第052話:温かなポトフと、夜の団欒
カチリ、と静かに電子錠が解錠された。
夜18時50分。
関東第3防壁都市、第2区安全居住特区にそびえ立つ免震タワーマンションの最上階。
重厚な玄関ドアを押し開けた瞬間、廊下の奥から美味しそうな匂いがふわりと漂ってきた。
香味野菜とブイヨンの芳醇な香り。
荒野の硝煙と土煙の匂いが染み付いた身体に、温かな香りが染み渡っていく。
タタタタタタッ!
直後、廊下のフローリングを走る、リズミカルで小さな足音が響き渡った。
「ぱぱーーーっ!」
リビングの扉を押し開けて飛び出してきたのは、両手をめいっぱい広げた鈴だった。
よちよちとした走り足で、玄関の上がり框まで一直線に駆けてくる。
「おう、鈴! ただいま!」
俺は防護ベストを素早く脱ぎ捨て、腰を落として両腕を広げた。
ドフッ、と柔らかな温もりが胸元へ飛び込んでくる。
鈴は俺の首元に小さな両腕をギュッと巻きつけ、満面の笑顔で頬を擦り寄せてきた。
「ぱぱ! おかえー!」
「ああ、ただいま。いい子で待ってたか?」
「うん! まてた!」
鈴の小さな背中を優しく撫でさすりながら、俺は深く息を吐き出した。
体長15メートル、50トンの怪物と鉄の巨神が命を削り合っていた戦場から、わずか30分足らず。
腕の中に抱きしめた娘の柔らかい温もりと、赤ん坊特有の甘いミルクの匂いが、俺の心を現実の平穏へと一瞬で引き戻してくれた。
生きて、無傷で帰ってきた。
この子の元へ定時に帰ること以上に、価値のある仕事などこの世にはない。
「おかえりなさい、間宮さん! 怪我はありませんでしたか!?」
キッチンの奥から、黄色いエプロンを着けた神崎葵がパタパタと小走りで駆け寄ってきた。
その後ろからは、藍色のエプロンをきっちりと身にまとった如月雫も、お玉を手にしたまま姿を見せる。
「先生、お帰りなさいませ。防壁外のサイレンが鳴り響いた時は心配しましたが、ご無事で何よりです」
「葵、雫。出迎えありがとな。かすり傷一つねえよ。熊井さんやクロード、防衛軍が鉄壁の前線を張ってくれたおかげだ」
俺は鈴を抱き上げたまま立ち上がり、靴を脱いで上がった。
手洗いうがいを済ませ、衣服に付着した微細な埃を脱衣所の魔導エアシャワーで完全に洗い流す。
清潔な部屋着に着替えてリビングへ戻ると、ダイニングテーブルの上には湯気を立てる大きな土鍋が据えられていた。
「わあ、いい匂いだな。ポトフか?」
「はい! 間宮さんが出撃する前に『温かい夜飯までに帰る』っておっしゃっていたので、如月さんと一緒に最高級の根菜とベーコンを煮込んでいたんです!」
「先生の好みに合わせて、コンソメは薄味仕立てにし、野菜の自然な甘みを最大限に引き出す魔力温度管理を施しました。弱火の維持には自信があります」
「ふふっ、如月さん、火加減の魔力微調整に夢中になりすぎて、さっきお玉を焦がしかけてましたけどね」
「あ、葵さん! それは今言わなくてもいいではありませんか!」
頬を赤らめて言い募る雫と、クスクスと笑う葵。
二人のやり取りを見ているだけで、荒野の殺伐とした空気が完全にほどけていくのが分かった。
「そうだ。これ、今日の現場の土産だ」
俺は保冷バッグから、チルド保存しておいたメガロ・ベヒーモスの肩ロース肉を取り出し、キッチンのカウンターへ置いた。
桜色の見事なサシが入った、極上のブロック肉だ。
「えっ! こ、これって、さっきクロードさんの配信で映っていた、あの巨大ボスの肉ですか!?」
「もう解体して持って帰ってきたんですか!? 討伐からまだ30分しか経っていないはずなのに」
「放置したら肉が傷むからな。現場で血抜きして、ギルドに現物買い取り申請を通してきた。明日、佐伯親方やタケも呼んで、みんなでステーキかすき焼きにでもしよう」
「わあ、楽しみです! 佐伯親方もタケさんも、絶対に大喜びしますね!」
「ふふ、また賑やかになりそうですね。最高級の極上肉ですから、明日に備えて仕込みの準備を整えておきます」
身を弾ませる葵と、隣で嬉しそうに頷く雫。
食卓の子供用のハイチェアには、鈴がちょこんと腰掛けている。
その小さな手には、銀色に鈍く輝く小さなスプーンが誇らしげに握られていた。
佐伯工房の頑固親父と、アルス・テック社の倉田チーフが職人の意地で作り上げたマスターピース、【微細魔力共鳴スプーン(奇跡の銀匙)】だ。
「これ! すぷーん!」
「おう、お気に入りの銀匙だな。よし、夜飯にしよう」
葵が深皿に、柔らかく煮込まれた大根、ニンジン、ジャガイモ、キャベツ、そして一口大のソーセージを盛り付けてくれた。
澄んだ黄金色のスープから、芳醇な湯気が立ち上る。
「いただきます!」
全員で手を合わせ、夕餉が始まった。
