第078話:崩れる回廊と、逃げ惑う探索者たち
特区の舗装道路を、俺は肺が焼けるような勢いで疾走していた。
空は青く澄み渡り、街は何事もなかったかのように平穏を保っている。
だが、すれ違う通行人や警備兵の誰もが、時折足を止めて怪訝そうに空や地面を見回していた。
先ほど大気を震わせた、あの不気味な重低音。
地震計にも感知されないほどの、空間そのものの微小な軋みを、生物としての本能が捉えているのだ。
タワーマンションの自動ドアを抜け、1階の認可保育所へと飛び込む。
エントランスのホールでは、数名の保育士が子供たちを部屋の中央へ集め、防災頭巾を配っている最中だった。
その輪の中から、黄色いトレーナーを着た小さな身体が、俺の姿を認めるなりトタトタと駆け寄ってきた。
「ぱぱ!」
俺は膝をつき、両腕でその小さな身体を強く抱き締めた。
柔らかな温もりと、甘いベビーソープの匂い。
怪我はない。怯えた様子もない。ただ、俺の胸に小さな両手を回し、ぎゅっとしがみついてくる。
「よかった、無事だな」
息を整えながら鈴の背中を撫でていると、背後から荒い足音が近づいてきた。
駆け込んできたのは、部屋着の上にジャケットを羽織った早川志保だった。
「凌くん! 鈴ちゃん、無事だったのね!」
「志保さん。陽菜ちゃんと芽依ちゃんは?」
「奥のプレイルームにいるわ。さっきの地鳴り、やっぱりただ事じゃないわね。特区の警備司令部からも、全住民に対して屋内の安全確保を呼びかける館内放送が入ったわ」
志保が険しい顔で告げた直後、保育所の自動ドアが再び開き、息を切らせた神崎葵と如月雫が駆け込んできた。
「間宮さん!」
「先生、ご無事ですか!」
「葵、雫。お前たちまで」
葵は愛銃ヴァルキリーのガンケースを肩に背負い、雫も魔導触媒の杖を握りしめていた。
二人の表情には、事態の深刻さが色濃く刻まれている。
その時だった。
ピロリロリロリ! ピロリロリロリ!
けたたましい高周波のアラート音が、俺の腰の携帯端末、そして葵と志保の端末から同時に鳴り響いた。
ギルドが管理する探索者向け非常呼集コード、赤色指定の緊急スクランブル通達だ。
俺は端末を引き抜き、画面をタップした。
赤い警告枠とともに、長谷川さんの切迫したアナウンスがスピーカーから飛び出す。
『特務緊急通達! 東京ピラー地下第25層から第33層において、大規模な空間歪曲に伴う多重落盤事故が発生! 第2昇降シャフトが緊急停止し、現在深層各所に探索者推定120名以上が孤立しています! さらに迷宮種の異常活性化により、孤立部隊への攻撃が確認されました! Bランク以上の全登録者に対し、深層緊急救助作戦への即時参加を要請します!』
「120名が孤立!?」
葵が息を詰まらせた。
深層の第25層以深は、通常の救助部隊が立ち入れる領域ではない。
魔素濃度の急上昇によって通信も途絶し、昇降機が死んだ今、高深度の過酷な環境を突破して生存者を連れ戻せるのは、現場で単独生存できる一握りの実力者だけだった。
俺は腕の中の鈴を見つめた。
鈴のそばにいたい。
このまま特区の地下シェルターへ逃げ込み、娘の手を握りしめて嵐が過ぎ去るのを待つことだってできる。
俺は軍人でもなければ、街を守る義務を負った正義の味方でもない。
ただの解体屋だ。
だが、脳裏に浮かんだのは、深層で命を削って戦う探索者たちの顔だった。
日当8,000円のために泥まみれになって盾を削るタケのような連中。
50トンの獲物を譲り受け、部下の命を救えたと涙声で礼を言おうとしていた堂島副長。
あそこに取り残されている120名にも、守るべき家族や、帰りを待つ温かな食卓があるはずだ。
「行きなさい、凌くん」
静かな、だが確固たる声が響いた。
早川志保が、俺の肩にしっかりと手を置いていた。
元Bランク探索者としての、揺るぎない眼差し。
「鈴ちゃんのことは、私が命に代えても守るわ。陽菜と芽依と一緒に、特区で一番堅牢な第1種防護シェルターへ連れて行く。だから、あなたはあなたのやるべきことをやってきなさい」
「志保さん」
「私も同行します、間宮さん」
葵がガンケースを握り締め、前に出た。
「地上待機の防衛軍と連携し、シャフト昇降口の警備ラインを確保します。雫ちゃん、あなたは?」
「私は佐伯工房へ戻り、倉田チーフと一緒にピラーの魔素変動をリアルタイムで解析します。先生の端末へ直接、安全な退避ルートのデータを送り続けます!」
仲間たちが、それぞれの持ち場で前を向いている。
迷っている時間は1秒もなかった。
俺はしゃがみ込み、鈴の目線に合わせてその小さな手を包み込んだ。
「鈴」
鈴は何かを察したのか、じっと俺を見つめ返し、小さな眉をきゅっと寄せた。
小さな手が、俺の作業着の裾を離さないように力強く握りしめている。
「すぐ戻る。必ず、定時までに戻ってくる。いい子で待っててくれるか?」
鈴は数秒間、じっと俺の顔を見つめていた。
やがて、小さな唇を結び直し、ポツリと一言だけ口にした。
「あい」
短く、力強い返事。
握りしめていた手が、ゆっくりと俺の裾から離れた。
俺は立ち上がり、志保へ深く頭を下げた。
「志保さん、鈴を頼みます」
「任せて。無事に帰ってきなさいよ!」
*
自室へ駆け戻り、わずか2分で装備を固めた。
タクティカルスーツ『レイヴン・ワーカー』に身を包み、背部へ4連ポッドを装着。
左肩には、分解された超長距離狙撃銃『黒曜』の専用コンテナ。
そして両腰のホルダーには、昨日テストを完了したばかりの試作型大型飛翔刃『アキュラ』の2振りを佩いた。
「本来なら本チャンの爪で打つはずだったが、文句は言ってられねぇ。頼むぞ」
腰の柄を軽く叩き、俺はギルド中央ターミナルの最深部、深層進入管理ゲートへと急行した。
*
中層第28層『蒼炎の回廊』。
非常用の強制ワイヤーウインチで深度2,800メートルまで強行降下した俺を待ち受けていたのは、常軌を逸した光景だった。
ドオオォンッ!!
