第053話:雫の数式と、深層の冷酷な現実
朝7時30分。
安全特区タワーマンションの最上階、東向きのリビングに柔らかな朝の光が差し込んでいた。
キッチンから漂う出汁の香りに包まれながら、鈴が子供用の椅子にちょこんと座り、小さな手で銀のスプーンを握りしめている。
佐伯親方とアルス・テック社が共同開発した、微細魔力共鳴カトラリー。通称、奇跡の銀匙だ。
スプーンの先が触れた瞬間、温かい野菜粥の繊維がふわりとほどけ、極上のポタージュのように滑らかに変化する。
「んま!」
鈴が自慢げに小さなスプーンを掲げ、口いっぱいに頬張った。
もぐもぐと顎を動かし、満足そうに目を細める。
「よし、今日もこぼさず食えたな。えらいぞ」
テーブルの脇にしゃがみ、鈴の口元についた米粒を指先でそっと拭い取った。
小さな胸に下げられた紙のスタイを外し、通園バッグを肩にかける。
1階の特区内認可保育所へ向かうエレベーターの中、鈴は俺の指を小さな両手でぎゅっと握りしめていた。
保育所の玄関で担任の保育士に頭を下げる。
「間宮さん、おはようございます。鈴ちゃん、今日もご機嫌ですね」
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
抱っこ紐から下ろすと、鈴はトタトタと教室の絨毯へ駆け出し、ふと思い出したように振り返った。
小さな両手を頭の上で一生懸命に振る。
「ばいばー!」
「ああ、いい子にしてるんだぞ」
手を振り返し、保育所の自動ドアが閉まるのを見届けてから、歩兵用のバックパックを背負い直した。
日課のギルド出張所へ向かうため、駅前の連絡通路へ足を向ける。
*
世界探索者ギルド、第七外郭門出張所。
朝の受付カウンターには、いつものように書類の山と格闘する受付嬢、長谷川さんの姿があった。
だが、視界に俺が入った瞬間、彼女の手がピタリと止まる。
人差し指で眼鏡のブリッジをクイと押し上げ、ディスプレイの端末を鋭い目線で睨みつけた。
「間宮さぁん?」
地を這うような、低く押し殺した声だった。
「どうも、長谷川さん。Bランク昇格後の初日報告に来たんだが」
「ええ、よく来てくれました。前回のスタンピード迎撃、無傷での大勝利、そして国家防衛軍やAランクの鳴神さんとの共闘、誠にお見事でしたよ」
「そりゃどうも」
「それで、この戦闘記録の出動時間と帰還時間、なんですかこれは。出動17時15分、帰還18時30分。所要時間、わずか1時間15分。定時退勤ですか!?」
バン、と受付カウンターに平手が叩きつけられた。
カウンター越しの探索者たちが一斉に肩を跳ねさせてこちらを見る。
「あのですね、間宮さん! Bランク探索者は、ギルド規約上『防壁外での治安維持活動において、1回の出動につき最低半日、緊急時は拠点野営を含む防衛義務』が定められているんです! 1時間ちょっとで50トンのメガロ・ベヒーモスを瞬殺して、肉だけ削ぎ落として定時でおうちに帰るなんて、規約の穴を突くにも程があります!」
「しょうがねえだろ。娘の飯と風呂があるんだ。遅れたら湯冷めするし腹も減る」
「娘さんを理由に公務を秒殺しないでください! このままだと監査部から『時間稼ぎの拠点警備に1泊2日で回せ』って命令が下りますよ!」
「断固拒否だ。鈴と一晩離れるなんて死んでも御免だね」
即答すると、長谷川さんは深々と長い溜め息を吐き出し、額を押さえた。
そして、ふっと真面目な顔つきに戻り、カウンターの下から青いファイルを取り出した。
「そんな間宮さんに、さらに残酷な現実をお伝えしなければなりません」
