第087話:予期せぬ胎動と、緊急出動
非常招集のアラートが携帯端末を震わせたのは、午後3時過ぎだった。
リビングのソファでは、志保さんの膝の上で鈴がすやすやと寝息を立てている。
午前中の深層ゲート崩落の余波で、認可保育所は終日休園となっていた。
画面には、ギルド本部と防衛軍による連名の赤色緊急警報が点滅している。
【外郭第7区・地下雨水調整池にて高濃度魔素サージを検知。即応可能なCランク以上は至急現場へ急行されたし】
「行ってきな、凌くん」
志保さんが鈴の背中を優しく撫でながら、静かな声で言った。
「鈴ちゃんのことは任せて。陽菜も芽依も、隣で大人しくアニメ見てるから」
「すみません、志保さん。すぐ戻ります」
俺は防護ジャケットを羽織り、壁のラックから装備一式を手に取った。
超長距離狙撃銃『黒曜』は持っていかない。
現場は天井高15メートルの閉鎖水路だ。5分の設置時間も、1000メートルの直線射線も取れっこない。
腰に佩いたのは、アルス・テック社製の試作大型飛翔刃『アキュラ』の長剣2振りと、背嚢の左右に格納された小型ビット『レイヴン』2機。
閉所での近接戦闘に特化した、取り回しの最優先セットだった。
*
外郭第7区の旧工業水路管理棟前には、すでに葵と一条が待機していた。
「間宮さん、早い!」
コンバットスーツ姿の神崎葵が、ライフルを肩に掛けて手招きした。
その隣には、道着風のコンバットローブに身を包んだ帝都魔導アカデミーの武導研究員、一条岳が立っている。黒鉄の手甲を嵌めた拳を、軽く打ち合わせていた。
「遅いぞ、間宮」
「急行したんだがな。地下の状況はどうなってる」
「最悪よ」
葵が操作端末のホログラムを展開した。
「第7区の地下50メートルにある巨大雨水調整池。コンクリートの巨柱が並ぶ貯水空間なんだけど、そこを貫通してる【特区ライフライン幹線】が狙われてるの。居住特区全域の生活用水を送る太さ2メートルの送水管と、特別高圧送電ケーブル。ここを圧壊されたら、タワマンも病院もシェルターも、全部機能停止するわ」
「原因は」
「ピラーの魔素サージよ」
一条が低く唸るような声で継いだ。
「防壁地下の死角を伝って水路底に溜まったピラー魔素が、地下掘削型の魔獣を変異させた。現場の水位は膝下、足場は濁水だ」
「了解した。行くぞ」
俺たちは非常階段を一気に駆け下りた。
地下深くへ降りるにつれ、湿った空気の中に、ピラー特有の焦げ付くようなアストラル魔素の臭気が濃くなっていく。
頑丈な防水水密扉を押し開けた瞬間、生温かい風とともに、ズズズ、と大地を削り取る重低音が鼓膜を震わせた。
*
高さ15メートル、幅200メートルを超える地下巨大雨水調整池。
林立する数十本のコンクリート巨柱が、水没した神殿のように闇の中に立ち並んでいる。
足元には深さ20センチほどの濁った水が滞留し、一歩踏み出すごとに重い水音が反響した。
その最奥、東側の壁面だった。
青く発光する極太の送水管と、鋼鉄被覆の送電ケーブルが這う壁が、内側から激しく盛り上がった。
ドガァンッ!
爆薬を仕掛けたような破壊音とともに、厚さ1メートルの鉄筋コンクリートが粉砕された。
吹き飛んだ破片と泥水の煙の中から、巨体が這り出てくる。
体長10メートル。
全身を濡れた黒鉄色の鉱物外殻で覆った巨大土竜。四本の掘削爪がコンクリートを削り、背中の排熱スリットがエンジンのように赤熱していた。
「アビス・タイラント・モール!」
葵が叫び、腰のホルダーから小型ブレードビット『スワロー』2機を射出した。
「生体反応、通常の3倍! 外殻が硬すぎて正面からの攻撃は弾かれるわ! 弱点は背中の排熱口だけ!」
巨獣が水煙を巻き上げて咆哮した。
衝撃波で足元の水面が激しく波立ち、壁面の送水管がギシギシと悲鳴を上げる。
巨獣はパイプから漏れる冷気の配管に惹きつけられ、巨大な前脚を振り上げた。
あの一撃が落ちれば、特区のライフラインは即座に寸断される。
「一条、脚を止めろ!」
「応ッ!」
一条が水面を蹴った。
泥水を両側へ切り裂き、音速に近いフットワークで巨獣の右側面へ肉薄する。
巨獣が邪魔者を払おうと、電柱のような太さの左爪を横薙ぎに振り抜いた。
一条は身を沈めて水面すれすれを滑り込み、巨獣の右前脚の付け根へと潜り込んだ。
黒鉄の手甲を嵌めた両掌を、鉱物装甲の関節部へ密着させる。
「金剛勁・破甲打ッ!」
ドグォォォンッ!
