第089話:世界からの視察団と、変わらぬ即答
翌朝、認可保育所の門をくぐると、子供たちの賑やかな歓声が出迎えてくれた。
第1区深層ゲートのコンクリート物理封鎖が完了し、地上安全宣言が出されたことで、臨時休園は解除されたのだ。
抱っこ紐から下ろした鈴は、小さな上履きを履いて玄関ホールの床をとてとてと歩いた。
「ぱぱ! ばいばー!」
保育士さんのエプロンを掴み、鈴が満面の笑顔で小さな右手をぶんぶんと振る。
「ああ、いい子にしてるんだぞ。夕方5時には迎えに来るからな」
手を振り返し、保育所を出た直後だった。
作業着のポケットで携帯端末が短く震えた。ギルド特区出張所の長谷川さんからだった。
【間宮さん、朝のお迎え前に少しギルドへ顔を出せますか。ジュネーブから少々厄介なお客が来ておりまして】
*
ギルド特区出張所の最上階、特別応接室。
重厚な防音扉を開けると、張り詰めた空気が漂っていた。
長テーブルの向かい側に座っていたのは、仕立ての良い濃紺のスーツを着込んだ3人の外国人だった。
胸元には世界探索者機構(WSO)の金色の徽章。
中央に座る恰幅のいい中年男性が、彫りの深い顔立ちに険しい色を浮かべて手元のタブレットを睨んでいる。
ジュネーブ本部から派遣された上級査察官、ジャン・デュランだった。
「東京特区の報告書は拝見した」
デュラン査察官が、流暢な日本語で低く切り出した。
「世界各地の11大ピラーが平穏を保つ中、東京ピラーのみが局地的な魔素サージを起こし、深層ゲートを喪失した。世界探索者機構としては、この都市が防衛能力と管理能力を維持できているのか、極めて重大な懸念を抱いている」
デュランはテーブルに両肘を突き、鋭い視線を向けた。
「我が本部詰めの多国籍魔導即応部隊を派遣し、東京ピラー周辺の軍事指揮権を接収する案がすでに理事会で検討されている。君たち極東の一地方支所に、これ以上の危機管理を任せておくわけにはいかないのだよ」
露骨な統制の打診だった。
だが、テーブルのこちら側に座る面々の表情は、誰一人として揺らいでいなかった。
「お言葉ですが、デュラン査察官」
冷ややかな声が室内に響いた。
黒縁眼鏡を人差し指で押し上げた長谷川さんが、一切の感情を交えずに端末を操作する。
室内の空中へ、整然とした立体データが投影された。
「昨夜未明に崩落した第1区深層進入ゲートは、発生からわずか4時間でコンクリート圧入による物理封鎖を完了しております。閉じ込められた探索者5名も、弊ギルドの即応要員により無傷で救出済みです」
「だが、昨日の午後にも地下インフラで変異種の出現があったと聞いているが?」
デュランが眉を寄せる。
その言葉を遮るように、長谷川さんの隣に座る神崎葵が身を乗り出した。
アルス・テック社の主任バッジが、スーツの胸元で光っている。
「第7区の地下雨水調整池に出現したアビス・タイラント・モールですね。警報発令から迎撃完了まで、所要時間はわずか18分でした。特区の送水管および送電幹線への被害はゼロ。アルス社の試作小型ビット『スワロー』による立体索敵と、現場探索者の即応連携により、完璧に局地制圧されています」
「18分だと?」
査察団に同行していた主席研究員が、慌てて手元の端末を叩き始めた。
さらに、葵の隣に座るアルス・テック社第3開発ラボの倉田チーフが、不敵な笑みを浮かべて分厚い技術資料を放り出した。
「おたくらの多国籍軍が重装甲車を空輸してくる間に、現場の歩兵が片付けてるんでさぁ。東京は独自の兵装体系と現場の解体技術で、自律的な即応体制をすでに確立してます。言葉の通じねぇ部隊を送り込まれて指揮系統を引っ掻き回される方が、現場としちゃ大迷惑なんですわ」
倉田の乱暴な物言いに、査察官たちが息を呑む。
提示された戦闘ログ、魔力残差のグラフ、修復スケジュールの精度は、本部の基準を遥かに上回っていた。
デュラン査察官は沈黙し、やがて短く息を吐いた。
