第069話:ただいま、鈴
ゴオオォォォ、と重厚な油圧駆動音が、分厚い防護壁の奥から低く響いていた。
地下3,300メートルの第31層前進拠点から、重装甲昇降シャフトで上昇すること40分。
鉛と魔導鋼で覆われた巨大なケージが、減速の振動とともにガコンと重い音を立てて停止した。
「第1シャフト、地上進入ゲートへの接続完了。バイオハザード検疫、魔力汚染チェック、オールグリーン。ゲート開放します」
無機質なアナウンスが響き、密閉ハッチがゆっくりと左右に開いた。
流れ込んできたのは、冷たい鍾乳洞の湿気ではなく、乾いた地上の空気だ。
わずかに混じる車の排気ガスと、初秋の風の匂い。
それだけで、皮膚を覆っていた深層特有の重苦しいアストラル魔力圧が、すっと抜け落ちていく感覚があった。
時計の針は15時20分を指している。
外郭ドームの強化ガラス越しに見上げる空は、淡い茜色へと傾き始めていた。
3日ぶりの地上の光に、細めた目がじわりと滲む。
息を深く、ひとつ吐き出した。
背嚢のベルトを締め直す。
背中には、佐伯親方と倉田チーフが鍛え上げた『黒曜』のケース。
そして頑丈な麻袋に包まれた、30キロの冷たい鉱物塊だ。
アビス・ドリル・ベヒーモスの削岩大鉤爪、その基部関節。
左肩の裂傷は、前進拠点の高濃度治癒ポーションで塞がっている。服越しに触れるとまだ少し引きつるが、歩行に支障はなかった。
ゲートの探索者通路を進み、第七外郭門のギルド出張所へと向かう。
ロビーに足を踏み入れると、背中の長大なケースと黒いタクティカルスーツに、周囲の探索者たちがざわめいた。
「おい、見ろ。あの長大なケース」
「まさか、第31層のベヒーモスを撃ち抜いたっていう『黒き狙撃手』か?」
ひそひそと交わされる声を背中で聞き流し、俺は一番奥の換金窓口へと向かった。
カウンターの向こうで端末を叩いていたのは、見慣れたスーツ姿の女性職員だ。
「長谷川さん」
「はい、次の方どうぞ、って、間宮さん!?」
顔を上げた長谷川さんが、勢いよく立ち上がった。
「無事だったんですね! 今朝から深層の前進拠点から緊急連絡が入って、ギルド本部は大騒ぎだったんですよ!?」
「大騒ぎって、何がです」
「何が、じゃないですよ! 第33層の進入路を塞いでいた特異個体アビス・ドリル・ベヒーモスが、眉間の中枢魔核を一撃で撃ち抜かれて沈黙したって! 先行していた『鉄塊の牙』から、正体不明の狙撃手に救われたって公式報告が上がってきてるんです!」
「ああ、それなら確かに俺だ。約束の素材を持ち帰ってきた」
ドスン。
重厚なカウンターの魔導秤の上に、背中の麻袋を下ろした。
金属質な重低音が響き、秤のインジケーターが一気に30.4キロまで跳ね上がる。
「え、これ」
長谷川さんが恐る恐る麻袋の紐を解いた。
中から現れたのは、黒曜石のように滑らかで深い蒼氷色の光沢を放つ、漆黒の巨大関節だ。
切断面は精密機械でスライスされたかのように平滑で、微かな冷気を放っている。
「信じられない」
長谷川さんの声が上ずっていた。
手元の小型アナライザーを断面に押し当てる。
「魔力伝導率94パーセント、硬度12。間違いありません、ベヒーモスの最重要中枢組織です。しかも、筋膜や神経節の損傷が皆無。深層の受肉種は魔核を壊しても肉体が霧散しないと聞いてはいましたが、こんな極限状態の素材、標本写真でしか見たことがありません。本体はどうされたんですか!?」
「解体屋一人で運べるわけないだろ。『鉄塊の牙』に全部譲ってきたよ。怪我人も多かったし、前線の遠征費くらいにはなるだろ」
俺が淡々と答えると、長谷川さんは口をあんぐりと開けて固まった。
数秒の後、こめかみを押さえて深いため息を漏らす。
「数千万円相当の巨体を丸ごと現地部隊に譲渡、相変わらずの規格外ですね、間宮さんは。わかりました、この基部関節だけで買い取り処理を進めます」
