第077話:軋む沈黙と、最初の亀裂
朝の光が、タワーマンションの東向きリビングを白く染め上げていた。
ダイニングテーブルの子供用チェアに座った鈴は、小さな両手でスプーンを握りしめ、角切りの野菜が入ったスープを口へ運んでいた。
カチャリ、と銀色のスプーンが陶器の器に当たる軽快な音。
「鈴、スープ冷ましてあるぞ。こぼすなよ」
俺がトーストを皿に乗せながら声をかけた、その時だった。
鈴の手が、ピタリと止まった。
スプーンを口元へ運ぶ途中で静止し、小さな耳を澄ませるように、ゆっくりと顔を窓の方角へ向けた。
ガラス越しの遥か彼方。
防壁都市の中央にそびえ立つ、東京ピラーの巨大な影がある方角だ。
「鈴?」
声をかけても、鈴は振り返らなかった。
じっと窓の外の一点を見つめたまま、首をわずかに傾げる。
柔らかな眉が小さく寄せられ、ポツリと、舌足らずな一言をこぼした。
「おと」
「音?」
俺はトーストを置き、耳を澄ませた。
だが、部屋の中に聞こえるのは、換気扇の回る音と、冷蔵庫の低い唸りだけだ。
外からも電車の走行音や自動車のタイヤ音がかすかに届くだけで、異常な爆発音も地鳴りもしない。
だが鈴は、何か得体の知れない振動を感じ取っているかのように、小さな指先でスプーンの柄をきゅっと握りしめていた。
「大丈夫だ。何もないぞ」
俺は鈴の柔らかな頭をそっと撫でた。
手のひらの温もりを感じたのか、鈴はハッと我に返ったように俺を見上げ、小さく頷いて再びスープを口に運んだ。
気のせいだろうか。
だが、鈴を保育所へ送るために廊下へ出た時、その違和感は別の形をとって俺の皮膚を撫でた。
エレベーターホールで、ちょうど陽菜と芽依を連れて出てきた早川志保と鉢合わせた。
「おはよう、凌くん。鈴ちゃんもご機嫌ね」
「おはようございます、志保さん」
挨拶を交わしながらエレベーターに乗り込む。
志保は子供たちの手を引きながら、ふと首筋に手を当てて小さく息を吐いた。
「ねえ、凌くん。今朝、外が妙に静かだと思わない?」
「静か、ですか?」
「ええ。毎朝ベランダに出ると、特区の緑地に集まるカラスやスズメがうるさいくらいに鳴いてるじゃない? それが今朝は、1羽も見当たらないのよ。鳴き声一つ聞こえないの。なんだか、嵐が来る前の森みたいで気味悪くて」
志保の言葉に、俺の胸の奥がわずかにざわついた。
元Bランク索敵担当としての直感。
現場の第一線で死線をくぐり抜けてきた人間の感覚は、理屈よりも早く環境の異常を嗅ぎ分ける。
「天候が崩れるんですかね」
「そうならいいんだけどね。雨雲ひとつない快晴なのに、風の匂いがおかしいのよ」
1階に着き、保育所の玄関で鈴を預ける。
教室に入った鈴は、いつもなら陽菜たちと駆け回るはずなのに、靴箱の前で立ち止まり、もう一度だけ遠くの空を振り返った。
小さな胸の中に、何が引っかかっているのか。
俺は釈然としない胸騒ぎを抱えたまま、駅前の連絡通路を通ってギルド出張所へと向かった。
*
第七外郭門出張所の自動ドアをくぐった瞬間、いつもと明らかに違う熱気が肌を刺した。
ロビーが、異様な緊張感に包まれていた。
普段のこの時間は、前日の換金を終えた探索者たちが談笑しているか、朝の浅層依頼を受け取るパーティーがのんびりと掲示板を眺めているはずだった。
だが今、受付カウンターの周りには、泥や煤にまみれた深層帰りの探索者たちが人垣を作っていた。
「おい、冗談じゃねえぞ! 第28層の岩壁が青白く発光して、坑道全体が昼間みたいに明るくなってやがったんだ!」
「迷宮種の動きもおかしい! 普段なら縄張り争いしてるはずのラーカーとクローラーが、群れを作って昇降シャフトの方へ移動を始めてる! あんな行動パターン、見たことねえぞ!」
「ギルドは階層の異常警報を出さねえのか!? このままじゃ下層のパーティーが巻き込まれるぞ!」
荒らげられた怒声が、出張所の高い天井に反響していた。
受付カウンターの内側では、後輩の職員たちが青ざめた顔で端末を叩き、電話の対応に追われている。
その最前線で、長谷川さんが冷徹な表情のまま人垣の前に立っていた。
「皆様、落ち着いてください。現在、ギルド本部および観測部が第25層以深の環境魔素データを精査しております。現時点では階層閉鎖の発令には至っておりません。安全マージンを確保するため、中層以深への進入届出は一時的に保留とさせていただきます」
「保留じゃ納得いかねえよ! 俺たちの仲間がまだ第30層の前進拠点に残ってんだぞ!」
探索者たちの詰め寄る声が重なる。
俺は人混みの後方から、長谷川さんのデスクへと近づいた。
視線が交錯した瞬間、長谷川さんがわずかに眉を動かし、手元の書類を整えながら俺へ耳打ちするように言った。
「間宮さん。今日は潜る予定でしたか?」
「いや、佐伯の親父の工房へ行くところだ。深層で何か起きてるのか?」
「前例のない事態です」
長谷川さんは声を潜め、周囲の探索者に聞こえないよう早口で告げた。
