第067話:千メートルの照準と、黒曜の咆哮
カチリ、と硬質なラッチ音が響いた。
開かれた黒いケースの内側で、厚手の高密度ウレタンに守られていた鉄塊が姿を現す。
大口径対物魔導狙撃ライフル『黒曜』。
全長およそ140センチ、重量約9.5キロ。
佐伯親方が炉で赤熱させ、幾千回と槌を叩き下ろして鍛え上げた超高耐熱魔導鋼の手打ちヘビーバレル。
光を吸い込むような漆黒の金属肌に、冷たい空気が触れて微かな霜を帯びていた。
俺は右腕一本でその長大な銃身を持ち上げ、断崖の縁へと進んだ。
足場は幅3メートルほどの平らな玄武岩テラス。
眼下には、垂直高低差およそ300メートル、直線距離にして1,000メートル近い底面大空洞が広がっている。
巨獣の爪も牙も届かない。この過酷な深層で、5分間の展開シーケンスを安全に完了できる場所はここしかなかった。
チタン合金製のヘビーバイポッドを押し広げ、テラスの岩肌に爪を食い込ませる。
ガチリと強固な足場が決まった。
ライフルを伏射姿勢で据え付け、ストック後部のスロットインポートへ、予備ホルダーから引き抜いたバッテリーカートリッジを力強く押し込んだ。
カシャンッ。
内部の端子が噛み合い、微細な魔力励起音が低く唸りを上げた。
銃身に沿って銀の象嵌のように刻まれた、如月雫の二重螺旋励起回路が、薄青い燐光を帯びて順番に明滅していく。
高倍率光学スコープの対物レンズに、淡い緑色のホログラフィックグリッドが浮かび上がった。
『システム起動。回路同調率100パーセント。バレル予熱および魔力収束シーケンス開始。完了まで300秒』
スコープの端に、冷徹なカウントダウンが表示される。
5分間。
この間に銃を動かすことはできない。高密度魔力を減衰させずに弾頭へ送り込むため、回路のキャリブレーションが完了するまでは絶対の静止が必要だった。
シャラ、シャラ、と。
その時、背後の闇から乾いた甲高い摩擦音が響いた。
一つではない。数十、いやそれ以上の無数の気配。
俺の左肩から滴る血の匂いに引き寄せられたのだ。
岩壁の細い亀裂や、テラス上部の鍾乳石の隙間から、体長1メートルほどの小型種『モール・ラーカー』が黒い水滴のように湧き出し、鎌のような前足を擦り合わせながら忍び寄っていた。
俺はスコープから視線を外さず、胸の奥の魔力波形を背後へ向けた。
「レイヴン、背後を頼む。1匹も通すな」
頭上で待機していた4機のレイヴンが、鋭い電子音を返した。
同期率98パーセント。
俺の意識の延長となった4条の黒影が、テラスの狭い空間を音速で旋回し始めた。
ギャッ!
天井から飛び降りてきたモール・ラーカーの喉首を、1番機と2番機の高周波振動刃が交差するようにすれ違いざまに両断した。
緑色の体液を撒き散らして落ちていく怪物の骸。
間髪入れずに、壁面を這い寄る3匹へ向けて、3番機と4番機が背部バーニアから不可視の魔力ニードル弾を高速掃射する。
ビビビビッ!
