第085話:瓦礫の奥と、置き去りの声
朝7時、タワーマンションの寝室に柔らかな朝の光が差し込んでいた。
昨夜の非常事態宣言を受け、特区内の認可保育所は終日臨時休園となっていた。
キッチンで卵と軟らかく煮た人参を刻み、鈴のための小さなオムレツを皿に盛る。
「ぱぱ、まんま?」
黄色いパジャマの鈴が、ペタペタと小さな足音を立てて歩いてきた。
まだ眠そうに目をこすりながら、俺の部屋着の裾にしがみついて見上げてくる。
抱き上げて子供用の椅子に座らせ、奇跡の銀匙を手渡した。
鈴は小さな両手でスプーンを握り、オムレツの端を器用にすくって口へ運ぶ。
銀の匙が触れた瞬間にふわりとほぐれた温かい卵が、小さな口いっぱいに広がった。
「えへー! あむあむ!」
満面の笑顔を咲かせる鈴の頭を撫で、俺は手早くトーストを腹に流し込んだ。
朝7時40分。
戦闘服を着込み、腰に剛鉈『アダマン・クリーバー』、背中にマットブラックの4連ポッドと、二振りの長剣『アキュラ』を固定する。
超長距離狙撃ライフル『黒曜』は、部屋のガンロッカーに残した。
狭い崩落坑道では、全長1.5メートル、重量25キロの据え置き兵装など振り回せない。設置に5分かかる大口径銃を使えるような射線は、瓦礫の山には存在しないからだ。
隣の部屋の呼び鈴を鳴らすと、スウェット姿の志保がすぐにドアを開けてくれた。
「おはよう、凌くん。鈴ちゃんなら任せて。陽菜も芽依も待ってるわ」
「ありがとうございます。昼には必ず戻ります」
志保の腕の中で、鈴が不思議そうに俺の装備を見つめた。
「ぱぱ、いってら?」
「ああ。いい子にしてるんだぞ」
鈴の小さな手のひらに触れ、俺は第1区の現場へと向かった。
*
午前8時、第1区中央ターミナル・深層進入ゲート。
普段は大型コンテナが行き交う巨大な地下エントランスは、完全に戦時救護所と化していた。
大型発電機のけたたましい重低音と重油の臭いが立ち込める中、防塵ベストを着た長谷川さんが駆け寄ってきた。
「間宮さん、こちらです!」
長谷川さんが指差した先。
深層への直通ルートである超深度高速シャフトと地下管制室が、天井ごと大規模崩落を起こし、鉄骨が飴細工のように圧壊していた。
「深層専門クラン『鉄塊の牙』の第3別動隊5名が、第28層手前の緊急退避シェルターに孤立しています。生体反応はありますが、外気供給ラインが断絶しました。残存酸素はあと1時間半です」
「重火器で瓦礫を吹き飛ばすのは?」
「不可能です。上部の岩盤が極めて不安定で、わずかな爆圧でも二次崩落が起きてシェルターごと全員が押し潰されます。大型のマナ・フレームも侵入できません」
狭小な瓦礫の隙間をすり抜け、岩盤を刺激せずに人を掘り出す。
それには刃物とビットを操る職人の手が必要だった。
「よぉ凌。こんなボロ穴掘り、俺たち下請けの出番だろ」
背後から、作業用パワードスーツ『V-RIG』を背負った坂東宗一郎が現れた。
両肩の多関節機械腕に油圧ジャッキを鈍く光らせている。
「坂東、お前も招集されたのか」
「当たり前だろ。現場の瓦礫撤去なら、うちのV-RIGの右に出るもんはいねぇからな。だが凌、俺が油圧ジャッキで岩盤の荷重を受け止められる隙間は、幅60センチが限界だ。油圧の寿命から考えて保って15分。その間に潜って、奥のシェルターから連中を引っ張り出してこい」
「15分だな。十分だ」
俺は背中から長剣『アキュラ』の右手を抜き放った。
刃渡り1.2メートル、深層削岩大鉤爪の基部から削り出された黒銀の刀身。
「アキュラ、展開。ハイブリッドモード」
カチリ、と背部の励起回路が青い光を帯びた。
背部ポッドから小型レイヴン2機が射出され、両肩の脇で静止する。
そして鞘に残したもう1振りのアキュラが、二重螺旋の魔導光を帯びて頭上30センチの空中に水平浮遊した。
手持ち実体剣、頭上飛翔剣、小型ビット2機。閉所における最適解の4スロット陣形だ。
「行くぞ、坂東。ジャッキを噛ませろ」
「応ッ! 死んでも支えててやるから、さっさと戻ってこい!」
坂東の機械腕が唸りを上げ、油圧シリンダーが岩盤の亀裂へと突き刺さった。
ギギギと悲鳴を上げ、数トンの巨岩がわずかに持ち上がる。
