第084話:回線が繋がった夜と、孤立した東京
地下3階の第1種強化防護シェルターに、低音のチャイムが響いたのは午前2時を回った頃だった。
天井の非常用スピーカーから、特区防護本部の女性オペレーターの声が流れる。
『全区画の住民に通達します。外郭第3防壁ラインにおける地上変異魔獣の掃討、および特区外周の安全確認が完了しました。一次避難指示を解除します。各自、係員の誘導に従い、頭上に注意して帰宅を開始してください。なお、外部通信網は依然として復旧作業中となっております』
硬質なアナウンスが終わると、シェルター内に押し込められていた数十組の家族から、重い吐息と擦れるような衣擦れの音が広がった。
泣き叫ぶ子供はいなかった。誰もが疲労で顔を青白くし、毛布を畳む指先をわずかに震わせている。
「凌くん、荷物はこれだけよ」
志保が、陽菜と芽依の着替えが入った大型の防災リュックを背負いながら言った。
俺は頷き、簡易ベッドから鈴を抱き上げた。
抱っこ紐を肩に通し、小さな身体を胸元に固定する。鈴は一度だけ「うぅ」と小さく身じろぎをしたが、俺の胸に額を押し当てたまま、規則正しい温かい寝息を立て続けた。泥水と火薬の臭いが残る俺の戦闘服に、小さな鼻先を埋めて安心しているようだった。
「志保さん、俺が陽菜ちゃんを抱えるか、荷物を持ちます」
「大丈夫、これくらい元Bランクの足腰なら朝飯前よ。それより凌くん、怪我の手当てはちゃんと済んだの?」
「擦り傷と打撲だけです。さっき救護所で消毒液を塗ってもらいました」
エレベーターシャフトは安全確認のため全機が緊急停止していた。
非常階段の非常灯が落とす緑色の陰影の中、俺たちは一段ずつ、靴音を忍ばせながら地上へと登った。
タワーマンションの32階。非常階段を上り切る頃には、さすがの志保も額に薄っすらと汗を浮かべていた。
「じゃあ、凌くん。今夜は泥のように寝なさい。鈴ちゃんも本当によく頑張ったわ」
「志保さんも。陽菜ちゃん、芽依ちゃん、おやすみ」
「うん。おじちゃん、ばいばい」
目をこする陽菜の頭を軽く撫で、隣の部屋のドアが閉まるのを見届けてから、俺は自宅の鍵を開けた。
玄関に入り、靴を脱ぐ。
部屋の中は、昼前に飛び出した時のままだった。
テーブルの上には、朝食で使った鈴の小さなシリコン製マグカップと、食べかけのボーロが入った小皿がそのまま残されている。窓の外を見やると、遠くの街並みは街灯の半分以上が消え、冷たい闇の中に沈んでいた。
その中央に、あの巨大な東京ピラーが、墨を流し込んだような黒々としたシルエットで夜空を貫いている。
俺は音を立てないよう慎重に抱っこ紐を外し、鈴を寝室のベビーベッドへ横たえた。
靴下を脱がせ、汗を吸った黄色いトレーナーを静かに脱がせ、清潔な綿のパジャマに袖を通す。
鈴は小さな口をもごもご動かし、枕の端を握りしめたまま、すやすやと深い眠りに落ちていた。
洗面所で泥まみれの戦闘服を脱ぎ捨て、熱いシャワーを短く浴びた。
肩の打撲痕が赤黒く変色していたが、骨に異常はない。底を突きかけていた魔力も、身体の芯からゆっくりと巡りを取り戻しつつあった。
古びたスウェットに着替え、居間のソファに腰を下ろす。
テーブルの上に置いた探索者端末の画面をタップした。
画面右上のアンテナピクトは、依然として斜線の入った「圏外」の文字を示している。
ギルドや防衛軍の基地局を結ぶローカルの短距離回線は生きているが、山手線外周を越える長距離ケーブルや、静止軌道上の通信衛星へのアップリンクは、すべてノイズの海に呑まれたままだった。
外界から完全に切り離された、巨大な陸の孤島。
いま、この街の外で何が起きているのか。
大阪や福岡のピラーはどうなったのか。海の向こうの世界はどうなっているのか。
それを知る術は、誰一人として持っていなかった。
壁の掛け時計が、カチリと音を立てて午前3時12分を指した。
その瞬間だった。
ブ、とテーブルの木肌を震わせる低い振動が走った。
画面が不意に明滅する。
圏外を示す赤いアイコンがふっと消え、アンテナピクトが1本、2本、3本と立ち上がった。
画面中央に、緑色のインジケーターが点灯する。