「昨日の昼、本部から深層観測データの機密化通達が下りたとお話ししましたね。今朝になって、第25層から第33層にかけての背景魔素濃度が、急激な上昇トレンドを描き始めています。それも、特定の魔獣の発生による局所的なものではなく、深層全域の空間そのものが高圧魔素で満たされつつあるような、不可解な上昇です」
「全域の魔素濃度が?」
「ええ。まるで、ダンジョンの底にある巨大な弁が開き、魔力が逆流してきているかのように。上層部はまだ混乱していて公式発表を出していませんが、現場の探索者たちは異変を肌で感じ取って引き返してきています。間宮さんも、今日は絶対にダンジョンへ近づかないでください」
「分かった。忠告感謝する」
俺は短く頷き、騒然とする出張所を後にした。
鈴の立ち止まった姿。
志保が言っていた鳥たちの沈黙。
そして深層全域の異常な魔素上昇。
バラバラだったピースが、不気味な輪郭を帯びて一つの像を結び始めている。
俺は足を速め、第7区の佐伯工房へと向かった。
*
工房のシャッターを押し上げると、いつもの槌音は響いていなかった。
炉の赤熱した炎が静かに揺らめく中、作業台の周りに3つの人影が集まっていた。
佐伯親方、倉田チーフ、如月雫の3人だった。
3人とも口を結び、作業台の上に浮かび上がった三次元ホログラムを食い入るように見つめていた。
「親方」
俺が声をかけると、雫がハッと顔を上げた。
「先生!」
「アキュラの鍛造はどうなってる? 炉の火が止まってるようだが」
「それどころじゃねえんだ、凌」
親方が苦々しい顔で煙草の煙を吐き出した。
指先で作業台の画面を指し示す。
「昨日、中層素材で打った試作刃のテストは大成功だった。だが今朝、本チャンの『ベヒーモスの爪』に火を入れようとしたら、素材が勝手に共鳴を始めやがったんだ。炉の火力を上げる前から、爪の芯が青白く光って熱を持ち始めてる」
「素材が共鳴?」
「はい、先生。これを見てください」
雫がキーボードを叩き、解析グラフを中央へ拡大させた。
画面に映し出されたのは、雫が研究室で見つけていた、深層背景魔素の長期推移ログだった。
「一昨日、私がログの片隅に見つけた、あの42分周期の微弱な脈動です。その時点では、振幅は環境全体の0.03パーセント未満でした。旧式センサーの熱雑音か誤作動だと思って、軽くメモを残すだけにしていたのですが」
雫の指先が震えていた。
画面のグラフが、今朝の午前6時を境にして、直角に近い角度で跳ね上がっていた。
「今朝から、脈動の振幅が急激に拡大しています。0.1パーセント、0.3パーセント、そして先ほど10時の計測では、0.8パーセントを超えました。周期も42分から、28分、19分へと、急速に短縮されています」
「心拍が、早くなっているのか」
「そうです。まるで、深い眠りについていた何かが、急速に覚醒へ向かって胎動しているかのように。しかも、この波形の中心座標は、間違いなく東京ピラーの中心軸、深度ゼロメートルから最深部へ垂直に貫通する中枢コアです」
倉田が銀縁メガネを外し、眉間を強く揉みほぐした。
「アルス社の外部センサーが北東にズレていた件も、これと完全に一致したよ。ピラーのコアから放射されている空間歪曲パルスが、地上全域の磁場と魔導グリッドを歪ませ始めてるんだ。30年前に世界各地にピラーが降ってきた時以来、こんな現象の記録は一度たりとも存在しねぇ」
「30年前」
その単語を聞いた瞬間、俺の胸の奥で、冷たい氷の針が突き刺さるような痛みが走った。
30年前。
世界中に12本の金属柱が落下し、未曾有の魔素と怪異が流出したあの日。
そして、俺が下請けの駆除任務で向かった、あの全滅した過疎集落。
魔獣に食い破られ、瓦礫の山と化した地蔵堂の床下で、ただ一人、血だまりの中で震えていた赤ん坊。
鈴。
もし、今起きている現象が、あの日と同じものだとしたら。
その時だった。
ゴオン。
耳の奥を直接揺さぶるような、極めて低い重低音が響いた。
地震ではない。
地面が揺れているのではなく、大気そのもの、空間そのものが軋むような、不快な共振。
作業台の上に置かれていたスチール製のマグカップが、微細な波紋を水面に描いてカタカタと震えた。
「何だ、今の音は」
親方が作業台に手を突き、周囲を見回した。
倉田が端末の画面に釘付けになり、喉を詰まらせた。
「ピラーだ! 東京ピラーの中枢から、第1種魔力衝撃波が放たれた! 深度3,000メートル以深の全域で、空間震動が検知されたぞ!」
「先生!」
雫が叫んだ。
画面上の波形が、限界測定値を振り切って真っ赤に点滅している。
まだ街は壊れていない。
サイレンも鳴っていない。
だが、静まり返った都市の地下深くで、30年間の平穏を支えてきた岩盤のどこかに、決定的な最初の亀裂が走った。
俺は拳を強く握り締め、工房の出口へ向かって身を翻した。
「凌、どこへ行く!?」
「鈴のところだ」
振り返りもせず、俺はシャッターを潜り抜けて走り出した。
胸の奥で警鐘がけたたましく鳴り響いている。
世界がどうなろうと知ったことか。
俺には、守らなければならない場所がある。