「なんだよ、改まって」
「Bランクライセンスが正式発行されたことで、間宮さんには第31層以降の【深層領域】への侵入認可が下りました」
「ああ。深層の大型魔獣を狩らなきゃ、上級クラスの超高純度な魔石も手に入らねえからな」
「ええ。ですが、深層はこれまでの浅層や中層とは構造が根本から違います。東京ピラー第30層と第31層の間には、巨大な重力変動断層と古代隔壁が存在します。そこを繋ぐ超大型昇降シャフトは、魔力炉の冷却サイクルと安全点検のため、昇降運行が【3日に1便】しかありません」
長谷川さんの言葉に、眉根が寄った。
「3日に1便?」
「はい。つまり、一度深層へ降りたら、最短でも【2泊3日】、現地第31層の補給要塞で野営遠征を張る必要があります。物理的に、日帰りは絶対に不可能です。17時のお迎えどころか、丸3日間は地上へ戻れません」
頭の芯が急激に冷えていく。
心臓が嫌な拍動を刻み始めた。
「日帰りが、できねえ?」
「はい。どんなに足が速くても、昇降機が動かない以上は上がってこられません」
「冗談じゃねえぞ! 2泊3日!? 鈴を3日も放ったらかしにできるわけねえだろ! 誰が朝飯食わせるんだ! 誰が夜寝かしつけるんだよ!」
「ですから言ったでしょう! それが深層探索者の現実なんです! 深層へ潜る探索者は、家族を誰かに預けるか、寮に入れるか、あるいは命がけの覚悟で生活基盤を遠征に合わせているんです!」
「潜るのやめるわ。浅層で薬草むしる」
「Bランクのトップランカーが薬草むしりで満足できるわけないでしょうが! それに、鈴ちゃんの将来の養育費、特区の維持費、そして何より深層の特異魔素から街を守るための戦力として、ギルドもあなたを遊ばせておく気はありません!」
長谷川さんが身を乗り出し、眼鏡の奥の瞳を真っ直ぐに向けてきた。
「子供の預け先を確保するか、あるいは深層の魔獣を一撃で屠る準備を完璧に整え、遠征期間を1分でも無駄なく切り上げるしかありません。甘ったれないでください、間宮さん。あなたはもう、下請けの雑用係じゃないんです」
ぐうの音も出ない正論だった。
奥歯をギリリと噛み締め、ファイルを掴み取ると、背を向けてカウンターを離れた。
*
午後、第7区の下町にある佐伯魔導鍛冶工房。
けたたましい槌の音と、機械油の焼ける独特の匂いが立ち込めていた。
作業台の上には、太い魔導ケーブルが繋がれた無骨な銃身ユニットが置かれている。
傍らには、アルス・テック社が持ち込んだ背負い式の大型外部魔力バッテリー。
「ダメだな。どうしてもバレル基部で魔力結晶の集束が散る」
腕組みをした佐伯の親父が、焦げ付いた魔導配線を煙管の先で指した。
その隣に立つ倉田巌チーフも、眉間に深い皺を寄せてタブレット端末の数値を睨みつけている。
「外部バッテリーから送り込まれる魔力量は、通常の魔導小銃の30倍です。これだけの高出力を単発の徹甲弾芯に集約しようとすると、回路内で励起波が互いに干渉し合って打ち消し合ってしまう。エネルギー伝達効率が30パーセント以下まで急落する上に、過剰な排熱でバレルが焼き切れます」
「俺が打った特殊合金でも、熱膨張で腔線が歪む。これじゃあ500メートル先の急所を撃ち抜くどころか、銃身が破裂して射手の顔が吹き飛ぶぞ」
二人の言葉を聞きながら、作業台のパーツを見つめた。
遠距離から確実に巨獣の急所を撃ち抜く大口径対物魔導狙撃ライフル。
2泊3日の遠征を最短で切り抜けるためにも、絶対に手元に揃えなければならない切り札だった。だが、技術の壁は厚い。