『広域魔導衛星リンク:再接続完了』
『東日本基幹光通信網:同期確立』
直後、端末が狂ったように震え始めた。
ピピピピ、ポロン、ブブブブと、重なり合う電子音が部屋の静寂を切り裂く。
俺は飛び起き、咄嗟に端末を掴んで音量ボタンを連打した。寝室のドアの隙間から漏れる鈴の寝息を確かめ、マナーモードへ切り替える。
手の中で、端末はまだ小刻みに震え続けていた。
画面上部から、通知の濁流が滝のように雪崩れ込んでくる。
不在着信が47件。
メッセージ未読が328件。
アルス社の倉田チーフ、タケ、坂東、葵。
『無事か! 連絡寄越せ!』
『凌、生きてるよな? 第3防壁守り切ったぞ!』
『間宮さん、シェルターの鈴ちゃんの無事は確認しました。葵も無事です』
仲間たちからの生存確認に混じって、国内外の大手通信社や報道機関からの緊急プッシュ通知が、画面を埋め尽くしていった。
『速報:東京防壁都市、外部通信網が8時間ぶりに復旧』
『WSOジュネーブ本部が緊急声明:東京ピラーの励起現象は「単独事象」と断定』
『ロンドン、ニューヨーク、カイロ等、世界11大ピラーに異常なし。魔素ベースラインは完全平常値を維持』
俺は画面に表示された文字を、何度も目でなぞった。
「東京だけ、だと?」
喉の奥から、乾いた呟きが漏れた。
30年前、世界各地に突き刺さった12本の巨塔。そのうち東京のこの1本だけが、前触れもなく脈動し、地下の迷宮種と防壁外の魔獣を地上へ解き放ったのだ。
他都市に被害がないのは、紛れもない朗報だ。世界規模の崩壊ではない。
だが、なぜ東京だけなのか。30年前の悪夢を知る古参兵の言葉が、脳裏に蘇る。原因が分からないということは、次がいつ来るかも分からないということだ。
通知の嵐は止まらなかった。
動画配信プラットフォームのトレンド1位には、【速報】東京ピラー単独励起の文字。2位に鳴神駿の単騎封殺、3位に謎の二重長剣と、俺たちの戦いがそのまま並んでいた。
草薙怜奈の『シーカーズ・アイ』が緊急生配信で、防壁カメラの粗い戦闘映像を淡々と解説している。夜空を切り裂いた黒曜の閃光と、ワイバーンを両断したアキュラの青い軌跡。
コメント欄には『あの狙撃手誰だよ!?』『二振りの長剣が勝手に飛んでボス解体したぞ』の文字が、秒速数百件の勢いで流れ続けていた。
画面を閉じようとした瞬間、メッセージアプリがピコンと短い着信音を鳴らした。
送り主は、ギルド特区支所の長谷川さんだった。
『間宮さん。無事は確認しています。回線復旧と同時に、国内外のメディアや動画勢からギルド窓口へ、第3防壁の射手とビット使用者の照会が殺到しています。すべて「探索者の個人情報および防衛機密に該当するため非公開」として一蹴しました。余計な取材には一切応じる必要はありません。今夜は鈴ちゃんとゆっくり休みなさい』
文面から、冷徹に受話器を叩きつける長谷川さんの鉄面皮が目に浮かぶようだった。
俺が小さく息を吐いた直後、そのメッセージの末尾に、事務的な一文が追加された。
『ただし、業務連絡です。明朝08:00、第1区中央ターミナル深層進入ゲート前へ出頭してください。第28層以深の大規模崩落により、深層に取り残された探索者部隊の救助作業を行います。坑道が狭隘化しており、重火器は使用不可。アキュラとレイヴンを携行してください』
救助要請。
さっき防壁で長谷川さんが言っていた、生き埋めになった探索者たちのことだ。
重火器が使えない狭い崩落坑道。岩盤を崩さずに魔獣だけを排除し、人を掘り出すには、刃物とビットを操る職人の手が必要になる。
「了解。アキュラの整備を済ませて向かいます」
短く返信を送信し、画面を伏せようとした時。
端末が、再び微かに震えた。
通話画面に表示された名前は、如月雫だった。
通話ボタンをスワイプし、スピーカーを耳に当てる。
「もしもし、雫か」
『あ、間宮さん。夜分遅くに申し訳ありません。起きていらっしゃいましたか』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、佐伯工房の研究室特有の、空調の唸りとキータッチ音だった。
雫の声はかすれ、張り詰めた疲労が滲んでいた。
