第006話:てぇてぇ日常と、初めて呼んでくれた名前
ダンジョンの閉所坑道を抜け、俺は足早に第七外郭門のギルド出張所へと戻ってきた。
換金窓口で、先ほど回収したケイブ・ラーカーのD級上位魔石4個を差し出す。
「ええっ!? 間宮さん、またD級上位の魔石ですか!? しかも4個も!」
対応してくれた長谷川さんが、息を呑んで鑑定器の液晶画面を二度見した。
「浅層の坑道で、たまたま湧いてたのを片付けただけだ。それより、早く換金してくれ。鈴を迎えに行きたい」
「あ、はい! 買い取り額は合計で12万4000円になります!」
端末に電子マネーが振り込まれたのを確認し、俺は併設の託児室へと急いだ。
ドアのガラス越しに中を覗くと、プレイルームの隅、柔らかいマットの上で、鈴がちょこんと座って絵本の表紙をペチペチと叩いていた。
だが、ドアが開いた微かな音に気づいた瞬間、鈴の耳がピクリと跳ねる。
「あーっ!」
俺の姿を視界に捉えるなり、鈴はパッと満面の笑みを咲かせ、短い両手をいっぱいに広げてパタパタと振った。
立ち上がろうとしてお尻からコロンと転がり、それでも必死に手足をバタつかせて這い寄ってくる。
「お利口さんにしてましたよ。ご飯もお昼寝もしっかり済ませて、でもドアが開くたびにずっとお父さんの姿を探してました」
保育スタッフの女性が、微笑ましそうに鈴を抱き上げて俺へと手渡してくれた。
「お父さんじゃない、ただの一時預かり人だ」
いつものように口先だけで訂正しながら、俺は差し出された小さな体を受け止めた。
腕の中に収まった瞬間、鈴は「くぅ、んー!」と甘えたような声を漏らし、俺の首元に両腕を回してぎゅっとしがみついてきた。
小さな胸がトクトクと速い鼓動を打っている。
ずっと我慢して待っていたのだろう。
その健気な温もりに、ダンジョンでの疲れが一気に溶けていくような気がした。
「待たせて悪かったな。帰るぞ、鈴」
「きゃっ、あーい!」
*
ギルドのロビーを抜けて外へ出ようとした、その時だった。
出張所の壁面に設置された大型の街頭モニター前に、数十人の探索者たちが人だかりを作っていた。
『こちらが、先ほど大手クラン所属のCランク探索者、クロード氏の配信中に起きた衝撃の映像です!』
『全高4メートルのマナ・フレームをスタックさせたケイブ・ラーカー4頭を、突如現れた歩兵探索者がわずか20秒で殲滅!』
『現在、SNSでは「あの謎のEランク歩兵は何者だ」「本物の暗殺部隊か」と特定作業が過熱しており、関連ワードが世界トレンド1位を独走しています!』
モニターには、クロードのドローンカメラが高画質で捉えた、俺の姿がデカデカと映し出されていた。
泥まみれの作業着。左手のハンドガンで複眼を焼き、右手の大型解体ナイフで百足の節を抉り切る職人技。
そして極めつけは、カメラを手でシッシッと追い払い、「邪魔だからさっさとバックしろ」と吐き捨てて去っていく俺の不愛想な横顔だ。
「おい見ろよ、今の動きヤバすぎだろ!」
「Cランクの魔獣をナイフ1本で捌いてるぞ」
「胸のギルドタグ、間違いなくEランクだったぜ? どこの潜伏ランカーだよ!」
周囲の探索者たちが興奮気味に騒ぎ立てている。
俺は心の中で全力の舌打ちをした。
(あいつ、本当に配信カメラを全世界に垂れ流してやがったのかよ。迷惑極まりねぇ!)