その時、ガラガラと工房の引き戸が開いた。
「失礼します! お昼の差し入れを持ってきました!」
大きなタッパーを抱えて入ってきたのは、如月雫だった。
帝都魔導アカデミーの制服ではなく、動きやすい作業用シャツにサスペンダー姿。手には分厚い計算用紙の束を抱えている。
「如月か」
「あ、間宮先生! 倉田チーフに親方さんも。あれ、皆さん浮かない顔ですね?」
「外部バッテリーの超高圧魔力をライフル銃身へ減衰させずに送り込む回路だ。励起干渉のせいでエネルギーが霧散しちまう。既存の魔導工学の理論じゃ、並列回路でも直列回路でも限界があるんだよ」
倉田が溜め息をつきながら設計図を見せると、雫は身を乗り出し、食い入るように配線パターンを覗き込んだ。
数秒の後、彼女の双眸に鋭い光が宿る。
「これ、単一の平面回路で励起させようとしているから干渉するんです」
「なに?」
「失礼します!」
雫は持っていたタッパーを作業台に置くと、壁に掛かっていた黒板の前に歩み寄り、白いチョークを握りしめた。
カツ、カツカツカツ、と小気味よい音が工房に響き渡る。
「魔素粒子を高圧で送り込む際、位相を90度ずらした2つの磁場を立体的に交差させます。そう、DNAのような『二重螺旋励起理論』です」
黒板の上に、猛烈な速度で数式が展開されていく。
複素数、偏微分方程式、魔力流体工学の記号が淀みなく紡ぎ出される。
「外殻回路と芯線回路で魔力を逆回転で旋回させれば、干渉波は互いを打ち消すのではなく、中心軸に向かって相互に圧縮し合います。これなら、外部バッテリーからのエネルギー伝達効率は理論上98パーセント以上。熱放散もバレル後方の排熱スリットへ一方通行で集束できます!」
チョークの先がパキリと折れ、数式の末尾に力強い等号が引かれた。
工房の空気が凍りついたように静まり返る。
倉田がタブレットを落としそうになりながら黒板に駆け寄り、親方は煙管を取り落としかけて口を半開きにした。
「二重螺旋励起!? そんな回路配置、アカデミーの最新論文でも見たことがないぞ!」
「はい! アカデミーの研究室で『実用性のない机上の空論』と教授たちに却下された、私の卒業研究のボツ原稿です。でも、親方の打った高密度魔導鋼と、アルス・テックの最新コンデンサがあるこの現場なら、絶対に形にできます!」
雫は息を弾ませ、誇らしげに胸を張った。
親方が頭をガリガリと掻き、豪快な笑い声を上げる。
「かっかっか! こいつはたまげた! アカデミーの頭でっかちどもが捨てたゴミの中に、こんな宝の山が埋まってたとはな!」
「すぐに試作回路のCADデータを組み直します! これなら、大口径対物魔導狙撃兵装、確実に完成させられますよ!」
倉田の手が猛烈な勢いで端末を叩き始める。
暗雲が垂れ込めていた工房に、一筋の確かな光が差し込んだ。
雫の元へ歩み寄り、その頭にぽんと手を置いた。
「でかした、雫。助かったぞ」
「えへへ、お役に立ててよかったです、先生!」
雫はくしゃりと顔を綻ばせ、嬉しそうに頷いた。
黒板を囲んで熱い議論を始めた倉田と親方を見つめながら、俺はポケットの中で握りしめた青いファイルにそっと触れた。
新兵装の道筋は見えた。
だが、長谷川さんが告げた冷酷な現実が消えたわけじゃない。
深層は最短でも2泊3日。
日帰りは絶対に不可能。
3日間、鈴と離れる。
誰に預けるのか。どうやって守るのか。
火花を散らす工房の熱気の中で、俺は遠い深層の闇を見つめるように、静かに息を吐き出した。




