第065話:初めての夜と、小さな温もり
静寂が、耳の奥を圧迫していた。
風の音も、車の走行音も届かない。
頭上3,300メートルを超える岩盤の底にいるのだという事実を、鼓膜の奥の重い沈黙が突きつけてくる。
第31層と第32層を繋ぐ垂直断層の裂け目。
黒鉄の巨岩に囲まれた、奥行き5メートルほどの天然の岩窟に、俺は一人で腰を下ろしていた。
亀裂の入り口には、アルス・テック社製の携帯型防護結界杭を3本打ち込んである。青白い不可視の魔力膜が展開され、外を蠢く魔素の乱流を遮断していた。公認の緊急退避ポイントだ。
足元の小型魔導ポータブルヒーターが、淡い橙色の熱を静かに放っている。
アルミパックの封を切り、熱湯で戻した乾燥ミートリゾットをスプーンで口に運んだ。
熱い米と牛肉の出汁が食道を滑り落ち、冷えた胃袋を温める。味は悪くない。
だが、噛み締めるたびに、妙な違和感が胸の奥をかすめる。
普段なら、この時間帯は一日の中で一番騒がしい。
夕方5時にお迎えへ行き、風呂に入れて、台所に立つ。
机を両手で叩きながら「んま! んまー!」と叫ぶ鈴の姿。口の周りをべたべたにして笑う娘の顔。
こぼした離乳食を拭き取りながら「こら、じっとしてろ」と小言を繰り返すのが、いつもの日常だった。
「やけに静かだな」
呟いた声が、岩肌に跳ね返って消えた。
一人で食う飯がこんなにも味気ないものだったか。
下請け時代、ボロアパートで毎晩一人、安弁当を啜っていた頃とは全く違う。部屋にぽっかりと穴が空いたような、落ち着かない静けさだ。
息を一つ吐き、頭を振って思考を切り替えた。
ここは深度3,300メートルの深層だ。一歩結界の外に出れば、触れただけで肉を削ぎ落とす結晶体や、岩盤を泥のように食い破る体長15メートルの主が闊歩している。
油断すれば地上へ帰れなくなる。
工具入れを取り出し、道具の手入れを始めた。
まずは大型対魔獣剣鉈『アダマン・クリーバー』。
刃渡り35センチ、峰厚8ミリの重厚な刀身。
昼間にアストラル・ラーカーの力場を叩き割った獲物だ。専用の魔導オイルを染み込ませたウエスで、丁寧に拭い上げる。刃こぼれ一つない。佐伯親方の仕事の確かさに、指先から信頼が伝わってくる。
続いて右腰の『レクス・マグナム』。
シリンダーをスイングアウトし、6発の大容量カートリッジを抜き取ってバレル内部の煤をブラシで落とす。
背中のポッドから4機の『レイヴン』を取り出し、掌に乗せて胸の奥の魔力を通した。
指先に伝わる微細な脈動。同期率98%。
4機とも寸分の狂いもなく、俺の呼吸と一致している。
そして最後に、ライフルケースを開いた。
大口径対物魔導狙撃ライフル『黒曜』。
全長およそ140センチ、重量約9.5キロ。
佐伯親方が槌を振るって叩き上げた漆黒のヘビーバレルを、指先で静かに撫でる。
銃身に刻まれた如月雫の二重螺旋励起回路。ストック後部のバッテリースロットイン機構。
無骨な鉄塊に宿る機能美を確かめる。
昼間、第31層で目にした幅6メートルを超える巨大な破砕痕。
3本の鋭い爪で抉られた痕跡は、間違いなく第33層『巨人の回廊』へと続いていた。
体長15メートル級の超重巨獣。
35センチのクリーバーでは、急所に届く前に間合いの外から弾き飛ばされる。
だからこそ、俺はこの黒曜を担いできた。
敵の爪も牙も届かない距離から、確実に頭部魔核を撃ち抜く。そのための獲物だ。
「よし」
ボルトの締め付けを確認し、黒曜をケースへ戻した。
ヒーターの火力を最低まで絞り、防寒ブランケットにくるまる。