承認欲求なんてこれっぽっちもない。
目立ちたくないからこそ、誰も寄り付かない閉所の狭い坑道を選んで潜っていたのだ。
幸いなことに、映像の俺は顔中に泥と返り血を浴びており、解像度の高いモニター越しでもすぐには同一人物だと特定されないはずだ。
「あぅ? これ?」
腕の中の鈴が、街頭モニターを指差して不思議そうに首をかしげる。
「これ、じゃねぇよ。見なくていい。帰るぞ」
俺は機能性パーカーのフードを目深に被り、鈴を抱きかかえる腕に力を込めて、足早に雑踏の中へと姿を消した。
*
帰り道、駅前のスーパーで少し贅沢をした。
鈴のために新鮮なバナナとリンゴ、そして柔らかい白身魚。自分用には、半額シールの貼られていない出来立ての生姜焼き弁当を買った。
昨日今日で合わせて40万円以上稼いだのだ。これくらいの贅沢は許されるだろう。
アパートへ戻ると、まずはお風呂だ。
狭いユニットバスの浴槽にぬるめのお湯を浅く張り、鈴の服を脱がせる。
お湯につけた瞬間、鈴は「きゃっ、ぱぁ!」と両手でお湯をバシャバシャと叩いて歓声を上げた。
「おいおい、暴れるな。顔にお湯がかかるぞ」
濡らしたタオルで柔らかい肌を優しく洗い、シャンプーハットをかぶせてふわふわの髪を洗う。
昨晩の夜泣きでスマホ検索しまくった甲斐あって、お風呂の入れ方だけは劇的に上達していた。
綺麗さっぱり洗ってバスタオルで包み込むと、鈴はぽかぽかと湯気を立てながら、気持ちよさそうに目を細めた。
部屋へ戻り、すりおろしたリンゴとバナナをスプーンで口元へ運ぶ。
「ほら、デザートだぞ」
「あむっ! んまー! えへへへ!」
甘い果物の味がよほど美味しかったのか、鈴は足をパタパタさせて満面の笑みをこぼした。
口の周りをべたべたにしながら、あっという間に小皿の果物を平らげてしまう。
「よしよし、いっぱい食ったな。じゃあ、寝る準備するか」
万年床の上に座布団を並べ、ギルドの図書コーナーで借りてきた幼児向けの絵本を広げた。
動物たちが野原で遊ぶ、他愛のない絵本だ。
鈴は俺の膝の上にちょこんと座り、小さな指先で絵本のクマやウサギをペタペタと触っている。
「これがクマ。昨日俺が山でシバいたやつより、だいぶ可愛いな」
「くぅ?」
「そう、クマ。んで、こっちがウサギ」
絵本を読み聞かせながら、部屋に穏やかな時間が流れていく。
やがて、お腹がいっぱいになり、お風呂で温まった鈴のまぶたが、とろんと重くなってきた。
小さな頭が、こてんと俺の胸元に寄りかかってくる。
「眠くなったか。ほら、横になれ」
座布団の上に寝かせようと体を離しかけた、その時だった。
ぎゅっ。
鈴の小さな両手が、俺の人差し指をしっかりと握りしめてきた。
離すまいとするように、全身の力を込めて。
そして、とろんとしていた気配がすっと引き締まり、じっと俺の顔を見つめてきた。
「ん?」
鈴の小さな胸が、大きく息を吸い込むように上下する。
何かを必死に伝えようとするように、小さな唇が一所懸命に開かれた。
「り」
「え?」
たどたどしい、微かな声。
鈴は俺の指をさらに強く握りしめ、喉の奥から絞り出すように小さな音を紡ぎ出す。
「りょ」
息が止まった。
部屋の中の静寂が、痛いほど鮮明に耳に届く。
鈴は潤んだ瞳をまっすぐに俺へと向け、満開の花が咲くようなとびきりの笑顔を浮かべた。
「りょー! えへへ、りょー!」
りょー。
間宮凌。
俺の名前だった。
「お前、今、俺の名前を呼んだのか?」
声が震えた。
長谷川さんや保育スタッフが呼んでいた「りょうさん」という音を、ずっと覚えていたのだろうか。
まだ喃語しか喋れなかった赤ん坊が、生まれて初めて口にした人間の言葉。
それが、俺の名前だった。
「りょー! きゃっ、あーい!」
鈴は嬉しそうに何度も俺の名前を呼びながら、小さな体をいっぱいに伸ばして、俺の胸元へとダイブしてきた。
小さな両手が、俺の首にしがみつく。
柔らかくて、温かくて、全身全霊で俺を信頼し切っている小さな命の重み。
その瞬間、俺の胸の中で、何かが音を立てて崩れ去った。
受け入れ先が見つかるまでの仮の預かり。
独身の俺に子育てなんて無理だ。
施設が見つかったら、さっさと引き渡して元の気楽な一人暮らしに戻る。
そうやって自分に言い聞かせて作っていた冷徹な心の壁が、跡形もなく溶けて消えていく。
「ったく。本当に、調子が狂うな」
視界が微かに滲むのを隠すように、俺は鈴の柔らかな背中を両腕でぎゅっと抱きしめ返した。
こんな無防備な笑顔で、自分の名前を呼ばれて。
この温もりを手放せるわけがない。
どこの誰とも分からない施設なんかに、この子を渡せるはずがなかった。
「もういい。誰にも渡さねぇよ」
小さな耳元で、静かに呟いた。
底辺Eランクだろうが関係ない。
魔獣だろうが、ダンジョンだろうが、世間の騒ぎだろうが、全部叩き潰して稼いでやる。
「お前が大きくなるまで、俺が絶対に守ってやるからな。鈴」
俺の言葉が分かったのか、鈴は満足そうに「んー、えへ」と小さく笑い、俺の胸に頬をすり寄せた。
そして数分もしないうちに、すやすやと穏やかな寝息を立てて深い眠りへと落ちていった。
小さな寝顔を見つめながら、俺はしばらくの間、身動きひとつ取れずにいた。
規則正しい寝息だけが、狭い六畳間に静かに満ちていく。
お読みいただきありがとうございます。
ここまでで第1章が区切りとなりました。
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