第088話:雫の仮説と、消せない疑い
鈴が寝息を立てたのを見届けたのは、夜の8時半を回った頃だった。
夕方に作った鶏ササミと大根の煮込みを、鈴は小さなスプーンで綺麗に平らげてくれた。
お風呂で温まり、絵本を2冊読み聞かせると、吸い込まれるように深い眠りに落ちていった。
隣室の志保さんにベビーモニターの受信機を預け、俺は夜の特区へと出た。
背嚢には、昼間の地下調整池で過負荷運用した大型飛翔刃『アキュラ』の長剣2振りと、討伐したアビス・タイラント・モールから回収した魔石のテレメトリーデータが入っている。
*
佐伯工房の裏手、離れにある第2研究室のドアを開けると、青白い液晶の光が暗がりを照らしていた。
壁一面のホワイトボードには、複雑な数式と幾何学的な波形グラフがびっしりと書き殴られている。
その中央に、白衣姿の如月雫が立ち尽くしていた。
銀青色の髪を無造作に束ね、手にした電子ペンの先端を小刻みに震わせている。
「雫」
声をかけると、雫の細い肩がビクッと跳ねた。
振り返ったその顔は、血の気が引いたように蒼白だった。
「せ、先生」
部屋の隅の丸椅子では、作業着の佐伯親方が煙草を燻らせていた。
その隣の壁には、腕組みをした一条岳が寄りかかっている。
部屋の空気は、昼間の地下水路よりも重く冷え切っていた。
「アキュラの点検に来たんだが、何かあったのか」
俺が長剣をテーブルに置くと、親方が灰皿に煙草を押し付けた。
「凌、座れ。このお嬢ちゃんが、とんでもねぇ計算結果を弾き出しやがった」
雫が震える手でタブレットを操作し、ホワイトボードのプロジェクターを切り替えた。
投影されたのは、2つの波形データだった。
1つは、第067話で俺が深層第33層で討伐した深層受肉種『アビス・ドリル・ベヒーモス』の生体魔力波形と、その魔核が消滅した瞬間のタイムスタンプ。
もう1つは、昨夜から続く東京ピラーの【通常値の1.4倍の魔素放出量】と【3秒周期のサイン波】の観測ログだった。
「先生、これを見てください」
雫の声は、かすかに震えていた。
「ベヒーモスの魔核が完全に消失した時刻と、ピラー深部の魔素圧力が急上昇を開始した時刻が、コンマ数秒の狂いもなく完全に一致しているんです」
「どういう意味だ」
「受肉種の存在定義です」
雫は白衣の裾をぎゅっと握りしめた。
「あのベヒーモスは、ただの巨大魔獣ではありませんでした。ピラーが地底深くから汲み上げてしまう過剰なアストラル魔素を、体内に取り込んで循環させ、熱と圧力として逃し続ける、いわばピラーという巨大構造物の調圧弁だったんです」
部屋の空気が、さらに一段凍りついた。
「調圧弁」
「はい。本来なら、ピラーの過剰なエネルギーは受肉種が吸収することで均衡を保っていました。ですが、私たちが深層でベヒーモスを討伐し、その魔核を消滅させてしまった」
雫の瞳に、怯えの色が滲む。
「逃げ場を失った過剰な魔素が、ピラー中枢へと逆流しました。逃げ場のない高圧エネルギーが臨界に達し、あの大規模な第1種魔力衝撃波を引き起こしたんです。そして地上への変異魔獣のスタンピードを誘発し、今もなお地下インフラに魔素サージを噴出させている」
雫が息を詰まらせ、絞り出すように言った。
「私たちが、先生がベヒーモスを倒したせいで、この街の壊滅危機が引き起こされたのかもしれないんです」
頭の奥を、冷たい針で突かれたような感覚がした。
あの時、深層第33層の断崖テラス。
逃げ遅れた堂島たちの前衛部隊を救うため、俺は超長距離狙撃銃『黒曜』を展開し、1000メートルの彼方から引き金を引いた。
初速マッハ6.2の弾丸が、ベヒーモスの頭部中枢を一撃で粉砕した。