長谷川さんが高速でキータッチを叩く。
モニターに表示された数字を見て、俺は思わず眉を跳ね上げた。
「2,400万円?」
「希少部位の即時買い取り特別枠と、深層特異個体の初討伐ボーナスが加算されています。さらに、今回の第31層単独進入と救助実績によって、ギルド本部からBランク上位への昇格内定と、公式実績ポイントが付与されます」
「Bランク上位か」
「はい。年内にはAランク昇格試験の推薦枠が回ってきますよ! どうしますか、推薦を受理しますか!?」
身を乗り出して尋ねてくる長谷川さんに、俺は迷いなく首を横に振った。
「断る。Aランクになんてなったら、指名依頼や防衛軍の招集でさらに拘束されるだろ。それより長谷川さん、精算を急いでくれ」
「えっ? あ、はい、急ぎますけど、何か予定でも?」
「17時までに帰らなきゃいけないんだ。娘を迎えに行く約束をしてる」
「はあぁぁ!」
長谷川さんがカウンターに突っ伏しそうな勢いで頭を抱えた。
「深層の主を仕留めて、2,400万円の報酬を手にして、Aランク推薦を袖にして急ぐ理由が、娘さんのお迎えですか!? 本当にブレない人ですね!」
「悪いな。はい、サインはここでいいか?」
端末の液晶に電子署名を走らせる。
佐伯親方と倉田に届ける数キロのサンプル片をサブバッグに移し、換金手続きを完了させた。
*
ギルド出張所を出て、安全特区のモノレールに乗り込む。
タワーマンションの自室に戻ったのは、16時20分だった。
玄関に入った瞬間、静まり返った部屋の空気に迎えられる。
誰もいないリビング。鈴のいない2日間の静寂。
だが、それもあと少しだ。
「よし、時間はないぞ」
背中から『黒曜』を下ろし、保管ロッカーへ収める。
アダマン・クリーバーとレクス・マグナム、レイヴンのホルダーを外し、装備ラックへと並べた。
タクティカルスーツを脱ぎ捨て、洗面所へ直行する。
浴室に入り、熱いシャワーを頭から浴びた。
ボディーソープを泡立て、全身を力任せに擦り洗いする。
深層の冷たい鉱物油や岩粉、魔獣の体液に混じる硝煙の匂い。
鈴は鼻が良い。
わずかでも戦場の血生臭さが残っていれば、子供は本能的に不安を覚える。
石鹸の泡で2度、念入りに全身を洗い流し、清潔なバスタオルで身体を拭いた。
左肩の引きつる傷跡に新しい保護テープを貼り、普段着のスウェットと柔らかな綿のTシャツに袖を通す。
鏡の前で自分の匂いを確かめる。
微かに香る柑橘系の石鹸の匂いだけ。戦場の痕跡は完全に消えていた。
壁のデジタル時計を見る。
16時48分。
約束の17時まで、あと12分。
息をひとつ整え、俺は部屋の鍵をポケットに入れて玄関を出た。
*
同じフロアの内廊下を歩き、斜め向かいにある早川家の玄関前へ立つ。
呼び鈴のボタンを軽く押し込んだ。
ピンポーン。
澄んだ電子チャイムの音が、静かな廊下に響き渡る。
数秒の間。
直後、ドアの向こうから、タタタタタッ、と激しく床を蹴る小さな足音が聞こえてきた。
「ぱ! ぱ!」
幼い、甲高い声。
それに続いて、陽菜と芽依の弾むような声と、志保の慌てた声が重なる。
「あ、すずちゃん走っちゃ危ない! 待って待って!」
「おじちゃんかな!? おじちゃん帰ってきた!?」
ガチャリ、と内鍵の外れる金属音が鳴り、重い防音ドアがゆっくりと内側へ引かれた。
現れたのは、エプロン姿の志保だった。
「あら、凌さん! おかえりなさい!」
「志保さん、ただいま戻りました」
俺が会釈した瞬間、志保の足元から、小さな影が飛び出してきた。
淡いピンク色の長袖シャツに、柔らかなレギンス。
両手を翼のように大きく広げ、覚束ない足取りで必死にバランスを取りながら、前へ前へと突進してくる。
「ぱぱー!」
満面の笑み。
見開かれた大きな黒い瞳に、俺の姿が映っていた。
