第075話:蠢く噂と、鉄面皮の防波堤
「見てください、この弾道シミュレーション結果を。常識ではあり得ません」
配信端末のホログラム画面に、深層第33層『巨人の回廊』の立体地形モデルが青く浮かび上がっていた。
画面の中央で冷静にレーザーポインターを走らせているのは、黒縁メガネに白衣を纏ったクール系探索者アナリスト、草薙怜奈だ。
元Bランク索敵担当の肩書を持つ彼女のチャンネル『シーカーズ・アイ』は、ダンジョン内の最新戦術や兵装データを論理的に解き明かす考察配信として、現在同接8万人を超える熱狂を集めていた。
「射撃地点は鍾乳洞の進入路にある断崖テラス。そこから平原中央で暴れていたアビス・ドリル・ベヒーモスまでの直線距離は、およそ1,000メートル。高低差はマイナス300メートルです。この極限環境において、放たれた魔導弾頭の初速は計測推定マッハ6.2。弾道低下も空間魔素による減衰もほぼゼロのまま、体長15メートルの巨獣の眉間装甲をミリ単位の狂いもなく貫通し、頭蓋骨の奥にある魔核を一撃で粉砕しています」
怜奈が指先で画面をタップすると、弾着部位の拡大ホログラムが表示された。
削岩甲殻に穿たれた、極小の貫通孔。
「現在、探索者ネットでは『深層の幽霊狙撃手』『大手メガコープの極秘試作砲』など様々な憶測が飛び交っていますが、既存の電磁投射砲や魔導長距離ライフルでこの集弾性を生身で実現できる兵装は、市場に存在しません」
コメント欄がものすごい勢いでスクロールを始める。
『1,000メートルからマッハ6.2で眉間ぶち抜きとか化け物かよ』
『ハイペリオンの重装大隊でも無理だろこれ』
『防衛軍の特務部隊が深層テストでもやってんのか?』
そこへ、乱入してきた通話アイコンから、聞き慣れた甲高い声がスピーカーを震わせた。
『おいおい怜奈ちゃん! 何言ってんだよ、こんなの決まってんだろ!』
画面のワイプ枠に現れたのは、真っ赤なコンバットスーツを着た中堅配信者、クロードだった。
『1,000メートル先の急所を針の穴を通すように見抜いて、一撃で眉間を仕留めるなんざ、あの解体屋の旦那しかいねぇって! 絶対旦那だ! 旦那が深層に潜って、新兵器でドカンとやったに決まってんだよ!』
クロードの絶叫に、コメント欄が一斉に草を生やし始めた。
『はいはい、また始まったw』
『クロードの旦那教信者ムーブ草』
『あのアダマン包丁振り回してる職人が1,000メートル狙撃できるわけねぇだろw』
『旦那は近接解体のスペシャリストだぞ、専門外すぎるわ』
『クロード、落ち着いてお薬飲もうな』
『本当だって! 旦那の技術なら狙撃銃の弾道計算くらい朝飯前だっての!』
『うるさいよクロード! そんなことよりお肉の話をしてよ!』
さらに別の通話枠から、画面を叩き割らんばかりの勢いで金髪ツインテールの少女、宇佐美ねねが割り込んできた。
『ベヒーモスの眉間を撃ち抜いた後、現場に50トンの巨体を丸ごと放置して去っていったって本当なの!? 削岩巨獣の肩ロースだよ!? 岩盤を噛み砕く超高密度筋肉の霜降り肉! 適切な下処理さえすれば、世界最高のシチューができるのに! ねねちゃんに一口も残さず前線部隊に譲渡するなんて、どんな贅沢なのよー!』
ねねの絶叫に、コメント欄の探索者たちも大爆笑の渦に包まれる。
怜奈はメガネのブリッジを中指で静かに押し上げ、画面の向こうの騒がしい二人を冷ややかに見据えた。
「現場に居合わせた『鉄塊の牙』の証言によれば、射手は黒い外套を羽織り、超希少素材である大鉤爪の基部関節だけを数分で切り落とし、名乗りもせずに立ち去ったそうです。この人物が誰であるにせよ、現場の第一線に立つ者たちの間で、すでに伝説化が始まっています」
*
同時刻。
