第061話:至福のケーキと、初めてのお泊まり約束
特区タワマンの広いリビングに、料理の温かな湯気と笑い声が漂っていた。
今夜は、アルス・テック社の主任テストパイロットへ昇格した神崎葵と、佐伯工房との特命共同嘱託研究員に就任した如月雫の門出を祝う祝宴だ。
食卓には、お隣の早川志保と、長女の陽菜、次女の芽依の姿もあった。
先日のエキスポ演習場で変異魔獣が乱入した際、志保が身を挺して子供たちと鈴を守ってくれたことへの感謝と、日頃の託児の礼を兼ねて夕食に招いたのだ。
声をかけた際、志保は「お祝いなら私も差し入れさせて!」と快活に笑い、特製ポテトサラダと熱々のマカロニグラタンを大皿で持参してくれた。
「神崎主任、そして如月研究員! 二人の素晴らしいスタートに、乾杯!」
志保の明るい音頭でグラスが打ち合わされた。大人たちはビールや果実酒、子供たちは林檎ジュースを掲げる。
「ぷはーっ! 仕事上がりの一杯は最高ね! 葵さん、主任昇格おめでとうございます! 雫ちゃんも、共同研究員なんて本当に凄いじゃない!」
「ありがとうございます、志保さん。でも、まだまだ肩書きに実力が追いついていませんから」
葵が照れくさそうにグラスを傾け、隣の雫もコップを両手で持って丁寧に頭を下げた。
「私も、アカデミーを離れた身でこのような研究の場をいただけて身の引き締まる思いです。現場の役に立つ魔導理論を必ず形にしてみせます」
テーブルには、俺が仕込んだ角煮風の魔獣肉や根菜のポトフが並んでいる。
「すずちゃん、はい、にんじんさんだよ。あーん」
4歳の陽菜が小さなスプーンで鈴の口元へ運ぶと、鈴は小さなお口でもぐもぐと顎を動かし、嬉しそうに両手をパチパチと打ち鳴らした。
「めいのもあげる!」
2歳半の芽依がブロッコリーを差し出すと、鈴はふんふんと小さく鼻を鳴らしてから、小さな指先で器用に受け取って口に運ぶ。ちびっ子三人娘が並んで食事を楽しむ姿に、食卓の空気が自然と和らいでいく。
「それにしても間宮さん、お料理までこんなにお上手だなんて反則ですよ。このお肉、お箸で切れるくらい柔らかいです」
「肉の繊維と筋膜の向きを外してあるだけですよ。解体屋の下積み時代の癖みたいなものです」
「その癖が完全に職人技なんですよ」
食事が一段落した頃合いを見計らい、俺は席を立った。
「さて、お腹も落ち着いたところで、今夜の真打ちを出しますね」
キッチンへ向かい、冷蔵庫からあらかじめ冷やしておいた平たい箱を取り出す。
ロイヤルブルーの化粧箱に、金箔押しで星の意匠と流麗な英文字が刻まれている。慎重にテーブルの中央へ置いた。
「あら、素敵な箱、って、えっ!?」
正面の志保が、箱のロゴを目にした瞬間、椅子から腰を浮かせた。
「嘘でしょ!? これ、まさか『パティスリー・エトワール』の箱じゃないですか!?」
「えっ、エトワールって、帝都の安全特区にある、完全会員制のお店ですか!?」
葵も息を詰めて箱を二度見した。
「知ってるんですか?」
「知ってるも何も、予約半年待ちの超名店ですよ! エキスポでストリーマーのねねちゃんが紹介して大騒ぎになってた幻のケーキじゃないですか! どうやって手に入れたんですか!?」
「エキスポの会場裏でねねに相談したら、自分の枠を使って祝宴の夜にねじ込んでくれたんです」
箱の留め具を外し、左右のフラップを開いた。
その瞬間、リビングに甘く芳醇な香りが広がった。
最高級バニラビーンズの薫香と、摘みたての大粒苺が放つみずみずしい香り。
現れたのは、直径20センチを超える純白のホールケーキだ。
雪のような生クリームの上に、深紅の完熟苺が隙間なく敷き詰められている。
「わあぁぁっ!」
陽菜と芽依が同時に歓声を上げた。
鈴は俺のズボンの裾を小さな手でぎゅっと引っ張り、身を乗り出してケーキを指差した。
「けーき! いちご!」
弾むような声で叫びながら、小さな足をぴょこぴょこと跳ねさせる。
「すごい、こんなに綺麗なショートケーキ、生まれて初めて見ました」
雫が息を呑んで呟いた。
均等に切り分けた皿を全員の前へ配る。
スプーンを手にした志保が、ケーキの端をすくって口へ運んだ。
次の瞬間、志保の動きが止まった。両手で両頬を包み、そのまま天を仰いで悶絶する。
「んんっ! ちょっと待ってください、何ですかこれ!? スポンジが舌の上で溶けて消えちゃいましたよ!?」
皿を見つめ直す志保。
「生クリームが全然くどくなくて、牛乳のコクがふわっと広がって、そこに苺の果汁がジュワッと弾けて、こんなに美味しいケーキ、生まれて初めて食べました!」
「本当ですね!」
葵もうっとりと目を細めた。
「甘さが上品で後味が驚くほど軽やかです。いくらでも食べられちゃいそう」
「極限まで気泡を均一に揃えたスポンジ構造に、異なる乳脂肪分のクリームが完璧な層を形成しています」
雫もフォークを止め、真剣な顔で呟いた。