明日の朝には第33層へ到達する。無茶はしない。獲物を仕留め、約束通り地上へ帰る。
目蓋を閉じると、朝に小さな手で手を振っていた鈴の姿が、暗闇の奥に浮かんだ。
*
地上、新都心安全特区。
タワーマンション高層階にある早川家のリビングは、柔らかな暖色の照明に包まれていた。
時計の針は夜8時を回ったところだ。
「はい、鈴ちゃん、あわあわ流すよ。おめめぎゅーってしてね」
「あー!」
湯気が立ち込めるバスルームで、神崎葵は袖を肩までまくり上げ、膝をついてシャワーヘッドを構えていた。
マットの上では、泡だらけになった鈴が、湯船に浮かんだ黄色いアヒルのおもちゃを両手で叩いている。
バシャバシャとお湯が跳ね、葵の頬に水滴が散った。
「ふふ、元気いっぱいですね。でも、お湯飲んじゃダメですよ」
「ぷはっ!」
葵が優しく額を押さえ、ぬるめのシャワーで柔らかな髪の泡を洗い流す。
鈴は小さな目をぎゅっと閉じ、葵の指先が頭皮を撫でる心地よさに身を委ねていた。
新型アサルトライフルの射撃試験や、音速で飛び交うビットの試験をしている時とはまるで違う神経の使い方だ。
壊れてしまいそうな小さな身体を支えながら、葵の胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
「葵さん、バスタオル温めておきました!」
脱衣所の引き戸が開き、如月雫が顔を覗かせた。
スウェット姿に着替えた雫の腕には、乾燥機から出したばかりの分厚いタオルが抱えられている。
「ありがとう、雫ちゃん。よいしょ、っと」
葵が抱き上げると、雫が手際よくバスタオルで鈴の身体を包み込んだ。
「間宮先生から預かったチェックリスト通りにいきますね。保湿、おむつ、パジャマの順です」
雫はメモ帳を脇に置き、ベビーローションを手のひらで温めてから、鈴のお腹や太ももへ丁寧に伸ばしていく。
複雑な励起数式を解く時の鋭い表情とは打って変わり、その手つきは驚くほど優しい。
「くすぐったい? 鈴ちゃん、じっとしててくださいね」
「きゃっ、きゃっ!」
身をよじる鈴に、雫の口元が自然とほころぶ。
羊の絵がついた黄色いパジャマを着せ、ドライヤーの弱風で髪を乾かすと、甘いミルクと石鹸の香りが立ち上った。
「ほらほら、二人ともお疲れ様! 上がったらお茶にしましょうね」
リビングから、早川志保が湯気の立つマグカップを持って顔を出した。
背後からは、パジャマ姿の長女・陽菜(4歳)と、次女の芽依(2歳半)が駆けてくる。
「すずちゃん! おふろあがった?」
「すずちゃん、いいにおい!」
「あー!」
二人に囲まれた鈴は、嬉しそうに両手を広げてリビングの絨毯へ歩き出した。
志保がテーブルにほうじ茶を置き、葵と雫にクッションを勧める。
「本当に助かったわ。陽菜と芽依を入れるだけで手一杯だったから、二人が来てくれなかったらどうなることかと思ったわよ」
「とんでもありません! 私たち、間宮さんには現場でも会社でも助けられてばかりですから」
葵がお茶を受け取り、照れたように笑った。
雫も背筋を伸ばして頷く。
「はい。先生が深層で余計な心配をせずに済むよう、後方支援を完璧にこなすのは共同研究員としての責務です」
「ふふ、雫ちゃんは本当に真面目ねぇ。間宮さんも果報者だわ」
志保が目を細め、絨毯の上に視線を向けた。
陽菜が絵本を広げ、鈴の隣にぴたりと寄り添っている。
「すずちゃん、これみて。おおきなくまさんだよ」
「くま!」