世界探索者ギルド、第七外郭門出張所。
「頼む、長谷川さん! そこを何とか教えてくれ!」
受付カウンターに、大きな革手袋をはめた両手がドスンと叩きつけられた。
身の丈2メートル近い巨躯に、傷だらけの重装甲を纏った男、深層専門大手クラン『鉄塊の牙』の副長、堂島征二だった。
背後には、同じく深層から戻ったばかりの屈強な探索者たちが十数人、固唾を呑んでカウンターを取り囲んでいる。
「俺たちはあの日、全滅するところだったんだ! あの超重巨獣に隊列を崩され、逃げ場を失っていたところを、1,000メートル向こうの高台からの一撃に救われた! それだけじゃねぇ、50トンものベヒーモスの本体を丸ごと譲ってもらったおかげで、部下の治療費も装備の修繕費も全部まかなえたんだ! 名も告げずに去っていったあの黒い射手に、俺たち全員で頭を下げて、きちんとお礼が言いてぇんだよ!」
堂島の切実な叫びに、周囲の一般探索者たちもざわめき、視線を受付カウンターの一点へと集中させた。
カウンターの内側に座る受付担当官、長谷川美咲は、眉一つ動かさずに端末のキーボードから指を離した。
人差し指で銀縁メガネのフレームをスッと押し上げる。
その表情は、北極の氷壁よりも冷徹な、完璧なる営業用の鉄面皮だった。
「堂島様。お気持ちは重々承知いたしました」
澄み切った、一切の揺らぎのない声がロビーに響く。
「ですが、世界探索者ギルド規約第38条第4項、ならびに個人情報保護規定第12条により、探索者個人の特定情報、活動ログ、ならびに作戦行動記録の第三者への開示は、いかなる理由があろうとも厳格に禁じられております」
「そこを何とかするのがギルドの裁量ってもんだろうが! 命の恩人なんだぞ!?」
「裁量で規約を曲げろとおっしゃるのですか?」
長谷川さんの冷たい眼差しが、堂島の眉間を射抜いた。
「もし私が個人的な人情で探索者の機密を開示した場合、私は即座に懲戒免職、あるいは重度の減俸処分となります。堂島様、私の今後の生涯賃金と退職金を、全額キャッシュで今すぐ補填していただけますか?」
「うっ、そ、それは」
屈強な巨漢が、長谷川さんの放つ絶対零度の事務的威圧に気圧され、たじたじと後ずさりした。
「さらに申し上げますと」
長谷川さんはカウンターの上の書類を整え、トントンと角を揃えた。
「その射手の方が名乗りを上げずに立ち去ったということは、私的な謝礼や名声を一切望んでおられないという明確な意思表示です。現場のプロであるならば、その矜持を汲み取り、無用な詮索を控えるのが礼儀というものではありませんか?」
「ぐ、正論すぎて何も言えねぇ」
堂島は太い腕を組み、深々と唸り声を上げて肩を落とした。
背後の部下たちも顔を見合わせ、苦笑い混じりに息を吐く。
「分かったよ。長谷川さんの言う通りだ。だがよ、もし、もしその人に会う機会があったら、伝えてくれ。『鉄塊の牙は、あんたへの恩を一生忘れねぇ』ってな」
「承知いたしました。そのような機会があれば、規約の範囲内で検討させていただきます」
長谷川さんが丁寧にお辞儀をすると、堂島たちは名残惜しそうに受付カウンターを離れ、ロビーの出口へと去っていった。
その背中を見送った瞬間、カウンターの内側の電話機が一斉にけたたましく鳴り響いた。
「長谷川主任! ギルド本部査定課から緊急照会です! 第33層のベヒーモス討伐記録に該当する探索者の出撃ログを至急提出しろと!」
「外郭防衛軍の第3師団からも連絡が入っています! あの超長距離狙撃銃の開発元を特定したいと!」
隣のデスクで後輩の事務員たちが青い顔をして受話器を握りしめている。
長谷川さんは小さく息を吸い、受話器を奪い取ると、氷のようなビジネスボイスで応対を始めた。
