第066話:地中を統べる超重巨獣と、届かぬ刃
急勾配の岩盤斜面を滑り降りるにつれて、周囲の気温が急激に下がっていった。
肌を刺す冷気と、濃密な魔素の匂い。
深度3,500メートル。第32層の狭窄な坑道を抜け出た瞬間、視界が一気に開けた。
第33層、地底大鍾乳洞『巨人の回廊』。
見上げる天井の高さはおよそ50メートル。
青白い魔素の燐光を放つ発光菌が岩肌を覆い、何万年もの歳月をかけて形成された巨大な石柱や鍾乳石が、まるで神殿の柱のように林立している。
俺が立っているのは、上層からの進入路となっている壁面上部の断崖テラスだ。
眼下に広がる空洞の底面までは、垂直高低差がおよそ300メートル。足元の崖はほぼ垂直に切り立ち、底面の中央平原までは直線で1,000メートル近い距離がある。
ドズウウウン。
腹の底を揺さぶるような重低音が、巨大な空間を震わせた。
突風のような衝撃波が吹き上がり、足元の岩盤が微かに波打つ。
俺は反射的に身を屈め、突き出た巨岩の影に滑り込んだ。
背負っていた黒曜のライフルケースを下ろす。
総重量25キロの鉄の塊を、テラスの岩陰にそっと横たえた。
精密な二重螺旋回路と高倍率光学照準器を組み込んだ狙撃兵装だ。こんな代物を背負ったまま不用意に乱戦へ突っ込めば、射撃する前に銃身が歪む。
まずは状況の確認だ。
ポケットから単眼鏡を取り出し、眼下の底面平原へと焦点を合わせた。
レンズの先、巨大な石筍が何本も薙ぎ倒され、激しい白煙が立ち上っていた。
「先行の探索部隊か」
5、6名ほどの武装集団が、円陣を組んで防戦に追われていた。
大型の魔導シールドを構えた重装甲の前衛と、牽制の魔力弾を放つ後衛。
胸元に光るエンブレムは、深層専門の大型クラン『鉄塊の牙』のものだ。全員が手慣れたBランク以上の実力者に見える。
だが、その陣形は完全に崩壊しかけていた。
ドガアアアンッ!
砂塵を切り裂いて振り下ろされた巨大な前肢が、前衛の大盾を軽々と粉砕した。
装甲板が紙屑のように弾け飛び、大柄な重戦士の身体が十数メートルも吹き飛ばされて岩壁に激突する。
砂煙の奥から、そいつが姿を現した。
アビス・ドリル・ベヒーモス。
エキスポの演習場に乱入したグラウンド・モールの原種にして、第33層を統べる超重削岩巨獣。
体長はおよそ15メートル。推定重量は50トンを超える。
全身を覆うのは、土色の生体削岩甲殻ではない。濃密な魔素と金属鉱石が結合した、黒鉄色に鈍く光るアストラル硬化外殻だ。
頭部には眼球がなく、代わりに何本もの太い感覚突起が鞭のように蠢いている。
そして何より異様なのは、丸太のように太い左右の前肢だった。
先端に備わっているのは、長さ3メートルを超える3本の漆黒の削岩大鉤爪。
岩盤を粉砕するために進化したその爪が地面を掻くたびに、硬質な玄武岩がスコップですくった土のように軽々と削り取られていく。
ギィイイイイイッ!
巨獣が首を振り上げ、鼓膜を裂くような咆哮を轟かせた。
吹き飛ばされた重戦士の元へ、巨獣が地響きを立てて突進する。
倒れた男は右腕を抱えて呻き、立ち上がることができない。
後衛の術士たちが狂乱気味に火球や氷柱を撃ち込むが、極厚のアストラル甲殻に弾かれ、火花を散らして霧散するだけだ。
巨獣の前肢が、無防備な重戦士の頭上高くへと振り上げられた。
あと数秒で、人間が肉塊に変わる。
俺は背後のライフルケースに視線を走らせた。
黒曜を展開し、バイポッドを固定して給電カートリッジを接続する。如月雫の二重螺旋回路を励起させ、初速マッハ6.2の射撃体勢を整えるまでに必要な時間は、最低でも5分。
「組み立ててる時間はねぇ!」
考えるより先に、身体が動いていた。
25キロのケースをテラスに残し、俺は断崖の縁から身を躍らせた。
垂直に近い岩壁の突起を足場に、身体をジグザグに滑り落ちる。
重力に任せて一気に高度を下げ、背中のマウントポッドから4機の『レイヴン』を一斉射出した。
「行けッ!」
掌から放たれた4条の黒い影が、音速を超えて空間を裂いた。
巨獣が前肢を振り下ろすコンマ数秒前。
4機のレイヴンが立体的な十字を描いて巨獣の頭部へ殺到し、不可視の魔力ニードル弾を顔面の感覚突起へ向けて乱射した。
ババババッ!
