第083話:静まった街と、消えない疑問
荒野に転がる無数の骸から立ち上る黒煙が、夜の闇に溶けていく。
防衛軍の第2陣が到着し、第3防壁の破損箇所に仮設の有刺鉄線と防護バリケードが展開された頃、時計の針はすでに夜の22時を回っていた。
「間宮、歩けるか?」
タケが、ひび割れた大盾を肩に担ぎ直し、疲弊しきった足取りで近づいてきた。
道着の袖を血で染めた一条岳も、無言のまま短く息を吐いて頷く。
防壁のキャットウォークを降りると、足元には剥がれ落ちたコンクリート片と、変異魔獣の乾きかけた体液が泥のように堆積していた。
「ああ。何とかな」
俺は両腰のアキュラの感触を確かめながら答えた。
全身の関節が重く軋み、黒曜を撃ち続けた右肩には鈍い痛みが残っている。
地上ゲート前では、衛生兵が担架を担ぎ、装甲板をボロボロに引き裂かれたセラフィム・キャノンごと橘を運び出しているところだった。
背負い具を外してもらった橘は、いつもの芝居がかった身振りを見せる余力もなく、泥にまみれた顔で俺たちを一瞥すると、片手を小さく上げて整備車両の荷台へと倒れ込んだ。
坂東もまた、油圧ホースが千切れた機械腕を雑嚢に押し込み、無言で作業トラックの助手席へと乗り込んでいった。
街へと通じる軍用道路には、救急車と魔導ストレッチャーの赤色灯が帯のように連なっていた。
けたたましいサイレンが遠近の境目なく重なり合い、夜空を切り裂き続けている。
歓声など、どこにもなかった。
敵の津波を押し返したのは事実だ。
だが、すれ違うストレッチャーの上には、シーツで顔まで覆われた搬送者が何人も横たわっていた。
防壁を守り抜いた代償は、現場の誰もが言葉を失うほどに重かった。
*
第7外郭門のギルド出張所。
プレハブ建ての建物の前には、泥と血に汚れた探索者たちが群がり、騒然とした空気が充満していた。
自動ドアをくぐると、消毒液と焦げた魔素の臭いが鼻を突く。
カウンターの奥で、長谷川さんが髪を乱暴に束ね直し、受話器を握りしめながら端末を猛烈な速度で叩いていた。
「間宮さん!」
俺たちの姿を認めた長谷川さんが、受話器を置いて駆け寄ってきた。
目の下には濃い青紫色の隈が浮き出ている。
だが、俺たちの全身を一通り見回すと、強張っていた肩の力をわずかに抜いた。
「全員、生きて戻ったのね。よかった、本当に」
「長谷川さん、被害状況は?」
葵が小脇に抱えた愛銃のセーフティを確認しながら問いかける。
長谷川さんの表情が、再び冷たく引き締まった。
カウンター上部の大型モニターを顎で指し示す。
「最悪よ。第1区の中央ターミナル、深層進入ゲートの真上で大規模な落盤が発生したわ。深度3,000メートルへ続く昇降シャフトが、第28層から第33層にかけて完全に圧壊。地下管制室とも連絡が取れなくなっているの」
「落盤!?」
タケが顔をこわばらせた。
「じゃあ、深層に残ってた探索者はどうなったんだよ!?」
「さっき間宮さんが救助した120名を除いて、残りの隊の安否確認は絶望的よ。ギルド本部から先ほど、公式に通達が出されたわ」
モニターの赤いアラート枠に、冷酷な文字が点滅していた。
『緊急通達:第1区深層進入ゲートおよび連絡坑道の壊滅的破損を確認。探索者の安全確保のため、第31層以降の深層エリアへの立ち入りを、当面の間、無期限で全面凍結とする』
深層の全面凍結。
探索者たちにとって、それは最も実入りのいい狩場が物理的に消滅したことを意味していた。
ロビーのあちこちから、呻くようなため息と怒号が漏れ聞こえてくる。
「それだけじゃないわ」
長谷川さんはカウンターの端末をこちらに向けた。