轟音とともに、頭上の岩盤が崩落し、直径数メートルの巨岩が足元へ叩きつけられた。
粉塵が視界を白く遮る。
本来は薄暗い洞窟であるはずの坑道全体が、異常に活性化した壁面の魔素結晶によって、青白い光を激しく明滅させていた。
空間を満たす魔素の圧力が、肌を針のようにチクチクと刺す。
「うわあああっ! 誰か助けてくれ!」
「前衛が潰された! 岩をどかせねぇ!」
瓦礫の煙の向こうから、探索者たちの悲鳴が響いた。
見れば、崩落した巨大な岩塊の隙間に、中堅パーティーの重装戦士が下半身を挟まれて身動きが取れなくなっている。
その周囲を、魔素の暴走によって目を血走らせた『アストラル・クローラー』の群れが、十数匹這い寄っていた。
体長2メートルを超える多足の変異甲虫。
鋭い顎をカチカチと鳴らし、動けない探索者へ毒牙を突き立てようと迫る。
「どいてろ!」
俺は叫びながら、背部のレイヴンポッドのロックを解除した。
ハイブリッドモード起動。
右手に中層素材の試作アキュラを引き抜き、空いた2スロットで頭上へもう1振りのアキュラを射出。
残りの2スロットで、小型レイヴン2機を前方へ撃ち放つ。
シュパァァンッ!
音速を超えた小型レイヴン2機が光の弾道を描いて突進し、先頭のクローラーの複眼と関節を高周波刃で寸断した。
変異甲虫が黄色い体液を撒き散らして転倒する。
続けざまに、頭上の飛翔アキュラが急降下した。
青い螺旋の魔導光を引いた刃渡り1.2メートルの長剣が、群れの真ん中を風車のように回転しながら薙ぎ払う。
硬質な甲殻ごと、3匹の甲虫が一瞬で真っ二つに両断された。
「ひ、一撃で甲殻を!?」
残された探索者たちが呆然と立ち尽くす前へ、俺は低く踏み込み、右手の実体アキュラを一閃させた。
残余の甲虫を瞬く間に解体し、青白い光の粒子へと変える。
戦闘時間、わずか4秒。
俺は刀身の血振りを払う間もなく、挟まれていた重装戦士の元へ駆け寄った。
「怪我の程度は?」
「あ、足の骨が折れてるかもしれねぇ。だが、動ける! あんたは」
「話は後だ。瓦礫をどかすぞ」
俺は男の足を押さえつけている数百キロの岩塊を見定めた。
解体屋の現場で培った、力点の見極め。
頭上の飛翔アキュラを岩の隙間へ差し込み、魔力波の反発を利用して梃子の原理で一気に押し上げる。
「ぐ、おぉぉっ!」
岩がわずかに浮いた瞬間、仲間の探索者たちが男の脇を抱えて引きずり出した。
「助かった! 本当にありがとう!」
「礼なら後でいい。この先の昇降シャフトは死んでいるが、第27層の避難連絡路はまだ生きている。負傷者を担いで浅層へ退避しろ。魔獣の群れは俺が引き受ける!」
「わ、分かった!」
探索者たちが足を引きずりながら後方へ走っていくのを見届け、俺はアキュラを構え直した。
だが、安堵する暇はなかった。
坑道の奥から、耳をつんざくような空間震動の唸り声が、さらに一段と強度を増して響いてきたのだ。
地面が激しく脈動し、頭上の鍾乳石が次々とへし折れて落下してくる。
第25層から第33層まで、崩落の波は止まる気配がない。
俺は冷たい風を肺に満たし、より深い闇が広がる下層の回廊へ向けて、迷わず足を踏み出した。