鈴が指差すと、芽依が隣で「がおー!」と両手を上げてみせる。
鈴も真似をして小さな両手を掲げ、声を上げて笑っていた。
ピピッ。
葵の腰の小型端末が微かな電子音を立てた。
画面をタップすると、アルス・テック社の暗号通信が表示される。送信主は第3兵器開発ラボの倉田チーフだった。
『神崎主任。地下30層の中継ビーコンより、AMR-01の定期テレメトリーを受信した。魔力循環率100パーセント、二重螺旋回路の同調エラーゼロ。バッテリー電圧も規定値を維持。間宮は予定通り第32層の退避ポイントへ到達した模様だ。機材に異常なし』
画面に並ぶ安定した波形データ。
如月雫が設計し、佐伯親方が打ち、葵自身も試射に立ち会った『黒曜』が、深層の極限環境でも寸分の狂いもなく機能している。
そして何より、間宮凌が無事に1日目の宿営地へ辿り着いたという証拠だった。
「よかった」
葵の口から、張り詰めていた吐息が漏れた。
隣で画面を覗き込んだ雫も、胸に手を当てて深く頷く。
「先生の生体魔力波形も極めて安定しています。回路への負荷も計算値の範囲内です」
「うん。倉田チーフに、受信確認の返信を入れておくね」
画面を操作して返信を送ると、葵は窓の外を見上げた。
強化ガラスの向こうには、新都心の無数の光が星屑のように瞬いている。
この遥か真下、数千メートルの冷たい岩盤の底で、彼は今も一人、明日の戦いに向けて獲物を研いでいるはずだ。
葵は端末の画面を消し、胸の前のバインダーをそっと抱き直した。
「さあ、そろそろ歯磨きして、ねんねの時間よ!」
志保の号令で洗面所へ向かい、歯磨きを済ませて寝室へ移動した。
子供部屋には、3つの布団が並べて敷かれている。
陽菜と芽依が自分たちの布団に入り、真ん中の敷布団へ、鈴がトタトタと歩いて潜り込んだ。
志保が部屋の明かりを落とし、壁際の間接照明だけを灯す。
薄暗いオレンジ色の光が室内を包んだ。
掛け布団を胸元まで引き上げられた鈴は、天井をじっと見つめていた。
いつもと違う天井。
いつもと違う匂い。
ふと、鈴の視線が部屋の入り口へと向けられた。
薄暗い廊下を見つめ、鈴が小さな口を開く。
「ぱぱ?」
幼い声が、静かな部屋に落ちた。
布団の隣に座っていて、頭を大きな手でぽんぽんと撫でてくれる父親の姿がない。
鈴は両手で掛け布団の端をぎゅっと握りしめた。
眉根が寄り、小さな唇がへの字に曲がる。
泣き出しそうな、寂しさを堪える顔だった。
「すずちゃん」
隣の布団から、陽菜が身を乗り出してきた。
鈴の小さな手の上に、自分の手を重ねる。
「すずちゃん、てぇつなご! おねえちゃんがいるからね」
志保も布団の脇に腰を下ろし、鈴の胸元をトントンと静かなリズムで叩いた。
「大丈夫よ、鈴ちゃん。パパはね、鈴ちゃんのために遠くでお仕事頑張ってるの。明日も明後日も、陽菜ちゃんや芽依ちゃんと一緒に美味しいご飯食べて待っていようね」
「ん」
鈴は陽菜の指を、小さな手でぎゅっと握り返した。
子供同士の小さな手の温もりが伝わっていく。
反対側からは、芽依が心地よい寝息を立て始めていた。
胸元を叩く志保の手の温もりと、陽菜の指先の感触に包まれながら、鈴の眉の力が抜けていく。
小さな欠伸が一つこぼれ、重たくなったまぶたがゆっくりと閉じられた。
やがて、すー、すー、という穏やかな寝息が部屋を満たしていく。
ドアの隙間からその様子を見届けた葵と雫は、互いに顔を見合わせて静かに息を吐いた。
葵は廊下の明かりが漏れないよう、寝室の引き戸を音を立てずにそっと閉めた。