「分かった。東京特区の自立即応能力については、本部へ肯定的な所見を具申しよう。多国籍部隊の大規模介入は差し戻す」
査察団の空気がわずかに軟化した。
だが、デュラン査察官の視線は、部屋の隅の壁際に立っていた俺へと向けられた。
「ところで、長谷川支所長補佐。そちらの青年が、例の男か」
「ええ。弊ギルド所属のBランク探索者、間宮凌です」
デュランが椅子から立ち上がり、俺の前まで歩み寄ってきた。
値踏みするような青い瞳が、俺の作業着姿を上から下まで見定める。
「君があの黒き狙撃手か。マッハ6.2の長距離徹甲弾で空挺ボスを瞬殺し、昨日は地下水路で新鋭ビットを操り巨獣を一刀両断したという」
「ただの現場の解体屋ですよ」
俺がそっけなく返すと、デュランは薄く口角を上げた。
「謙遜は不要だ。単刀直入に言おう、間宮。君の才能は、こんな極東の閉鎖都市で燻らせておくには惜しすぎる。ジュネーブ本部の直属即応部隊へ来ないか」
応接室の空気がピシリと凍りついた。
葵が息を呑み、倉田が眉を吊り上げる。だが長谷川さんだけは、鉄面皮のまま静かに手帳を閉じた。
「ジュネーブ本部での身分はSランク探索者として待遇する。年俸は日本円換算で5億円を保証しよう。君専属の研究班と装備開発ラインを丸ごと1つ用意し、機密指定の最先端アストラル兵装も自由に支給する。世界を救う英雄として、歴史に名を残す名誉も約束しよう」
破格という言葉すら生ぬるい条件だった。
世界最高峰の環境と莫大な富。おまけに、歴史に名を刻む栄誉までついてくるという。
デュランは自信に満ちた笑みを浮かべ、俺の返答を待っていた。
俺は手元の腕時計をちらりと見た。
時計の針は、午前9時40分を指している。
「お断りします」
「何?」
デュランの笑みが固まった。
「聞こえませんでしたか。お断りします」
「な、なぜだ! 年俸に不服があるのか? それとも研究環境か? 希望があるならいくらでも上乗せするぞ!」
「条件の問題じゃありません」
俺は息を吐き、デュランの目をまっすぐに見返した。
「ジュネーブからじゃ、17時の保育所のお迎えに間に合わないんで」
静まり返った応接室に、沈黙が落ちた。
デュラン査察官は表情を凍りつかせ、口を半開きにしたまま固まっている。
同行していた研究員たちも、通訳の誤訳を疑うように顔を見合わせた。
「ほ、保育所のお迎え? 君は、世界最高峰のSランクの栄誉を、子供の送迎のために蹴るというのか!?」
「当たり前でしょう。俺にとっては、世界の危機より娘の離乳食の方がよっぽど大事なんで」
ぷっ、と葵がたまらず噴き出した。
倉田チーフが肩を揺らしてゲラゲラと笑い出す。
長谷川さんは誇らしげに眼鏡のブリッジを押し上げ、小さくフンと鼻を鳴らした。
「そういう男なんですよ、うちの間宮さんは。査察官、色よいお返事ができず残念でしたね」
「き、君たち東京の人間は、全員どうかしている!」
デュラン査察官は頭を抱え、深い溜息とともに肩を落とした。
もはや交渉の余地がないことを悟ったらしい。
「長谷川さん、用件がこれだけなら失礼していいですか」
「ええ、お引き止めして申し訳ありませんでした。定時までごゆっくりどうぞ」
俺は呆然と立ち尽くす査察団に軽く会釈し、応接室の扉を開けた。
廊下へ出ると、葵が笑いを噛み殺しながら追いかけてきた。
「あはは! 間宮さん最高! 査察官のあの顔見た!? 世界のWSOを『お迎えに間に合わない』で袖にするなんて、前代未聞よ!」
「本気で言っただけだ。夕方までに駅前のスーパーで特売の挽肉を買わなきゃならん」
「はいはい、良きパパさん。今日の夕飯は何?」
「鈴の好きなハンバーグだな。葵も食っていくか」
「行く行く! 絶対行く!」
昼前の柔らかな日差しが、ギルドのエントランスを満たしていた。
俺はポケットの端末で保育所の送迎時間を確かめ、駅前のスーパーへ続く道を歩き出した。
隣で鼻歌交じりに続く葵の足音が、やけに弾んでいた。