肉を穿つ鈍い破砕音が連続し、怪物の群れが悲鳴を上げて弾け飛んだ。
阿吽の呼吸で死角を塞ぎ、射手である俺の周囲に半径3メートルの絶対防衛圏を維持し続ける。
アルス・テック社が実戦のために鍛え上げ、佐伯親方の変異腱リレーで繋がれた4機の相棒。
その完璧な仕事に背中を預け、俺はスコープの奥の照準に全神経を注ぎ込んだ。
『予熱完了まで、あと60秒』
スコープの倍率ダイヤルを回す。
レンズが1,000メートルの闇を切り裂き、底面平原の光景を眼前に引き寄せた。
アビス・ドリル・ベヒーモス。
体長15メートル、推定50トンの超重巨獣が、逃げた探索者たちの痕跡を求めて暴れ狂っていた。
先行クランが転がり込んだ退避用の狭い横穴。
その入り口を塞ぐ巨岩へ向けて、怪物が3本の漆黒の削岩大鉤爪を叩きつけている。
ドズゥゥンッと岩壁が崩れ、横穴の天井に亀裂が走るのが見えた。
あの防壁が突破されるまで、もう1分も持たない。
『励起完了。チャンバー装填完了。残弾3発』
スコープのカウントダウンがゼロを示し、視界のグリッドが青く固定された。
装弾数は3発。バッテリー容量の限界だ。
レーザー測距計の数値は、垂直落差310メートル、水平距離960メートル、直線距離にして1,008メートル。
頭の片隅で、冷徹な計算が走る。
地下射撃場で確認した黒曜の試射限界は500メートル。
今回はその倍の距離だ。
大気中の魔素濃度、鍾乳洞特有の不規則な上昇気流、落差による着弾点のズレ。
すべてが未知の領域。初速マッハ6.2の徹甲弾であっても、わずか数ミリのブレが着弾点では数メートルのズレとなって跳ね返る。
だが、何より困難なのは目標の小ささだった。
15メートルの巨体とはいえ、全身を覆うアストラル削岩甲殻は数十センチの厚みがある。
適当に胴体や背中に撃ち込んでも、運動エネルギーを分厚い岩盤装甲に分散され、致命傷にはならない。
確実に息の根を止める急所は、ただ一つ。
前肢を振り上げた一瞬にのみ露出する、喉元から眉間の装甲の合わせ目。
そこに脈動する、直径わずか30センチの中枢魔核。
1,000メートル先の、30センチ。
試射限界の倍の距離で、針の穴を通すような精密狙撃。
外せば、退避坑道の中の探索者たち諸共、次の一撃で圧殺される。
そして何より、手負いの俺にはもう、あの怪物の間合いから逃げ切る力は残っていない。
「賭けるしかねぇな」
俺は息をゆっくりと吐き出した。
左肩の激痛を意識の底へ沈め、右腕と頬骨で重厚な銃床をがっちりと固定する。
指先が触れる引き金は、冷たく、重い。
眼下の巨獣が、退避坑道を叩き潰そうと、両の前肢を天高く振り上げた。
喉元が反り、頭部の装甲板が左右に開く。
その奥深く、青紫色の魔素を放つ中枢魔核が、スコープの中心に露わになった。
気流のブレを計算する。落差補正、上へ2クリック。
ドクン、ドクンと耳の奥で鳴る自分の心拍。
その拍動の合間、世界が完全に静止した瞬間。
俺は人差し指に力を込め、トリガーの遊びを絞り切った。
「穿て」
カチリ。
撃発の瞬間、音は消えた。
直後、耳を押し潰すような重低音の破裂波が、断崖テラスを激しく揺るがした。
ドォォォォォォンッ!
マッハ6.2。
銃口から撃ち出されたのは、ただの金属弾ではない。
如月雫の二重螺旋回路によって極限まで凝縮された、超高密度の魔導徹甲弾。
大気を切り裂く白銀の閃光が、1,000メートルの暗黒の空間を、まるで昼のように一瞬で照らし出した。
地底大鍾乳洞を貫通する一本の純白の光線。
発射から着弾まで、0.5秒にも満たない。
眼下の闇の底で、光の槍がアビス・ドリル・ベヒーモスの眉間を直撃した。
炸裂音は遅れて届いた。
閃光が命中した瞬間、怪物の頭部が爆発するように吹き飛んだ。
分厚いアストラル削岩甲殻など、まるで紙細工のように消滅し、奥深くに埋もれていた中枢魔核が超高熱の励起エネルギーによって一瞬で蒸発したのだ。
ズズウウウウウウンッ!
青紫色の巨大な衝撃波リングが、底面平原に丸く広がっていく。
両前肢を振り上げたままの姿勢で、怪物の動きが完全に凍りついた。
頭部を失った15メートル、50トンの巨体が、重力に引かれるまま前屈みに崩れ落ちる。
ドガアアアアアンッ!
大地が跳ね上がり、巨大な鍾乳石が何本も砕け散った。
巻き上がる凄まじい土煙が、空洞の底を白く覆い尽くしていく。
ピクリとも動かない。
主を失った周囲のモール・ラーカーたちが、蜘蛛の子を散らすように岩の隙間へと逃げ惑い、消えていった。
耳の痛くなるような静寂が、ゆっくりと戻ってきた。
銃口から、白く濃密な排熱煙が静かに立ち上っている。
1,000メートル。
倍の距離であっても、威力は一切減衰していなかった。
如月雫の理論と、佐伯親方が叩いた鋼の芯は、本物だったのだ。
「ふぅ」
俺は銃身から手を離し、仰向けにテラスの岩肌へ倒れ込んだ。
張り詰めていた緊張が解け、全身からどっと汗が噴き出す。
痛む左肩を押さえながら、俺は高い鍾乳洞の天井を見上げ、静かに息を吐き出した。