高感度な触手器官を撃ち抜かれた巨獣が、鋭い金切り声を上げて頭部を跳ね上げた。
振り下ろされかけた前肢の軌道がわずかに逸れ、重戦士の数メートル横の地面に激突する。
ドオオオンッと岩盤がすり鉢状に陥没し、凄まじい衝撃波が吹き荒れた。
その土煙の中へ、俺は着地の勢いを殺しながら低空で滑り込んだ。
「動けるか!」
「な、あんたは」
「いいから掴まれ!」
呆然とする重戦士の襟首を掴み、背後の岩陰へと力任せに引きずり倒す。
直後、頭上を薙ぎ払う猛烈な風圧が通過した。
巨獣の巨大な前肢が、空気を圧縮しながら横一閃に振るわれたのだ。
かすめただけの鍾乳石の柱が、根元から爆発するように砕け散る。
間合いが広すぎる。
巨腕の長さだけで5メートル以上。爪の先まで含めれば、一撃の制圧半径は優に十数メートルを超える。
近寄ることすら許さない、絶対的な死の領域だ。
だが、このままでは逃げ切れない。
残された探索者たちが退避路へ退くための時間を、数秒でも稼ぐ必要がある。
「レイヴン、両脇から牽制! 視界を塞げ!」
頭上で旋回する4機が、高周波振動刃を起動させて青白い光の軌跡を描きながら巨獣の首元へ突っ込む。
装甲の隙間を狙った刃が火花を散らす。
巨獣が苛立たしげに首を振り、前肢を大きく振り上げた。
その瞬間、右前肢の付け根、装甲板が重なり合う関節の隙間が露わになった。
俺は腰を落とし、地を蹴った。
荷物を下ろした身体は羽のように軽い。
腰の鞘から引き抜いた『アダマン・クリーバー』を両手で握り締め、変換効率85パーセントの魔力を一気に刀身へ流し込む。
キィィィィン!
刃渡り35センチ、峰厚8ミリの剛鉈が、高周波微細振動によって青白い光の刃紋を浮かび上がらせる。
振り下ろされる巨腕の死角へ滑り込み、関節の腱へ向けて渾身の力で斬りつけた。
Aランク金剛重甲猪の角を断ち割った、現場の職人の一撃。
ギャリィィィッ!
耳をつんざくような金属摩擦音が炸裂した。
激しい火花が視界を埋め尽くし、両腕の骨が軋むほどの衝撃が突き抜ける。
手応えは、硬かった。
だが、刃が弾かれたわけではない。
佐伯親方が鍛えた鋼は、アストラル削岩甲殻の表層を確実に切り裂いていた。外殻の破片が砕け散り、黒い魔素の飛沫が舞う。
だが、そこまでだった。
刃先が、止まった。
甲殻を10センチ、20センチと切り進んだところで、刀身の長さが尽きたのだ。
厚さ数十センチを超える巨獣の外骨格。
その奥深く、関節を動かす太い腱や魔力核の芯まで、35センチの刃渡りでは物理的に届かない。
「くそっ、届かねぇ!」
表層を削られただけの巨獣は、怯みもしなかった。
激痛に刺激された怪物が、丸太のような巨腕を力任せに振り回す。
視界を黒い質量が埋め尽くした。
躱せない。
俺は瞬時にクリーバーの腹を胸の前に構え、右腰のレクス・マグナムを抜き放ってゼロ距離で引き金を引いた。
ズドンッ!