「鈴!」
俺は玄関の床に膝をつき、両手を大きく広げた。
ドスン、と柔らかな温もりが、胸元へ飛び込んでくる。
小さな腕が、俺の首筋へと力いっぱいに回された。
ぎゅううっ、と小さな身体全体でしがみついてくる。
「ぱぱ! ぱぱぁ!」
「おう。ただいま、鈴」
抱き上げると、ずっしりとした重みが腕に伝わってきた。
柔らかい頬が、俺の首筋にすりすりと押し付けられる。
ベビーパウダーと、天日干ししたタオルのような甘い匂い。
地下3,300メートルの極寒の暗闇で、張り詰めていたすべての神経が、この小さな温もりによって一瞬で溶け崩れていくのを感じた。
左肩の痛みも全身の疲労も、どこかへ吹き飛んでいく。
「すずちゃん、玄関までダッシュしたんだよ!」
「あしおと! わかったの!」
玄関口から、4歳の陽菜と2歳半の芽依が顔を覗かせて誇らしげに報告してきた。
陽菜は得意げに胸を張り、芽依は鈴の足先をちょんちょんと指差している。
「陽菜ちゃん、芽依ちゃん。鈴の面倒を見てくれてありがとうな」
「うん! すずちゃんね、絵本一緒に読んだの! ごはんも全部食べたよ!」
「もぐもぐした! おりこーさん!」
二人が口々に教えてくれる。
志保が穏やかな笑みを浮かべ、ドア枠に寄りかかった。
「初日の夜は、やっぱり少し寂しそうにしてたの。凌さんの部屋の方向をじっと見つめたりしてね。でも、葵ちゃんが仕事帰りに寄ってくれて、一緒にご飯を食べたりお風呂に入ったりしてるうちに、すっかり落ち着いてくれたわ。昨日の夜なんて、陽菜と芽依の真ん中で朝まで熟睡だったのよ」
「葵も来てくれたんですね。本当に、なんとお礼を言ったらいいか」
「いいのよ。それにほら、すずちゃんの顔を見てごらんなさい」
志保に促され、俺は腕の中の鈴を見つめた。
鈴は俺のシャツを小さな指先でぎゅっと握りしめ、上目遣いでじっと見上げていた。
その瞳には、もう不安の色はない。
口元を緩め、ふにゃりと愛らしい笑みを浮かべる。
「んー!」
満足そうにひとつ声をあげると、鈴は俺の肩口へぽすんと頭を預けた。
小さな手が、俺の背中をとんとんとリズミカルに叩く。
まるで、無事に帰ってきた俺を労ってくれているかのようだった。
「ふふ、すっかり安心しちゃったみたいね。凌さん、今夜はうちで一緒に夕飯食べていかない? 4人分のハンバーグ、もう種をこねてあるのよ」
「えっ、いいんですか? そこまで甘えるわけには」
「いいからいいから! 2泊3日の仕事から帰ってきたばっかりで、一人で料理なんて大変でしょ? ほら、陽菜も芽依も、すずちゃんパパと一緒にご飯食べたいって言ってたものね?」
「たべたい!」
「ハンバーグー!」
二人の元気な声に、鈴も釣られたように「ばーぐ!」と小さく口を尖らせた。
その仕草に、志保が吹き出すように笑う。
「決まりね。さあ、上がって上がって」
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
靴を脱ぎ、鈴を抱いたまま早川家のリビングへと足を踏み入れた。
キッチンからは、香ばしい玉ねぎと肉の焼ける匂いが漂ってくる。
陽菜と芽依が絨毯の上をパタパタと走り回り、ブロックを並べ始めた。
腕の中の柔らかな重みと、幼い呼吸の温もり。
「鈴、今日はたくさん食べような」
囁きかけると、鈴は俺の首にぎゅっとしがみつき、嬉しそうに短く声を弾ませた。
ジュウジュウとフライパンで弾ける肉汁の音と、甘いソースの香りが部屋を満たしていく。
窓の外には、タワーマンションの街並みを包み込むように、穏やかな夜の帳が静かに下りていた。
お読みいただきありがとうございます。
ここまでで第8章が区切りとなりました。
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