第070話:日だまりの芝生と、鈴の「どーじょ」
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、寝室の床を白く照らしていた。
目覚ましのアラームが鳴る前に、ふと意識が浮上する。
左腕に柔らかな重みと温もりがあった。
視線を落とすと、鈴が俺のシャツの裾を小さな指先で握りしめたまま、すやすやと寝息を立てていた。
小さく息を吸い、そっと指を緩めようとすると、握る力が微かに強くなる。
2泊3日の深層遠征。
あいつなりに、俺のいない夜を我慢していたのだろう。
手を外すのをやめ、空いた右手で鈴の背中を優しく叩いた。
第33層の冷え切った鍾乳洞で嗅いだ鉄と硝煙の匂いは、もうどこにもない。
ここにあるのは、ベビー石鹸の微かな香りと、毛布の確かな温もりだけだった。
*
鈴が目を覚まし、機嫌よく両手を伸ばして「ぱぱー」と抱きついてきたあと、俺たちは朝食を済ませてキッチンの前に立っていた。
探索の予定はなし。素材納品も昨日で片付けてある。丸一日、鈴のためだけに使う完全な休養日だ。
まな板の上で、小気味よい包丁の音を響かせる。
作っているのは、今日のお出かけ用の弁当だ。
ボウルの中で細かく刻んだ野菜と赤身肉を捏ね、子供の一口サイズに丸めたミニハンバーグをフライパンに並べた。
「んー?」
足元から気配がして見下ろすと、エプロンの裾を掴んだ鈴が、爪先立ちで調理台を覗き込もうとしていた。
小さな鼻をヒクヒクと動かしている。
「まだ生だから食えねぇぞ。しっかり焼いてからな」
頭を軽く撫でてやると、鈴は「えへー」と目を細めてリビングへ駆けていった。
ジュウ、と香ばしい音が立ち上り、甘い肉の香りが広がる。
弱火でじっくり蒸し焼きにし、余分な脂を拭き取ってタッパーへ詰めた。
横には甘い玉子焼きとブロッコリーを添え、一口サイズのおにぎりを3つ握る。
水筒と着替えをリュックに収めたところで、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい、おはよう凌くん!」
ドアを開けると、動きやすい服装の早川志保が満面の笑みで立っていた。
その足元から、陽菜と芽依が顔を覗かせる。
「すずちゃん! あそぼ!」
「こーえん! いくー!」
「きゃっ!」
鈴が陽菜たちの姿を見るなり、短い両手をパタパタと振って歓声を上げた。
「おはようございます、志保さん。朝早くからすみません」
「何言ってるの、うちの怪獣たちも朝から大騒ぎだったんだから。ほら芽依、靴ちゃんと揃えなさい」
志保が笑いながら次女の背中を押す。
俺はリュックを背負い、鈴の足にスニーカーを履かせた。
*
向かったのは、第2区安全居住特区の東側に広がる中央緑地公園だった。
防壁都市の内部とは思えないほど豊かな芝生が広がり、手入れされた木々が涼しい木陰を作っている。
木陰の芝生の上に大きめのシートを広げると、陽菜が真っ先に鈴の手を取った。
「すずちゃん、こっち! おすなばいこ!」
「あっち!」
陽菜に手を引かれた鈴が、よちよちと覚束ない足取りで芝生を踏みしめていく。
その後ろを、バケツとスコップを持った芽依が追いかける。
俺と志保は、シートの端に腰を下ろしてその背中を見守った。
「凌くん、本当に無事でよかったわ。2泊3日って聞いた時は、さすがに心配したんだから」
志保が水筒のお茶をコップに注ぎながら、ふっと息を吐いた。
「ご迷惑をおかけしました。志保さんが鈴を預かってくれなかったら、遠征なんて無理でした」
「いいのよ、お互い様なんだから。それにね、鈴ちゃん、すっごくいい子だったわよ。夜に一度だけ凌くんを探してぐずりそうになったけど、陽菜が手を握ったら安心してそのまま寝ちゃったし」
砂場のふちで、陽菜が砂を固めて山を作っていた。
芽依はその横でバケツに砂を詰め、鈴は砂の感触を手掌で確かめている。
サラサラとした砂が指の間からこぼれ落ちると、鈴は「おぉー」と小さな口を丸くして見つめた。
その時、芽依が手元のスコップを砂の中に落とし、見失って眉を下げた。
「スコップない。めいの、ないよ」
困り顔で下を向いた芽依の前に、小さな黄色いプラスチックが差し出された。
「どーじょ」
鈴だった。
自分の手元にあった黄色いクマのスコップを両手で握り、芽依の胸元へ差し出していた。
舌足らずだが、はっきりとした発音だった。
「えっ、くれるの?」
芽依が差し出された手をまじまじと見つめ、口を半開きにして固まった。
鈴はこくりと一つ頷き、にっこりと笑って「どーじょ!」と繰り返した。
「ありがとー! すずちゃん、ありがと!」
芽依がスコップを受け取ると、鈴も嬉しそうに「えへへ」と鼻を鳴らした。
その光景を眺めていた俺は、思わず息を詰めた。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
保護したばかりの頃の鈴は、誰かが近づくだけで怯えて身を縮こまらせていた。