画面の右上、通信ステータスのアイコンが赤く光っている。
「外部通信が、まだ完全に死んでいるの」
「まだ復旧しないのか?」
俺はポケットから自分の端末を取り出し、画面を確認した。
アンテナピクトは『圏外』の赤字のまま、一向に電波を拾う気配がない。
「都市内部の専用有線ローカル回線しか生きていないわ。ピラーから放たれた高濃度のアストラル嵐が、都市上空の電離層を焼き切ったような状態よ。他都市への長距離通信も、海外の通信衛星も、一切の応答がない」
長谷川さんは乾いた喉を鳴らし、掠れた声で続けた。
「つまりね、今の私たちには、この東京以外の場所で何が起きているのかが分からないのよ。この異変が東京だけの局地的なものなのか、それとも世界中にある他の11本のピラーでも同じ悪夢が同時に起きているのか、確かめる術が、今の私たちにはないの」
世界から切り離された、巨大な孤島。
その言葉の重みに、ロビーの空気が一段と冷え込んだ。
*
ギルドを後にした俺と葵、一条は、破損した装備を預けるため、第7区の佐伯工房へ足を運んだ。
深夜の作業場には、焼き入れの炉の火が赤々と燃えていた。
佐伯親方が無言でアダマン・クリーバーと黒曜を受け取り、刃先の微小な欠けとライフリングの摩耗を職人の目で確かめる。
アルス社の倉田チーフも、油まみれのツナギ姿で葵のスワローの偏向シールド発生器を分解していた。
「よく生きて帰ってきたな」
親方が短く煙草の煙を吐き出した。
「武器は置いていけ。明日の朝までには叩き直してやる」
「すまない、親方」
俺は頭を下げ、作業場の奥、プレハブの研究室へと向かった。
蛍光灯の下で、如月雫が数式とグラフがびっしりと並んだ液晶モニターを食い入るように見つめていた。
机の上には、飲みかけの冷え切った缶コーヒーが何本も転がっている。
「如月」
一条が声をかけると、雫がハッと肩を震わせて振り返った。
血走った瞳。だが、その光は異様な緊張を宿していた。
「先輩、間宮先生! 無事だったんですね」
「観測データはどうなってる?」
俺の問いに、雫はキーボードを叩き、中央のメインモニターへ波形ログを展開した。
「ピラーの魔力衝撃波そのものは、地上迎撃戦の終結とともに急速に減衰しました。ですが」
雫の指先が、グラフの底を走る緑色の基底ラインをなぞった。
「見てください。背景魔素の放出量が、事態発生前の通常値に戻っていません。通常基準値の約1.4倍。しかも、この波形」
画面を拡大すると、横一直線になるはずの基底ラインが、細かく、規則的な微小サイン波を描いて震えていた。
まるで、巨大な心臓が浅い呼吸を繰り返しているかのような脈動。
「ピラーは鎮静化したのではなく、活動レベルを引き上げたまま、不安定なアイドリング状態に入っています。海の表面の波は収まりましたが、海底の水は沸騰したまま冷めていない、そんな状態です」
雫の声が微かに震えた。
「なぜ30年ぶりにピラーが起動したのか、その原因は私たちの観測機器では一切特定できませんでした。そして、この脈動が何を意味しているのかも分かりません。いつ再び、先ほどのような大爆発を起こしてもおかしくないんです」
静寂が研究室を満たした。
誰も口を開かない。
敵を倒し、防壁を守り抜いたはずだった。
だが、現実は何一つ解決していなかった。
東京の地下深くに突き刺さるあの巨大な金属柱は、今も正体不明のまま、都市の喉元に冷たい刃を突きつけ続けているのだ。
「分かった」
俺は息を静かに吐き出し、背嚢を持ち上げた。
「雫、無理をしすぎるなよ。少しは横になれ」
「はい。先生も、お気をつけて」
研究室を出ると、夜風が火照った肌を冷たく撫でた。