俺は身体を滑り込ませ、暗黒の隙間へと飛び込んだ。
*
亀裂の内部は、漏れ出た高濃度魔素がチリチリと大気を帯電させていた。
天井は頭上わずか2メートル。少しでも刃先を当てれば即座に落盤する。
シューッと湿った威嚇音が響いた。
崩落土砂の裂け目から、青黒い岩石甲殻を持つロックシェル・リザードが3頭。
さらに天井の配管から、太い針のような脚を持つ硬殻蜘蛛アーマード・スパイダーが4頭降りてくる。
「レイヴン、死角の関節を潰せ」
両脇の小型レイヴン2機が音もなく滑空した。
突進してきたリザードの顎下、装甲の継ぎ目へ高周波刃が吸い込まれる。
ギャッと短い悲鳴。腱をピンポイントで断ち切られた先頭が崩れ落ちた隙に、俺は足元を滑らせて踏み込んだ。
右手に握ったアキュラを、下段から水平へと滑らかに払う。
岩盤を一切擦らない、ミリ単位の刃筋。
ズバッと抵抗のない手応えとともに、リザードの首筋が骨ごと綺麗に両断された。
直後、天井からアーマード・スパイダーが頭上へ落下してくる。
キィィンと頭上で硬質な励起音が鳴った。
飛翔アキュラが青い軌跡を描いて天井すれすれを水平旋回し、蜘蛛の脚部を精密に刈り取る。
落下してきた胴体に対し、俺は振り返りざまに手持ちの剣で中枢核を一突きにした。
瓦礫を一つも崩さず、壁面を一ミリも傷つけることなく、7頭の変異迷宮種がわずか20秒で塵へと還った。
「時間がない」
通路の突き当たりに、土砂で半分埋もれた鋼鉄の耐圧気密扉が見えた。
歪んだレバーの隙間にアキュラの切っ先を差し込み、テコの原理で一気に押し上げる。
プシューッと淀んだ空気が抜け、扉が開いた。
薄暗い非常灯の下、酸欠で倒れ込んでいた『鉄塊の牙』の探索者5名がいた。
「ギルドの救助だ。動ける者は立て、動けない者は肩を貸す」
「すまねぇ。2人、脚を瓦礫に挟まれて骨が折れてる」
重傷者を背負い、もう1人の脇を抱えさせる。
殿に飛翔アキュラを配置し、崩落坑道を一気に駆け戻った。
前方の亀裂の向こうで、坂東の怒号が響く。
「凌ッ! 早くしろッ! シリンダーのパッキンが吹き飛ぶぞッ!」
V-RIGの油圧ユニットから凄まじい白煙が噴き出していた。
「先に出ろ!」
負傷者を次々と隙間から押し出す。
最後の大柄な男を押し出し、俺自身が身を滑り込ませたその瞬間、
バチンッ! と金属が破断する鋭い音が響いた。
「限界だ! 跳べぇぇッ!」
俺は坂東の作業ベルトを掴み、後方へ全力で飛び退いた。
ズドドドドォォンッ!
天井の巨大な岩盤が崩落した。
数千トンの土砂が一瞬で坑道を飲み込み、完全な瓦礫の壁となって塞ぎ止める。
凄まじい爆風に煽られ、俺と坂東は床に叩きつけられた。
「はぁ、はぁ。生きてるか、凌」
「ああ。なんとか骨は無事だ」
救出された5名がストレッチャーで医務室へ運ばれていく。
だが、その安堵を切り裂くように、館内スピーカーから冷徹なアナウンスが響き渡った。
『全作業員に通達します。第1区深層進入ゲートにおいて、第28層以深の坑道が完全に圧壊・埋没しました。これより特殊速硬性生コンクリートの圧入を開始、物理的な完全封鎖を実施します。同時に、東京ピラー地下大迷宮における深層探索を【無期限全面凍結】とします』
重い沈黙が広がった。
人類が30年かけて開拓してきた深層の富が、完全に途絶えた瞬間だった。
「終わっちまったな」
坂東が冷たい缶コーヒーのプルタブを引きながら呟いた。
遠くでコンクリートミキサー車の唸りが響いている。
「深層が止まれば経済はガタガタだ。これからどうなるんだろうな、この街」
「どうなろうと、俺たちのやることは変わらないさ」
缶コーヒーを一気に飲み干す。
コンクリートで蓋をしても、昨夜雫が見せてくれたあのピラーの脈動が消えたとは思えない。
だが、時計の針は午前11時半を指していた。
「坂東、俺はもう上がる。昼までに戻る約束だからな」
怪訝な顔をする坂東に背を向け、俺は出口へと歩き出した。
地上へ出ると、冷たい秋の風の向こうに、東京ピラーが静かにそびえ立っていた。
スーパーで鶏肉と野菜を買い、タワマンへ帰ろう。
鈴の待つ、温かい昼飯のために。




