第047話:二つの名前と、初めての「ぱぱ」
午前10時30分。
鈴を認可保育所へ送り届けた後、俺はギルド第7外郭門出張所を訪れていた。
普段の解体窓口ではなく、奥にある個別相談ブース。
アクリル板で仕切られた静かな一室で、長谷川さんが端末のホログラム画面を真剣な表情で見つめていた。
「照合が完了しました」
長谷川さんが顔を上げ、静かに眼鏡を外した。
机の上には、先日俺が防壁外の旧第8開拓プラントから回収してきた耐熱記録チップと、家族写真の現物が置かれている。
「音声ログの声紋、および回収された社員名簿のDNAデータが一致しました。記録されていたお二人は、旧第8開拓プラント機械工班の水島誠さん、遥さんご夫妻。そして」
長谷川さんは、写真の裏に震える筆跡で刻まれていた文字に指を添えた。
「お二人が命がけで守り抜いた愛娘の本名は、水島紬ちゃんです」
「紬か」
俺は低く呟き、自分の掌を見つめた。
あの全滅した過疎集落の地蔵堂。チリンと風鈴の音が鳴る軒先で、毛布にくるまって震えていた赤ん坊。
身元も分からず、保護施設へ送ればどんな扱いを受けるかも分からず、俺がその場で咄嗟に名付けた「鈴」という名前。
だが、あの子には本当の両親が、最期の瞬間まで愛を込めて呼び続けた名前があったのだ。
「長谷川さん。俺が勝手に『鈴』なんて名付けて、呼び続けてていいのか」
胸の奥で燻っていた重い問いを、そのまま口にした。
「あいつの本当の両親が命を削って遺した本名がある。俺みたいな元下請けの解体屋が、勝手に名付けた名前で誤魔化しちゃいけないんじゃないのか。今からでも、紬と呼んでやるべきなんじゃないのか」
俺が伏し目がちにそう告げると、長谷川さんは呆れたような、それでいてどこか泣きそうな顔で溜め息をついた。
「凌さん。あなたって人は、どうしてそこまで不器用なんですか」
長谷川さんは立ち上がり、1枚の公的書類を俺の前に差し出した。
【特区身元原簿・親権移転申立書】。
「法的な手続きからお話ししますね。まず、ギルドと行政の公的記録原簿には、水島ご夫妻の愛娘【水島 紬】として、あの子の出自と血縁のルーツが永久に保全されます。ご両親が生きた証も、あの子に遺した名も愛も、この世界から決して消えたりしません」
長谷川さんの言葉が、じんわりと胸に染み込んでいく。
「その上で、です。凌さん、あなたが正式な保護親としてあの子を戸籍に迎えるにあたって、名付け親であるあなたが【間宮 鈴】として正式に名の変更を届出することができます。これは家庭裁判所の審判でも100パーセント認められる正当な権利です」
「名の、変更」
「ええ。勝手に呼んでいるなんて、自分を責めないでください。凍えそうな地蔵堂で小さな命を抱き上げ、ミルクを飲ませ、今日まで無傷で育ててきたのは誰ですか? あの子が『りょー!』と呼んで満面の笑みを見せるのは誰の前ですか?」
長谷川さんは身を乗り出し、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
「あの子にとって、あなたがくれた『鈴』という名前と、あなたが呼ぶ声こそが、今この世界で一番確かな命の居場所なんですよ」
「居場所、か」
「ご両親だって、自分の死後、名も知らぬ誰かに放置されるより、あの子を命がけで愛し、新しい名前とともに家族として迎え入れてくれるあなたのような父親に出会えたことを、天国でどれほど感謝しているか分かりません」
長谷川さんはペンを差し出し、微笑んだ。
「自信を持ってサインしてください、間宮鈴ちゃんのお父さん」
俺はペンを握りしめた。
視界の端が少しだけ滲んだが、手元は寸分も狂わなかった。
魔力を通す時のように迷いを捨て、申立書の署名欄に、力強い筆跡で自分の名前と、あの子の名前を書き込んだ。
保護親:間宮 凌
対象児童:間宮 鈴
「申請、よろしく頼む」
「はい! 喜んでお預かりします!」
長谷川さんが満面の笑顔で書類を受け取り、深々と頭を下げた。
出張所を出ると、初冬の澄んだ青空がどこまでも高く広がっていた。
胸の奥に鉛のように溜まっていた重荷が、嘘のように軽くなっていた。
*
夕方17時。
認可保育所へ鈴を迎えに行き、抱っこ紐に収めてタワーマンションへ帰還した。
エレベーターで最上階へ上がり、我が家の玄関前へ辿り着くと、両手にスーパーの買い物袋を提げた葵と雫の2人が待っていた。
「あ、間宮さん! 鈴ちゃんもおかえり!」
「先生、お帰りをお待ちしておりました! 葵さんと一緒に有機野菜の買い出しを完了させてあります!」
マイエプロンを持参した2人が満面の笑顔で駆け寄ってくる。
