第042話:Bランクの再測定と、技官の絶叫
カーテンの隙間から、やわらかな朝の光がリビングに差し込んでいた。
視界の先、富士山の雪化粧が青空にくっきりと浮かび上がっている。
防壁外のボロアパートにいた頃には想像もできなかった、静かで穏やかな朝だった。
「ほら鈴、お口開けて。あーんだ」
俺が子供用のプラスチック製スプーンを差し出すと、子供用チェアに座った鈴が、大きなお口をパカンと開けた。
昨晩の祝勝会で余った野菜スープを裏ごしし、柔らかく煮込んだ離乳食のポタージュ。
ぱくりと食らいついた鈴は、一生懸命に小さな咀嚼筋を動かし、ゴクンと飲み込んだ。
小さな両手がテーブルをぺちぺちと叩いた。
「んま! んまーーっ!!」
両手でぽよんとしたほっぺたを押さえ、満面の笑みを咲かせる。
口の端に黄色いカボチャのポタージュがついているのもお構いなしだ。
俺は苦笑しながら、濡らしたガーゼで優しくその汚れを拭き取った。
「自分で持って食べるか?」
スプーンを握らせてみると、鈴は小さな指先でぎゅっと柄を掴み、器の中へスプーンを突っ込んだ。
だが、まだ力加減と角度が覚束ない。ポタージュをすくおうとして皿の外へ跳ね飛ばし、「あぅ?」と不思議そうに首を傾げている。
「まあ、焦るこたぁねぇよ。少しずつ上手くなればいい」
頭を撫でてやると、鈴は「えへへ」と嬉しそうに声を上げて笑った。
時計の針は午前8時40分。
身支度を整え、鈴を抱っこ紐で前抱きにして家を出る。
エレベーターでタワーマンションのエントランスへ降り、安全特区の清潔な並木道を歩いて認可保育所へ向かった。
「りょー! わんわ!」
散歩中の小型犬を指差して鈴がはしゃぐ。
保育所の玄関で出迎えてくれた保育士の先生に鈴を引き渡すと、鈴は先生の腕の中から一生懸命に身を乗り出し、小さな手をぶんぶんと振ってきた。
「りょー! ばいばー!」
「ああ、いい子にしてろよ。17時ぴったりに迎えに来るからな」
俺は笑顔で手を振り返し、保育所を後にした。
背筋を伸ばし、仕事の顔へと切り替える。
目的地は、第七外郭門の探索者ギルド出張所だ。
昨晩の通知にあった【Bランク特例昇格】の正式なライセンス発行と、報奨金4000万円の受取手続きを済ませる必要があった。
*
午前9時30分。
第七外郭門出張所の自動ドアをくぐった瞬間、ロビーに満ちていた異様な熱気が肌を刺した。
巨大な速報モニターには、赤褐色の太文字でニュースが点滅している。
『速報:第30層中層フロアマスター【黒鋼の飛竜】単独解体討伐完了』
『速報:大手メガコープ・ハイペリオン統括理事、中層人為的スタンピード関与の容疑で緊急身柄拘束』
ロビーにたむろする探索者たちの視線が、モニターに釘付けになっていた。
「おいおい、中層の飛竜をたった一人で解体したってマジかよ」
「しかも九条理事が失脚だと!? ギルド査定部が動かぬ現場映像を押さえたらしいぞ」
「またあのゴースト歩兵の仕業かよ! アルス社のテスターやってる例の作業着の男だろ」
「あの地味な野郎、いつの間に中層ボスまで狩れる化け物になってやがったんだ」
ひそひそと交わされる囁き声を背中に聞き流しながら、俺は目深に被ったキャップの鍔に手をやり、足早に受付カウンターへと向かった。
指名窓口のブースでは、いつもの制服姿の長谷川さんが、山積みの書類と格闘していた。
俺の足音に気づいて顔を上げた瞬間、彼女は丸い眼鏡のブリッジを慌てて押し上げた。
「あっ、間宮さん! お待ちしていました!」
長谷川さんは立ち上がり、カウンター越しに深々と頭を下げた。