大口径徹甲魔弾が至近距離で炸裂し、巨腕の突進軌道をわずかに押し戻す。
だが、完全には殺しきれない。
薙ぎ払われた3本の巨大な鉤爪が、剛鉈の刀身を掠め、そのまま俺の左肩を薙ぎ払った。
バリィィンッ!
鈍い破断音とともに、実戦用防護服『レイヴン・ワーカー』の装甲繊維が引き裂かれた。
猛烈な衝撃が左肩を打ち砕くように走り、身体が木の葉のように宙へ跳ね飛ばされる。
地面を数回バウンドし、瓦礫の山に背中から激突してようやく止まった。
「ぐ、っ!」
肺の中の空気が吐き出され、視界が白く明滅する。
左肩から、焼けるような熱い痛みが全身へ広がっていった。
手袋で肩を押さえると、裂けた防護服の隙間から、生温かい血が指先を濡らす。
骨まではいっていない。だが、肉が深く抉られ、左腕に力が入らない。
ゴオオオオッ!
立ち込める土煙を吹き飛ばし、巨獣が再び前肢を持ち上げた。
さらに、砕けた岩盤の亀裂から、体長1メートルほどの小型種『モール・ラーカー』が何十体と這い出し、黒い群れとなって周囲を取り囲み始めている。
底面平原は完全に奴らの制圧圏内だ。
この足場で、負傷した身体のまま戦い続けることはできない。
エキスポで真壁に投げかけられた問いが、耳の奥で生々しく蘇る。
『深層の巨獣相手に、その35センチの刃先が届くか?』
届かなかった。
素材の強度で負けたんじゃない。
職人の刃物として完璧に研ぎ澄まされた35センチの剛鉈は、この深層の怪物に対して、あまりにも短すぎたのだ。
「レイヴン! 全機、散開牽制!」
思考を痛みの彼方へねじ伏せ、俺は右手のレクス・マグナムを連続で発射した。
残弾を惜しまず、巨獣の鼻先へ高圧魔弾を叩き込む。
同時に4機のレイヴンが超低空で乱舞し、目眩ましの高周波音と衝撃波を撒き散らした。
怪物が顔を覆って後ずさる。
「逃げるぞ! 退避路へ走れ!」
俺は叫びながら立ち上がり、倒れていた重戦士の身体を右腕一本で担ぎ上げた。
合流してきた先行クランの後衛たちが、血相を変えて男の身体を受け取る。
「あ、あんたは!」
「いいから行け! 上層の昇降シャフトへ戻れ!」
探索者たちが退避用の狭い坑道へと転がり込んでいくのを見届け、俺は背後を振り返った。
巨獣の感覚器官が再びこちらを捉え、3本の鉤爪が岩盤を叩き割る。
殺到するモール・ラーカーの群れをレイヴンの旋回刃で切り裂きながら、俺は岩壁の突起へ向けて飛び退いた。
左肩の痛みに奥歯を噛み締め、右腕と両足だけで絶壁を駆け上がる。
下からは、巨獣が岩壁を削り崩す轟音と、届かなかった獲物への怒りの咆哮が追いかけてきた。
垂直高低差300メートル。
血を滴らせながら、俺は進入路の断崖テラスへと転がり込んだ。
ハァッ、ハァッ、ハァッ。
岩肌に背中を預け、荒い息を吐き出す。
肩の傷口を止血用の魔導包帯で強く縛り上げた。激痛が走るが、指先の感覚は生きている。
眼下を見下ろすと、底面平原では体長15メートルの巨獣が、逃げた獲物を探して暴れ回っていた。
巨大な鍾乳石が次々と粉砕され、土煙が立ち込めている。
あそこへもう一度降りて近接戦を挑めば、今度こそ挽き肉にされるだけだ。
「懐に入ろうとしたこと自体が、間違いだったな」
呟きながら、俺は視線を横へと向けた。
テラスの岩陰で、何一つ傷つくことなく静かに横たわっている黒いケース。
敵の間合いは直径20メートル。
こちらの剛鉈は35センチ。
近接で届かないなら、答えは一つしかない。
奴の間合いの遥か外から、装甲ごとぶち抜く。
俺はケースのラッチに右手をかけ、カチリと硬質な金属音を響かせた。