おもちゃも食べ物も、自分の手元に抱え込むのが当たり前だった。
それが、他人に自分の持ち物を分け与え、相手の笑顔を見て笑っている。
「ふふ、見た?」
隣で志保が口元をほころばせていた。
「子供ってね、大人が教えるより、子供同士で遊んでいる時の方がずっと早くいろんなことを覚えるのよ。陽菜が芽依に『はい、どうぞ』ってやってるのを、鈴ちゃん、ずっと見てたもの」
「そうなんですね」
「2泊3日、寂しい思いもさせたかもしれないけど、無駄じゃなかったわね。あの子、ちゃんと大きくなってるわよ」
砂山を叩く小さな背中を見つめながら、俺は静かに頷いた。
深層の闇の中で、何度も思い浮かべたあの小さな笑顔。
あいつが地上で生きて、誰かと笑い合っている。
ただそれだけのことが、どれほど得難く、尊いものか。
喉の奥にこみ上げてくる熱いものを、小さく息を吐いて整えた。
*
正午を回り、高く昇った太陽が芝生を温め始めた頃、子供たちが戻ってきた。
「ごはん! おなかすいたー!」
「まんまー!」
手を丁寧に拭き取り、シートの上にお弁当を広げた。
ミニハンバーグのタッパーを開けると、志保が感嘆の声を漏らした。
「すごーい! これ凌くんが作ったの? 可愛いじゃない」
「鈴が手掴みでも食べやすいように、小さめに丸めただけですよ」
「タコさんウインナーもあるわよ。ほら、みんなで食べよ!」
志保が持ってきた重箱には、ウインナーやポテトサラダがぎっしりと詰まっていた。
鈴の前に、小さな弁当箱とお気に入りの銀色のスプーンを置く。
佐伯工房とアルス・テックが生み出した、微細魔力共鳴スプーンだ。
鈴は小さな手でスプーンを握り、ハンバーグを器用にすくい上げた。
口元へ運び、パクリと咥える。
「んむ」
一口頬張った瞬間、鈴の口がもぐもぐと勢いよく動いた。
「おいち!」
両足をシートの上でパタパタと弾ませながら、口をもごもごさせて相好を崩した。
広場に響き渡る声に、志保が吹き出した。
「あはは! 本当に美味しそうに食べるわねぇ! 陽菜も芽依も食べてごらん」
「いただきまーす! ん! やわらかーい!」
「おいしー! お肉、ふわふわ!」
子供たちが競い合うように頬張り、シートの上は賑やかな歓声で満たされた。
鈴はあっという間に平らげ、口の周りを赤くしながら空のタッパーを指差して「こぇ!」と催促してくる。
「食べすぎだ、おにぎりも食え」
小さなおにぎりを手渡すと、両手で大事そうに抱えて齧り始めた。
志保がお茶を一口飲み、空を見上げた。
「ねえ、凌くん」
「はい」
「初めて会った時より、ずっと柔らかい顔になったわね」
「そうですか」
「エキスポの時も思ったけど、あのボロアパートにいた頃はさ、触ったら切れそうなナイフみたいな顔してたもの。今はちゃんと、生きて帰る場所がある男の顔してる」
志保が笑みをこぼしながら、おにぎりを頬張る鈴の頭を撫でた。
柄にもなく居心地が悪くなり、俺は水筒の蓋をやたらと丁寧に閉め直した。
「ありがとうございます、志保さん」
「いいのよ。それより、あのハンバーグのレシピ、今度教えてよね。芽依があんなに野菜入りの肉を食べるの、初めて見たんだから」
「大したもんじゃないですけど、メモに書いて渡しますよ」
他愛のない会話を交わしながら、穏やかな午後の時間はゆっくりと流れていった。
*
陽が西へ傾き、公園の芝生が茜色に染まり始めた15時半。
遊び疲れた子供たちの足取りが重くなってきた。
芽依は志保の肩口ですでに眠りにつき、陽菜もあくびを噛み殺しながら歩いている。
そして俺の胸元では、抱っこ紐に収まった鈴が、完全に夢の中へと落ちていた。
小さな額が俺の鎖骨に預けられ、すやすやと規則正しい呼吸を繰り返している。
衣服越しに伝わってくる柔らかな体温。
頭をそっと撫でると、長い睫毛がかすかに震えた。
「陽菜ちゃん、芽依ちゃん、今日はありがとうな」
「うん。おじちゃん、またあそぼうね」
陽菜が眠たそうに小さく手を振った。
エレベーターの前で早川親子と別れ、我が家の玄関ドアを開ける。
静まり返った部屋に入り、寝室のベッドへ鈴をそっと横たえた。
タオルケットを掛け直してやると、鈴は「んぅ」と小さく身じろぎし、枕に顔を埋めて深い眠りへ戻っていった。
その無防備で穏やかな寝顔を、しばらくの間、静かに見つめる。
「よし」
静かに寝室のドアを閉めた。
リビングの窓からは、夕暮れの赤い光に縁取られた丹沢連峰と、その向こうにそびえる富士山がくっきりと見えていた。
明日からはまた、佐伯工房へ通い、深層から持ち帰った大鉤爪をどう仕立てるかの協議が始まる。
小型のレイヴンでは届かなかった深層の壁を越えるための、新たな刃。
やるべきことは山ほどある。
だが、恐れも焦りもなかった。
キッチンへ戻り、空になった弁当箱を洗い場に置く。
水でスポンジを泡立てながら、俺は次の戦いへ向けて静かに意識を研ぎ澄ませていた。