「ああ、起きてる。回線が戻ったな。怪我はなかったか」
『はい。工房の防護障壁は無事でした。親方も倉田チーフも、資材の点検で起きています。それより間宮さん、先ほどWSOから発表された公式見解を、ご覧になりましたか』
「見た。東京ピラーだけが単独で起動した、世界11本には異常なし、というやつだな」
『はい。ですが、それはあくまで「外見上」の話です』
雫が言葉に詰まる気配が、スピーカーを通してはっきりと伝わってきた。
端末の画面に、暗号化されたデータストリームの受信通知が表示される。
研究室のメインモニターのテレメトリーデータが、俺の端末へリアルタイムで共有された。
「これは」
画面に映し出されたのは、東京ピラーの深部魔素を測定した時系列グラフだった。
通常時のベースラインを示す青い基準線に対し、現在の測定値を示す赤い折れ線は、1.4倍の高さに張り付いたまま、ピクリとも下がっていなかった。
そして、その赤い線の微細な揺らぎを拡大した波形が表示されていた。
等間隔で刻まれる、規則的な微小サイン波。
山と谷が、約3秒に一度の周期で、大気の奥底を刻み続けている。
『地上の魔獣が退いた後も、ピラーの魔素放出量は通常値に戻っていません。それどころか、この波形を見てください』
「波形?」
『ランダムなノイズではありません。一定の振幅と周期を持った、極めて秩序立った魔力脈動です。まるで、巨大な何かの心臓の鼓動のように』
雫の指先が、キーボードの上で小さく震えているのが伝わってくるようだった。
『WSOは「事象は沈静化し、局地的な孤立事象」と発表しました。世間もそれで安心し切っています。でも、このピラーは眠っていません。エネルギーを吐き出し終えて休止したのではなく、この高い出力のまま、何かを待つように静かに息を潜めているんです』
俺は画面に刻まれる、脈動のグラフを見つめた。
ドクン、ドクンと、黒い巨塔が地中で静かに血を巡らせているかのような、無機質な波形。
理屈は分からない。学術的な説明も俺にはできない。
だが、刃物を研ぎ、肉と骨を切り分けてきた現場の直感が、背筋の産毛を逆立たせていた。
終わっていない。
地上の変異魔獣を蹴散らし、防壁を守り切ったのは、ただの序章に過ぎない。
この街の足元深くに突き刺さった巨塔は、まだ確実に生きている。
「雫」
『はい』
「今夜はもうログを閉じて、仮眠を取れ。親方と倉田さんにもそう言ってくれ」
『ですが、このデータをギルド本部に』
「長谷川さんには俺から明日の朝、直接伝える。今夜のお前たちがこれ以上画面を睨んでいても、ピラーは止まらねぇよ。道具を握る人間が倒れたら、次の時に誰も動けなくなる」
受話器の向こうで、雫が息を詰め、それから「はい」と短く答えた。
『分かりました。すみません、取り乱してしまって』
「いい。よく気づいてくれた。助かったよ」
『鈴ちゃんは、ご無事ですか』
「ああ。隣のベッドで、毛布にくるまって熟睡してる」
『よかった。本当によかった。それでは失礼します。間宮さんも、少しでも身体を休めてください』
通話が切れた。
黒く静まり返った画面を見つめ、俺は端末をテーブルの上に置いた。
立ち上がり、寝室のドアを静かに開ける。
常夜灯の淡いオレンジ色の光に照らされたベビーベッド。
鈴は小さな両手をバンザイの形に広げ、規則正しい呼吸を繰り返していた。ぷにぷにした頬が、毛布の温もりでほんのり赤らんでいる。
俺はベッドの脇に膝をつき、その小さな手のひらに、そっと人差し指を触れた。
鈴の小さな指が、無意識にきゅっと俺の指を握り返してきた。
世界がどう報じようと、東京の足元にどんな怪物が潜んでいようと。
俺がやるべき仕事は、最初から何一つ変わっていない。
「明日は、忙しくなるな」
俺は指を握る小さな温もりにそっと呟いた。
明日の朝8時には、第1区の崩落ゲートへ行かなければならない。
取り残された探索者を助け出し、坑道を切り開く。夕方には必ず、この部屋へ戻ってくる。
東の空が、夜の帳をわずかに脱ぎ捨て、紫がかった未明の青へと変わり始めていた。
通信が戻った街に、冷たく静かな朝が近づいていた。




