第079話:地上に牙を剥く獣たちと、逃げ込むシェルター
ウオオォォン、ウオオォォン。
重苦しい低音の警報サイレンが、安全居住特区の空を切り裂くように響き渡っていた。
都市の全域に設置された防災スピーカーから、電子音声による避難勧告がけたたましく繰り返される。
『警戒レベル4発令。全市民に告ぐ。外郭第3防壁ライン外周において、変異魔獣群の大規模な活性化を確認。直ちに最寄りの指定防護シェルターへ退避してください。繰り返す。全市民は速やかに指定防護シェルターへ退避してください』
特区の大通りは、一瞬にして騒然となった。
普段なら平穏な買い物客や散歩中の住民で賑わう歩道を、誰もが青ざめた顔で走り出し、建物のエントランスへと押し寄せていく。
だが、その混乱の渦を、鋭い眼光で見据える女性がいた。
早川志保だ。
「陽菜、芽依、鈴ちゃんの手を絶対に離しちゃダメよ!」
志保は保育所のエントランスで、3人の子供たちの手を固く結ばせていた。
4歳の長女・陽菜が防災頭巾をしっかりと押さえ、小さな声で頷く。
「うん! お姉ちゃんだから、鈴ちゃんの手、ぎゅってしてる!」
「芽依も、ぎゅーする!」
2歳半の芽依も、鈴の左手を小さな手で包み込んだ。
両脇を挟まれた鈴は、黄色いトレーナーの裾を引かれながら、二人の歩調に合わせてトタトタと一生懸命に短い足を動かしていた。
怖がる様子はない。ただ、頭上のサイレンの音に耳を澄ませるように、時折きょとんと空を見上げている。
「いい子たちね。そのままエレベーターホールへ急ぐわよ!」
志保はジャケットの裾を払い、右手を腰のシースへと伸ばした。
革ベルトに収められているのは、現役時代に愛用していた高硬度魔導ダガーだ。
引退してからは手入れの時しか握らなかった獲物の柄が、手のひらに冷たい感触を伝える。
元Bランク索敵担当としての血が、身体の芯で静かに沸き立っていた。
凌は命を懸けて深層の救助へ向かった。
ならば、この地上で子供たちを守り抜くのは、自分の役目だ。
タワーマンションの地下連絡通路。
避難する住民たちの群れを押し分け、志保は子供たちをかばいながら前へ進んだ。
壁の非常用モニターには、外郭防壁の監視カメラ映像が生中継されていた。
見渡す限りの荒野の地平線。
その彼方から、砂煙を天高く巻き上げながら、黒い絨毯のような大群が押し寄せていた。
防壁都市へ向かって全速力で突進する、変異魔獣アストラル・ビーストの群れだ。
壁のインターホンから、防衛軍とギルドの緊迫した無線交信が漏れ聞こえてくる。
『外郭第3ライン、監視センサー網から警告! 平原の変異魔獣が防壁に向かって殺到しています!』
『数が多すぎる! アストラル・ビーストだけじゃない、普段は単独行動の大型甲殻種まで群れに合流している!』
『ピラーの中枢波形と魔獣の脳波が共鳴しているぞ! ダンジョンの内部崩壊と地上の大スタンピードが完全に同時発生している! 二正面だ!』
通信兵の悲鳴のような報告に、避難民の足取りがさらに早まり、押し合いの怒号が響いた。
子供連れの志保たちへ、逃げ惑う大人の肩がぶつかりそうになる。
「危ない!」
志保が反射的に身を滑り込ませ、ダガーを握った左腕で群衆の圧力を押し返した。
その瞬間、前方の曲がり角から硬いブーツの足音が響いてきた。
「志保さん!」
青いコンバットスーツを纏い、愛銃ヴァルキリーを小脇に抱えた神崎葵だった。
両肩のドックには、2機の燕型ビット『スワロー』が青い待機光を放ちながらマウントされている。
「葵さん!」
「よかった、追いつけた! 子供たち、怪我はありませんか!?」
「ええ、みんな無事よ。葵さん、外の状況は!?」
葵は鋭い目線を防壁の方角へと向け、短く告げた。