「お前ら、また勝手に押し掛けてきたのか」
「いいから早く開けて! 今日は鈴ちゃんの新しいスプーンに合わせて、野菜たっぷりのポトフを作るんだから!」
苦笑しながら玄関ドアの電子錠を解錠し、2人を中へと招き入れた。
俺は靴を脱ぎ、鈴を抱っこ紐から降ろしてリビングのプレイマットへ立たせてやった。
鈴はローテーブルの上に置いてあった白銀のスプーンを見つけると、嬉しそうに小さな両手でぎゅっと握りしめた。
「鈴、手洗いするぞ」
俺が上着を脱いで屈み、鈴の手を取ろうとした、その時だった。
鈴がトテトテと小さな足で駆け寄ってきた。
俺の作業着のズボンに、小さな両手でぎゅっとしがみつく。
そして、胸いっぱいに息を吸い込み、満面の笑顔で見上げて叫んだ。
「ぱ、ぱぱぁ!」
空気が、止まった。
キッチンカウンターに食材を並べていた葵の手がピタリと止まり、エプロンの紐を握ったまま固まった。
横にいた雫が息を呑み、両手で口を押さえたまま石化した。
誰も、息すらしない。
鈴はしがみついた手を離さず、もう一度、嬉しそうに全身を弾ませて叫んだ。
「ぱぱ! りょー、ぱぱぁ!」
ドクン、と心臓が跳ね上がった。
頭のてっぺんから爪先まで、熱い電流が駆け抜けたようだった。
喉の奥がぎゅっと締め付けられ、胸の奥底から込み上げてくる熱い塊が、視界を一瞬で滲ませていく。
「あ、」
俺は床に両膝をついた。
小さな、柔らかい肩を引き寄せ、折れそうなほど華奢な身体を、両腕でそっと包み込んだ。
ふわふわの髪の毛から、日向のような甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
「ああ。パパだぞ、鈴。俺が、パパだ」
震える声でそう告げると、鈴は誇らしげに「えへー!」と笑い、俺の首元に小さな手を回してぎゅっと抱きついてきた。
背後で、葵が鼻をすすりながら目元を拭い、雫がぽろぽろと大粒の涙をこぼしていた。
血の繋がりなんか関係ない。
この子が俺を選び、俺を父親にしてくれたのだ。
世界で一番温かい静寂が、部屋中を満たしていた。
だが。
その奇跡のような至福の瞬間を、無慈悲な轟音が切り裂いた。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン!
ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン!
空気をビリビリと震わせる、重低音の緊急防衛サイレン。
リビングの巨大な掃き出し窓の向こう。遠くそびえる第7外郭防壁の頂部で、幾重もの真紅の非常警告灯が猛烈な勢いで回転し始めた。
「な、何事ですか!?」
雫が涙を拭い、弾かれたように窓へ駆け寄る。
直後、俺の右腕の魔導アームレットが、これまでに聞いたこともない甲高い警告音を鳴り響かせた。
ピピピピピピピ!
【緊急警報:防衛省および探索者ギルド本部令】
【Bランク探索者・間宮凌:地上防衛緊急出動令状(赤色)発令】
空中に展開されたホログラムウィンドウに、真紅の文字が点滅する。
『防壁外指定危険エリア・旧富士山麓方面より、数千頭規模の地上変異魔獣スタンピードが関東第3防壁都市へ向けて猛烈な勢いで北上中。推定到達時間、45分。防壁外の防衛平原にて迎撃部隊を展開。管区内Bランク以上の全戦力は、直ちに指定集結ポイントへ急行せよ』
「数千頭の、スタンピード!?」
葵が息を呑み、顔色を変えた。
腕の中の鈴が、不穏な空気を察したのか、ビクッと肩を震わせて俺の服を握りしめる。
「葵、雫」
俺は静かに立ち上がった。
鈴を抱き上げ、葵の腕の中へとそっと預ける。
鈴は不安そうに大きな瞳を揺らし、「ぱぱ?」と小さな声を漏らした。
「鈴、いい子で待ってろ」
俺は鈴の柔らかな頭を一度だけ撫で、壁に立てかけてあった剛鉈『アダマン・クリーバー』を掴み、腰のホルダーに試作ビット『レイヴン』のケースを装着した。
ホルスターの大口径魔導拳銃『レクス・マグナム』の装填を確認する。
「間宮さん、外は平原よ! 障害物のない場所で数千頭の突進を受け止めるなんて!」
「先生、私も同行します! 私の氷結魔法なら!」
「雫、お前は残れ。葵と一緒に鈴を守るのがお前の任務だ」
俺は玄関へ向かい、タクティカルブーツの紐を締め上げた。
背後を振り返ると、葵と雫が真剣な表情で鈴を抱きかかえていた。
「留守を頼む。すぐに片付けて、夜飯までには帰ってくる」
ドアを開け、俺は夕闇迫る防壁都市の街へと駆け出した。
娘の待つ温かい食卓を守るため、解体屋の黒い刃が荒野へと向かう。