地下空間全体を揺るがす打撃音が炸裂した。
外側の装甲を割るのではない。魔力を凝縮した超高周波の衝撃波を、内部組織へと直接浸透させるアカデミー秘伝の浸透打撃。
巨獣の右前脚の内側で、肉と腱が弾け飛ぶ音がした。
ギシャアァァッ!
巨獣が絶叫し、右脚の踏ん張りを失って水面へ激しく倒れ込んだ。
数トンの水しぶきが天井まで跳ね上がり、背部の赤熱した排熱スリットが、無防備に上空へ晒される。
「間宮、今だ!」
「アキュラ、ハイブリッド展開」
脳内の帯域を全開にした。生体魔力4スロット。
右手のアキュラ実体長剣は負荷0。頭上に励起されたアキュラ飛翔長剣が2スロット。左右の小型レイヴン2機で2スロット。
冷徹な同期感覚が神経系を駆け巡る。
「レイヴン、両目を潰せ!」
甲高い風切り音とともに、小型レイヴン2機が矢のように疾走した。
もがく巨獣の赤い複眼を、交差状に擦過する。
プチッ、と硬質ガラスが割れるような音が重なり、視界を奪われた巨獣が狂乱して頭部を振り回した。
俺は倒れたコンクリート片を駆け上がり、巨獣の真上へ跳躍した。
空中で右手を引き絞ると同時に、頭上の飛翔長剣アキュラが同一軌道で二重螺旋を描き始める。
佐伯親方の刃と、雫の回路。
狙うのは一条が崩した右脚の直上、赤熱した排熱スリットの最深部だ。
硬い甲殻を叩くのではない。熱の抜け穴から魔核へ至る継ぎ目を裂く。
「断ち切れ!」
手持ちの実体長剣がスリットの隙間へ吸い込まれた。
ガギィィンと激しい火花が散った瞬間、直上から飛来した飛翔長剣が、実体剣の峰へ正確に追突した。
二重励起。
単体の剣撃を超えた超重量の質量加速が、刃先へ一点集束する。
ズバァァァッ!
鉱物装甲が果実のように両断された。
刃は深部の脈打つ紫黒色魔核を、一刀のもとに両断した。
プツン、と何かが切れる感覚。
巨獣の全身から光の粒子が噴き上がった。
巨大な質量が泥水の中へ崩れ落ち、黒い霧となって地下の闇へと溶けていく。
*
水音が引き、静寂が戻った。
壁面の送水管には深い爪痕が刻まれていたが、破裂は免れていた。
特区のライフラインは、間一髪で守られたのだ。
「ふぅ、あー怖かった! 心臓止まるかと思ったわ!」
葵がライフルを下ろし、肩の力を抜いて息を吐いた。スワロー2機がホルダーへ戻る。
「見事な太刀筋だ、間宮」
一条が水飛沫を払いながら歩み寄ってきた。手甲の結晶はまだ熱を帯びている。
「あの微小な隙間に飛翔刃を重ねて叩き込むとはな。機械屋の道具も、使い手次第か」
「一条が脚を崩してくれたからだ。葵の索敵もな」
俺は実体長剣を鞘へ納め、飛翔アキュラを腰へマウントした。
レイヴンも背嚢へ収まる。
ふと、足元の泥水に落ちた巨大魔石を拾い上げた。
討伐直後の魔石は急速に冷えるはずだ。だが、この魔石はドクン、ドクンと規則正しい熱脈動を刻んでいた。
佐伯工房で雫が見せた、東京ピラーの【1.4倍の魔素と3秒周期のサイン波】と完全に一致している。
「地上防壁の戦いは終わったが、ピラーの魔素は地中でまだ燻ってるな」
「ええ。この水路の奥も、完全に抜けきってないわ」
葵が表情を引き締め、計器を見つめた。
誰も気づいていない地下で、確実に次の胎動が始まっている。
「一条、葵。ここは防衛軍に引き渡して撤収しよう」
「ああ、そうだな」
「報告書はまとめておくわ」
時計の針は午後4時10分を指していた。
「俺は先に戻る」
「はいはい」
葵が苦笑いしながら手を振った。
「鈴ちゃんの夕飯とお風呂でしょ。早く帰ってあげて」
「ああ。今日は鶏ササミと野菜の煮込みを作る約束だ」
俺は靴の泥を洗い流し、非常階段へ向けて歩き出した。
地中で燻る不気味な胎動の余韻を振り払うように、一段飛ばしで駆け上がる。
スーパーの特売時間には、まだ間に合う。鶏ササミと、鈴の好きな人参を多めに。
濡れた革靴の底が、乾いた地上のコンクリートを踏みしめた。