鈴は小さな両手で銀匙をしっかりと握ると、スープに浸かった大根の角へスプーンの先をチョンと当てた。
その瞬間、銀匙に仕込まれた魔導共鳴プレートが、鈴の無意識の微弱な生体波に反応した。
チリ、とごくわずかな超音波微細振動が発生する。
煮込まれていた大根の繊維が音もなくふわりと解繊され、抵抗なくスプーンの上へとすくい取られた。
「あむっ!」
鈴が大きなお口を開けて、自分でスプーンを口に運んだ。
もぐもぐと小さな顎を動かす。
次の瞬間、鈴が両手でぽよんとした小さなほっぺをギュッと押さえ、身体を左右に揺らしながら叫んだ。
「んま! んまーーーーーっ!!」
「ふふっ、よかった! 美味しくできたみたい!」
「ええ、鈴ちゃんの咀嚼器官の負荷を計算し、野菜の繊維方向を垂直に断ち切った甲斐がありました」
葵と雫が嬉しそうに顔を見合わせる。
俺もスプーンを取り、熱々のポトフを一口すすった。
「ああ」
深い息が漏れた。
野菜の優しい甘みと、肉の旨味が溶け込んだ熱いスープが、五臓六腑にじんわりと染み渡っていく。
芯から冷え切っていた身体が、急速に温まっていくのが分かった。
「生き返るな」
「お口に合いましたか、間宮さん?」
「ああ、最高だ。こんな美味い飯が食えるなら、荒野の泥水も悪くねえと思えるくらいにな」
俺が言うと、葵は照れくさそうに笑い、雫も誇らしげに胸を張った。
団欒の温かな空気の中、俺はスープを口に運びながら、さっき通信で交わした話を二人に切り出した。
「そういえば、倉田チーフと佐伯親方に、新しい獲物の設計を頼んだ」
「新しい獲物ですか?」
葵がスプーンを動かす手を止め、驚いたように身を乗り出した。
「ああ。配信を見てただろ。あんな50トンの質量で突っ込まれたら、俺の間合いに入る前に轢き潰されちまう。今の獲物じゃ、遠くから止められねえんだ」
「確かに、マナ・フレームの正面装甲でさえ押し返されるレベルの突進力でしたからね」
「だから、外部バッテリーを背負って遠くから装甲ごとぶち抜くような、大口径の狙撃ライフルを頼んできた」
「外部バッテリー駆動の大口径狙撃兵装! それ、アルス・テックでも基礎理論の段階で止まっていたコンセプトです! 橘さんのロマン砲とは違って、間宮さんの精密な反動制御と急所狙撃が合わされば、とんでもない決戦兵器になりますよ!」
葵が技術屋の顔になって興奮気味に語る。
雫も真剣な面持ちで頷いた。
「先生の職人技に、遠距離からの絶対的な大火力が加われば、もはや死角はありませんね。第31層から先、古代金属遺跡が広がる深層エリアには、生身の歩兵では歯が立たない超重量級の古代兵器や魔獣が徘徊していると聞きます。その新兵装こそ、深層突破の鍵になるはずです」
「深層、か」
俺は窓の外へ視線を向けた。
タワーマンションの最上階の窓から見える、夜の関東第3防壁都市。
外郭平原の迎撃戦を終えた街は、無数の街灯とネオンで黄金色の光の海のように輝いていた。
その光の海の遥か地下には、人類が未だ全容を掴めない巨大迷宮、東京ピラー地下大迷宮が眠っている。
今日戦った地上変異種とはまた異なる、より深く、より未知に満ちた極限の領域。
鳴神駿の言葉が、脳裏をよぎった。
『また会おう、間宮凌。お前が深層へ上がってくる日を楽しみにしている』
トッププロの看板を背負う孤高の男。
彼らエリート探索者がしのぎを削る領域へ、俺もやがて足を踏み入れることになる。
だが、俺が戦う理由は、名誉でもランキングでもない。
ふと視線を戻すと、お腹がいっぱいになった鈴が、椅子の上でコックリコックリと小さな船を漕ぎ始めていた。
手からぽろりと奇跡の銀匙が落ちそうになるのを、俺はそっと受け止めた。
「鈴、ごちそうさまは?」
「ん、ごちそさま」
鈴はぺこりと小さく頭を下げると、とろりと眠たげな瞳で両手を伸ばしてきた。
「だっこー」
俺はそっと娘の身体を抱き上げた。
トントンと背中を優しく叩いてやると、鈴は俺の首筋に顔を埋め、安心しきった寝息を立て始めた。
首筋に当たる柔らかな息遣いと、確かな温もり。
「ふふ、すっかり夢の中ですね」
「先生、鈴ちゃんのベッドの毛布、温めてあります」
葵が小声で微笑み、雫がそっと寝室のドアを開けてくれた。
テーブルの上には、綺麗に平らげられた深皿の横に、鈴のお気に入りの銀匙が静かに置かれている。
明日も朝になれば、保育所の送り迎えがあり、工房での仕込みがある。
「おやすみ、鈴」
眠る娘の小さな背中を支えながら、俺は静かに寝室へと歩き出した。
お読みいただきありがとうございます。
ここまでで第6章が区切りとなりました。
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