「二重螺旋の励起回路が調和した瞬間のような奇跡的なバランスです。すごく美味しいです、先生」
三人娘のテーブルは天国のような有様だった。
陽菜も芽依も口の周りをクリームだらけにしながら夢中で頬張っている。
そして鈴は、小さなスプーン一杯のクリームと果肉を口いっぱいに含み、両目をぎゅっと細めた。両手でふっくらとした両頬をペチペチと叩きながら、満面の笑顔を咲かせる。
「あまーい! おいち!」
美味しさを全身で表現する仕草に、食卓からどっと温かな笑いがこぼれた。
皿が空になり、陽菜と芽依が鈴の手を引いてキッズスペースで積み木遊びを始めたのを見届け、俺は居住まいを正した。
「早川さん」
「どうしたんですか、間宮さん」
俺は椅子を引き、志保に向かって頭を下げた。
「先日の昇降シャフトの件、運行ダイヤの調整がつきまして。来週の火曜から、第31層の深層へ2泊3日の予定で潜ることになりました。それで、以前ご相談させていただいた、夜間の鈴の預かりの件をお願いできますでしょうか」
志保は静かに耳を傾ける。
「昼間はギルドの託児枠を使えますが、夜間はどうしても一人にしておくわけにはいきません。早川さんのお宅で泊まらせていただけないでしょうか。大切な娘を預かってもらう身です。さっきのケーキくらいでは足りないと思っています」
志保は少しの間ぽかんと瞬きをしていたが、やがて温かく破顔した。
「もう、間宮さんは本当に義理堅いんですから」
志保は笑いながら力強く頷いた。
「ええ、もちろん任せておきなさい! 陽菜も芽依も、鈴ちゃんとお泊まり会ができるって知ったら飛び跳ねて喜ぶわよ。間宮さんは後ろの心配はしないで、しっかり深層の現場に集中してきてください」
「本当に、ありがとうございます」
「いいんですよ。あんな国宝級のケーキまでご馳走になったんですもの。お隣同士、困った時は助け合いでしょ」
「間宮さん、私もサポートしますね!」
葵が身を乗り出して言葉を重ねた。
「仕事が終わり次第、毎晩早川さんのお宅に伺って手伝います。お風呂や着替えは私に任せてください」
「私もです」
雫も頷いた。
「研究室の帰りに毎日寄らせていただきます。買い出しや見守りは私たちにお任せください。後方は完璧に支えます」
「ありがとうございます。本当に助かります」
俺はもう一度、深く頭を下げた。
*
夜も更け、時計の針は21時半を回っていた。
遊び疲れた子供たちは、絨毯の上に敷いた毛布で寄り添うように眠っている。
陽菜と芽依の真ん中で、鈴は安心しきった顔ですやすやと寝息を立てていた。
その時、壁掛けの大型モニターに報道特別番組のテロップが流れた。葵がリモコンでわずかに音量を上げる。
『本日、世界探索者ギルド本部および国家防衛軍は緊急会見を開き、先の魔導兵装エキスポ演習場で発生した変異種の地中乱入事象に関する中間調査報告を発表しました』
画面には、険しい表情の防衛軍高官とギルド監査官が映し出されていた。
『調査の結果、侵入した超硬変異種グラウンド・モールは、外郭防壁の地下深層基礎杭の隙間を異常な魔力振動によって掘削、突破したことが判明しました。これを受け防衛軍は、防壁基礎杭および地中浸透探査網の抜本的見直しを決定。深層第31層以降で活発化している未知のアストラル生命体による地中活動が、都市基盤の深部にまで影響を及ぼしているとして、深層探索者への警戒レベルを最大に引き上げました』
防壁の地中の死角。そして、深層から忍び寄る未知の脅威。
「防壁の足元すら、絶対の安全地帯ではなくなりつつあるってことね」
志保がぽつりと呟き、眠る我が子たちの背中にそっと手を添えた。
俺は立ち上がり、静かにベランダへ通じるガラス扉へと歩み寄った。
外郭防壁の向こう、夜の闇に沈む都市の光脈が、冷たい星空の下で瞬いている。
その遥か地下深く、光の届かない第31層の深層で、未知の怪異たちが蠢いているのだ。
両肩にはまだ、地下射撃壕で構えた鉄の感触が残っている。
倉田と親方が仕上げてくれている大口径対物魔導狙撃ライフル『黒曜』。
そして、我が身の一部となった4機の漆黒の刃『レイヴン』と、腰の解体ナイフ。
初めて娘と離れて挑む、2泊3日の深層アタック。
未知の深層がどれほど暗く冷たくとも、退く理由はどこにもない。
サッシを静かに閉め、冷気を遮るようにカーテンを引いた。
部屋を振り返ると、暖かな間接照明の下で、鈴が柔らかな寝息を立てていた。小さな指先が、何かを掴むように毛布の端を微かに握りしめている。
足音を忍ばせて歩み寄り、はだけかけた毛布をそっと肩まで掛け直した。
小さな胸が上下する静かなリズムを確かめながら、俺は次の戦いへ向けてゆっくりと息を整えた。
お読みいただきありがとうございます。
ここまでで第7章が区切りとなりました。
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