あれが。
あの時、俺が放った一撃が、東京ピラーの安全弁を破壊し、街を戦火に巻き込んだというのか。
鈴をシェルターへ追いやる原因を、俺自身が作っていたというのか。
指先が微かに強張る。
呼吸が浅くなりかけた、その時だった。
「バカ野郎が」
怒声ではなかった。
だが、低く重い親方の声が、研究室の冷気を一刀両断した。
佐伯親方が新しい煙草にジッポライターの火をつけ、紫煙を天井へ吹き上げた。
「おい、凌。じゃあ聞くがよ。あの時、引き金を引かなきゃどうなってた」
「それは」
「目の前でベヒーモスに踏み潰されかけてた堂島たち探索者を、見殺しにすりゃ良かったのか?」
親方の鋭い眼光が、俺の顔を正面から射抜いた。
「お前が撃たなきゃ、あの場で何十人もの探索者が肉塊になってた。あいつらを助けるために、手元の道具を使って最善の仕事をした。現場の職人が結果論で過去を悔やんでどうする」
「親方」
「机の上の数字で世界を語るのは学者の勝手だ。だがな、泥まみれで現場に立つ職人が、後から出てきた辻褄合わせに怯えて手を止めてどうすんだ。そんなもん、ただの傲慢だ」
親方の言葉に、一条が静かに頷いた。
壁から背中を離し、俺の肩へ黒鉄の手甲を嵌めた右手をドンと置いた。
「親方の言う通りだ、間宮」
一条の眼差しには、一切の迷いがなかった。
「お前が一人で背負い込む筋合いのものではない。あの現場にはアルス社もいた。ギルドもいた。何より、あの時ベヒーモスを討伐したのは、その場にいた全員の総意だ。もしその仮説が真実だったとしても、責任は討伐に関わった全員にある。お前一人に押し付けられてたまるか」
一条の手のひらから、じんわりとした体温が伝わってくる。
強張っていた指先から、すっと力が抜けた。
「雫」
俺はホワイトボードの前に立つ少女を見つめた。
雫は瞳を潤ませ、唇を噛み締めていた。
「ごめんなさい、先生。私、データを見て怖くなってしまって、先生を傷つけるようなことを」
「謝るな」
俺は首を横に振った。
「そのデータを出してくれたことに感謝してる。原因の仮説があるのとないのとじゃ、これからの備えがまるで違う」
俺はテーブルに置かれたアキュラの長剣に触れた。
冷たい鋼の感触が、掌に馴染む。
「仮説が正しかろうが間違っていようが、起きてしまった現実は変わらない。俺たちにできるのは、目の前の道具を手入れして、次に来る脅威から日常を守ることだけだ」
「先生」
「ピラーの魔素がまだ燻ってるなら、また湧いてくるかもしれん。その時に備えて、刃を研いでおく。それだけだ」
雫が白衣の袖で目元を拭い、小さく、しかししっかりと頷いた。
「はい! 私、このデータの追試を続けます。もし本当に調圧弁のメカニズムが存在するなら、魔素を外部から安定化させる術式だって、理論上は構築できるはずですから」
「ああ。頼む」
佐伯親方がふんと鼻を鳴らし、アキュラの刀身を手に取った。
「よし、湿気た話は終わりだ。凌、このアキュラ、昼間の戦闘で峰の励起レールにコンマ02ミリの歪みが出てるぞ。二重励起の衝撃に耐えきれてねぇ。今夜のうちに焼き直してやるから、置いていきな」
「助かります、親方」
時計を見ると、夜の9時半を回っていた。
「俺は帰る。鈴が夜泣きするといけない」
「おう。娘によろしくな」
「間宮、明朝の防壁巡回、俺も同行するぞ」
「助かる、一条」
研究室を出ると、夜風が火照った頬を冷やした。
見上げる夜空には、冷たくそびえる黒い東京ピラー。
懐で端末が短く震えた。志保さんからの、すやすやと眠る鈴の寝顔を撮った一枚だった。
俺は写真を親指で拡大し、非常階段の明かりの下で目を細めた。