街の灯りは大半が消え、遠くの非常用発電機の唸りだけが低く響いている。
俺は歩調を速めた。
向かうべき場所は、もう一つしかなかった。
*
安全居住特区、タワーマンションの地下3階。
厳重にロックされた第1種強化防護シェルターの重厚な金属扉を、管理用カードキーで解錠した。
シューッと油圧の減圧音が響き、厚さ1メートルのチタン合金扉がゆっくりと内側へ開く。
換気システムの作動音だけが静かに流れる薄暗い避難通路。
奥の簡易居住区画へ足を踏み入れると、折りたたみベッドの脇に座っていた人影が、すっと立ち上がった。
早川志保だった。
「凌くん」
志保は乱れた髪をそのままに、胸元に手を当てて駆け寄ってきた。
俺の泥だらけの戦闘服を見つめ、目元をわずかに潤ませる。
「無事だったのね。本当によかった」
「志保さん、子供たちは?」
俺が掠れた声で尋ねると、志保は柔らかく微笑み、背後の仕切りカーテンをそっと引いた。
簡易ベッドの上。
厚手の防災毛布にくるまり、4歳の陽菜と2歳半の芽依が、互いの手をぎゅっと握り合いながら静かな寝息を立てていた。
そしてその隣で。
小さな毛布の端が、もぞもぞと動いた。
パサリと毛布がめくれ、黄色いトレーナーを着た小さな身体が、起き上がった。
乱れた柔らかい髪。
眠たそうに小さな手で目をこすっていた鈴が、通路の光の中に立つ俺の姿を認めた。
鈴の小さな身体が、びくりと震えた。
「ぱぱ?」
短い足が、ベッドからトスンと床に降りた。
靴下を履いた小さな足取りで、ペタペタと懸命にこちらへ駆け寄ってくる。
転びそうになりながら、両手を大きく広げて。
「ぱ、ぱぱ!」
その声を聞いた瞬間、俺の全身の強張りが一気にほどけた。
俺はその場に膝をつき、泥や火薬の汚れを気にする間もなく、駆け込んできた小さな身体を両腕でしっかりと抱き止めた。
ぎゅっ、と首元に回される小さな腕。
耳元で聞こえる、柔らかな呼吸。
胸の中に広がる、確かな温もり。
「ただいま、鈴」
俺の掠れた声に、鈴は額を俺の首筋にすり寄せながら、小さく呟いた。
「あい」
小さな手のひらが、俺の汚れた肩をトントンと叩いていた。
まるで、戦ってきた俺を労うかのように。
「いい子にしてたわよ」
志保が、温かい眼差しで俺たちを見つめながら囁いた。
「サイレンが鳴っても、陽菜や芽依が泣いても、この子は一度も泣かなかった。ずっとね、ドアの方を見て、待ってたのよ」
胸の奥が、熱いもので満たされていく。
俺は鈴の背中を、壊れ物を包むように優しく撫でた。
シェルターの天井に埋め込まれた小さな強化ガラス窓の向こう。
夜の帳に包まれた東京の空に、黒々とした東京ピラーの巨躯が、街を見下ろすように冷たくそびえ立っていた。
街の傷は深い。
深層は閉ざされ、数多くの探索者が瓦礫の下に消えた。
外部との回線は途絶えたままで、外の世界がどうなっているのか、誰一人として知る術はない。
そして、あの金属柱がなぜ起動し、次にいつ牙を剥くのかという疑問は、何一つ解明されていない。
だが。
腕の中で静かに寝息を立て始めた、この小さな温もりだけは。
今日という一日を、泥水をすすりながら戦い抜いた果てに、確かに守り切ったのだ。
「次に何が来ても」
俺は眠る鈴の額に軽く触れ、夜の静寂に向かって静かに誓った。
「俺が、絶対に守る」
通信の途絶えた暗い街の片隅で、父と娘の夜が静かに更けていった。
お読みいただきありがとうございます。
ここまでで第10章が区切りとなりました。
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