていた。
「さあ、煮えたぞ」
俺が鍋敷きの上に重い土鍋を運び、陶器の蓋を外した。
ぶわっ、と立ち上る白い湯気とともに、鶏肉の濃厚な旨味と根菜の甘い香りが部屋いっぱいに広がった。
澄んだ出汁の中で、ふっくらと膨らんだ特製鶏団子と、飴色に透き通った大根が、コトコトと音を立てている。
「うわぁぁ! すっごく美味しそう!」
葵が歓声を上げ、タケが喉を鳴らしながらビール缶を開けた。
「よし、全員揃ったな。乾杯!」
「かんぱーい!」
大人たちのグラスと、子供たちの麦茶のコップが触れ合う。
俺は小さな木製のお椀に、よく冷ました鶏団子と大根を取り分け、鈴の小さなテーブルの前に置いた。
「ほら、鈴。熱くないから食べてみろ」
鈴は小さな両手で、佐伯親方が作ってくれた奇跡の銀匙(共鳴スプーン)をぎゅっと握りしめた。
スプーンの先でとろとろに煮崩れた大根をすくい、小さな口へと運ぶ。
もぐもぐ、と小さな口が動いた。
次の瞬間、鈴が握ったスプーンを頭上でぶんぶんと振り回した。
「きゃー! あむあむっ!!」
鈴が両手をパタパタと振って、満面の笑顔を弾けさせた。
小さな足をご機嫌にバタつかせ、今度は鶏団子をスプーンですくい、夢中で口に詰め込んでいく。
「陽菜ちゃんも食べてみて」
志保さんが取り分けたお椀を差し出すと、陽菜が恐る恐る鶏団子をかじった。
「おいしい! ママ、これすっごくふわふわでおいしい!」
「芽依も! お肉おいちい!」
「本当ね。ちょっと凌くん、これ本当にスーパーの普通の鶏肉!? 筋っぽさが欠片もなくて、出汁が芯まで染みてるわよ! 料亭の味じゃないの!」
志保さんが驚いたように口元を押さえ、葵が得意げに胸を張る。
「ふふん、志保さん。これがうちの筆頭テスターの『魔力微細熱伝導』ですよ。現場の解体技術を料理に応用してるんですから!」
「葵さん、それは私の二重螺旋スロット理論の熱伝導応用でもあります。先生の変換効率があってこその技巧です」
「はいはい、雫ちゃんも相変わらず先生大好きね!」
大人たちが笑い、タケが「おい凌、この鶏団子つまみにビール3本はいけるぞ!」とおかわりを要求する。
昼間の緊張も、地下の闇も、街の恐怖も、立ち上る温かい湯気の向こうへと溶けていった。
子供たちの屈託のない笑い声が、タワマンのリビングを満たしていた。
*
宴が終わり、夜10時を回った頃。
「凌くん、本当にごちそうさま。子供たち、お腹いっぱいで半分寝ちゃってるわ」
「お粗末さまでした。またいつでも来てください」
陽菜と芽依の手を引いた志保さんを見送り、タケや葵、雫もそれぞれの家へと帰っていった。
静けさが戻った部屋で、俺は満腹になって絨毯の上ですやすやと眠りこけた鈴を、そっと両手で抱き上げた。
寝室のベビーベッドへ運び、柔らかな毛布を肩まで掛けてやる。
胸元が規則正しく上下し、温かい寝息が静かな部屋に満ちていた。
俺はリビングへ戻り、窓辺に立った。
テーブルの上には、雫が置いていったタブレット端末がある。
画面には、東京ピラーの観測ログ。
通常値の1.4倍の魔素放出量。そして、心臓の鼓動に酷似した3秒周期のサイン波。
あの不気味な脈動は、今もなお地底深くで規則正しく刻まれ続けている。
街の危機は去ったわけじゃない。
世界の誰も気づいていない東京の異変は、地脈の奥底でなお燻り続けている。
次の胎動がいつ牙を剥くのか、それは誰にも分からない。
俺はタブレットの画面を閉じ、寝室の扉の向こうへ耳を澄ませた。
規則正しい寝息が、扉の隙間からかすかに漏れていた。
「明日も、ちゃんと迎えに行くからな」
誰に聞かせるでもない呟きを残し、俺は窓のカーテンを引いた。
シンクに立てかけた解体筋引き包丁を軽く握り直し、明日の研ぎ直しの段取りを頭の中で組み立てる。