「お電話代わりました、第七外郭門出張所の長谷川です。ええ、第33層の件ですね。該当区域への立ち入り届出は複数受理しておりますが、個別の交戦記録は現場探索者の守秘義務契約に基づき、本部監査役の正式な令状なしには開示できません。はい、規約通りです。文句があるなら書面で特命開示請求を申請してください。審査には通常3週間かかりますので。失礼いたします」
ガチャリ、と手荒く受話器を置く。
立て続けに鳴り響く外線にも、寸分違わぬ鉄壁の規約論法を叩きつけ、わずか10分ですべての問い合わせを門前払いに仕留めてみせた。
「ふぅ」
後輩たちが畏怖の眼差しで見守る中、長谷川さんは給湯室へ向かい、マグカップに注いだ熱い緑茶を一口すすった。
渋みのある温かい茶が、喉を滑り落ちていく。
胸ポケットから私用の携帯端末を取り出し、画面を開いた。
そこに表示されているのは、3日前の夕方に処理された、間宮凌の換金記録だった。
【納品素材:深層削岩大鉤爪(基部関節)換金額:2,400万円。出動時間:2泊3日。帰還時間:15時20分】
「ゴースト・スナイパー、ね」
長谷川さんの口元に、呆れ混じりの小さな笑みが浮かんだ。
あいつがそんな派手な二つ名を知ったら、心底嫌そうな顔をして眉をひそめるに決まっている。
50トンの巨体を丸ごと放置して帰った理由なんて、取り分を独り占めする欲がないからでも、大物探索者の気まぐれでもない。
ただ単に、17時の保育所のお迎えに間に合わせるために、重い肉を解体して運ぶ時間を削っただけだ。
「馬鹿ね。あいつが命を削って稼いだ金で、鈴ちゃんに温かいご飯を食べさせて、無事に定時退勤する日常を守るのが、私の仕事よ」
誰にも聞こえない声で呟き、長谷川さんは端末の画面を伏せた。
どれほどネットが騒ごうと、軍や本部の役人が嗅ぎ回ろうと、自分がこの窓口に座っている限り、あの不器用な父親の平穏な生活に指一本触れさせはしない。
それが、特区出張所の受付担当官としての、彼女の矜持だった。
その時だった。
カウンターの業務管理端末が、ピロンと無機質な着信音を鳴らした。
長谷川さんが画面に視線を戻すと、ギルド中央本部・戦略情報部からの至急公務通達がポップアップしていた。
【通達:深層第31層以深における環境魔素測定ログ、ならびに定点観測データの取り扱いについて】
長谷川さんは眉を寄せ、スクロールバーを下げた。
【本日12時をもって、上記深度における過去6ヶ月分の定点観測データ(魔素密度、空間位相、波形ログ)の閲覧権限を『特務機密レベルB』へ移行する。以後の閲覧には本部直属統括官の事前承認を必須とし、各特区支所および一般探索者へのデータ同期を一時凍結する】
理由の欄には、ただ一言『戦略的保全のため』とだけ記されていた。
「何よ、これ」
長谷川さんは思わず呟いた。
深層の環境魔素データなど、地脈の研究者や観測機器メーカーが機材の校正に使う程度の、極めて地味な基礎数値に過ぎない。
そんな枯れたデータが、なぜ突然機密指定に格上げされるのか。
「どうせ、ハイペリオンと防衛軍がまた新兵器の開発予算を巡って縄張り争いでも始めたんでしょうね」
長谷川さんは軽く鼻を鳴らし、受領確認の既読ボタンをクリックした。
上層部の官僚的な綱引きなど、現場の窓口業務には何の関係もない。
通達ウィンドウを閉じると、いつもの業務画面が戻ってきた。
「さ、午後の換金業務を片付けましょ」
長谷川さんは眼鏡を指先でクイと押し上げ、背筋を伸ばして受付カウンターへと戻っていった。
ロビーの喧騒の中へ消えていく彼女の後ろ姿。
深層の深部で静かに脈打つあの微弱な波形を、組織の上層部がすでに察知し、情報統制の網を張り始めていることなど、この時の彼女はまだ知る由もなかった。