「最悪です。防壁外の平原全域で、魔獣が示し合わせたように防壁ゲートへ向かって突進を始めています。防衛軍の第3師団が全戦力を前線へ投入していますが、先頭集団が防壁の第1阻止ラインへ到達するまで、あと15分もありません」
「15分!」
志保が奥歯を噛み締めた。
地上でのこれほど大規模な魔獣の活性化は、30年前の降柱事象以来だ。
「私はこれから、アルス・テックの迎撃部隊と合流して外郭ゲートの防衛ラインへ向かいます。間宮さんが深層から戻ってくるまで、地上の防壁を破らせるわけにはいきませんから!」
「無茶はしないで、葵さん! あなたの命だって一つしかないのよ!」
「分かっています! でも、誰も死なせないためのアルス・テックです!」
葵は笑みを浮かべ、しゃがみ込んで鈴の目線に合わせた。
手袋の人差し指で、鈴の小さな鼻の頭をチョンと突く。
「鈴ちゃん、志保さんの言うことをよく聞いて、シェルターで待っててね。間宮さんも、私も、必ず帰ってくるから」
鈴は葵の手袋に包まれた指先を見つめ、コクンと頷いた。
葵は立ち上がり、背中のスワローを励起させながら通路を駆け戻っていった。
その凛とした背中を見送り、志保は再び前を向いた。
「行くわよ、みんな! シェルターまであと少し!」
地下3階。
厳重な二重セキュリティゲートをくぐり抜けると、特区内で最も堅牢とされる『第1種強化防護シェルター』の重厚なエントランスが口を開けていた。
厚さ1メートルのチタン合金製防護隔壁。
内部には非常用食料と医療キット、独立型の魔導換気システムが完備され、仮に都市の外郭防壁が突破されても数週間は生存可能な地下要塞だ。
「早川さん! こちらへどうぞ!」
待機していた特区の管理職員が駆け寄り、子供たちを誘導した。
シェルターの内部には、すでに数百名の住民が避難しており、毛布や水を受け取って身を寄せ合っていた。
志保は区画の隅、壁際のベンチに子供たちを座らせ、ようやく肺の中の空気を長く吐き出した。
緊張で固まっていた肩の筋肉が、じわりと痛む。
「陽菜、芽依、よく頑張ったわね。偉かったわよ」
「うん、ちょっと怖かったけど、鈴ちゃんが泣かなかったから、陽菜も我慢したよ」
「芽依も、泣かなかった!」
二人の頭を撫でてやると、鈴が志保の膝の上へ小さな手を乗せ、よじ登ってきた。
志保は鈴を抱き上げ、膝の上にすっぽりと収めた。
小さな手のひらは、冷たい地下通路の風に当てられて少し冷たくなっていた。
志保は両手でその小さな手を包み込み、息を吹きかけて温めた。
「怖かったわね、鈴ちゃん」
鈴は志保の顔をじっと見つめ、首を横に振った。
そして、胸元に下げられたお守りのような小さな木札に触れ、ポツリと口を開いた。
「ぱぱ」
その一言に、志保の胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
泣き叫ぶこともなく、ただ父親の帰りを信じて待っている。
この小さな命を拾い上げ、泥まみれになりながら育ててきた間宮凌の背中が、志保の脳裏に鮮やかに蘇る。
「そうね。パパは今、地下で一生懸命戦ってるわ。あの子はね、絶対に約束を破らない男よ。定時になったら、必ずあなたを迎えに来てくれる」
志保は鈴の柔らかな背中をとんとんとリズミカルに叩いた。
規則正しい振動に安心したのか、鈴はふっと力を抜き、志保の胸元へ小さな額を預けた。
プシューッ、ガシャンッ!
重い油圧の音とともに、シェルターの巨大な防護隔壁が完全に密閉された。
外部の喧騒が遮断され、分厚い金属壁の向こうから、遠い地響きのような振動だけがかすかに伝わってくる。
家族の安全ラインは、完全に確保された。
志保は静かに眠り始めた鈴を抱き締めながら、遠い天井を見上げた。
「凌くん、葵さん。頼んだわよ」
祈るような呟きが、密閉されたシェルターの片隅に静かに溶けていった。
地上と地下、二つの戦場が、今まさに激突の瞬間を迎えようとしていた。