「昨日は本当にお疲れ様でした! スタンピードの被害を最小限に食い止め、フロアマスターまで撃破されるなんて、査定部も本部の上層部も全員腰を抜かしていますよ! さあ、こちらへ!」
促されるままカウンターの椅子に腰掛けると、長谷川さんは1枚の電子書類を端末に呼び出した。
「まずは、中層フロアマスター単独討伐および防壁危機回避の報奨金、総額4000万円の振込手続きです。こちらにサインをお願いします」
「ああ、頼む」
端末に電子サインを走らせる。
ピッ、と決済完了音が鳴り響き、個人端末の口座残高が瞬く間に1億円の大台へと迫った。
数ヶ月前まで日銭を稼いでミルク代に頭を抱えていた下請け解体屋の口座とは思えない額だ。
だが、俺にとって重要なのは数字の桁ではない。これで鈴の将来の教育費と、美味い飯が何不自由なく保証されるという事実だけだった。
「では続いて、本日の本題です」
長谷川さんが背筋を正し、真剣な面持ちで告げた。
「ギルド査定部より、間宮凌探索者に対し【Bランク探索者ライセンス】の正式授与が承認されました。これに伴い、ギルド規定第14条に基づき、最新の【生体魔力測定】の更新が義務付けられています」
「測定? EランクからD、Cに上がった時は、業務ログの査定だけで済んだはずだが」
「Bランクからは別格なんです。Bランク以上は深層への立ち入りが許可される国家級の危険領域ライセンスですから、探索者の生体データ更新は法的な絶対義務なんですよ。さあ、あちらの測定ブースへどうぞ!」
長谷川さんに案内され、カウンター奥の生体スキャン室へ入った。
部屋の中央には、白銀の金属フレームで覆われた最新鋭の円筒型測定器が鎮座している。
白衣を着た専属の測定技官が、端末のキーボードをカタカタと叩きながら俺を一瞥した。
「間宮凌さんですね。プレートの上に素足で立ち、両サイドの生体感知グリップを握ってください。リラックスして、全身の魔力を軽く循環させてくださいね」
「分かった」
俺は靴を脱ぎ、冷たい金属プレートの上に立った。
左右の黒いグリップを握りしめると、手のひらから微弱な魔素パルスが体内に浸透してくるのを感じる。
俺は言われた通り、全身の筋繊維と神経へ、体内を巡る魔力を自然に流した。
ブゥゥゥゥン、と測定器が低い駆動音を鳴らし、シリンダーの周囲を青白いスキャンリングが上下に走る。
最初は退屈そうにモニターを眺めていた技官が、ふと眉をひそめた。
「ん? おい、計器の感度設定は合っているか? ノイズが混ざって、」
技官の呟きが途切れた。
ピピッ、ピピピピピピピピピピッ!
突然、測定端末から異常値を示す警告音が激しく鳴り響き始めた。
「な、なんだ!? 出力波形が跳ね上がって、おい、嘘だろ!?」
「えっ!? ちょ、ちょっと先生、何が起きてるんですか!?」
長谷川さんが慌ててモニターを覗き込む。
技官の指が震えながら、モニターに表示された測定数値を指し示した。
「み、見てみろ長谷川さん! この数値を!」
『生体魔力測定結果:間宮 凌(25歳)』
・魔力保有量:480(前回測定値:131)
・瞬間最大出力:95(前回測定値:15)
・変換効率:85パーセント(前回測定値:80パーセント)
・実効瞬間出力:81(算出値:95 × 0.85)
「ば、馬鹿なッ!!」
技官が頭を抱えて絶叫した。
「魔力保有量が以前の3倍以上、瞬間最大出力に至っては6倍超に跳ね上がっているぞ!? 生体魔力回路が短期間でここまで急激に拡張するなんて、医学的にあり得ん! それに何だこの変換効率は!? 85パーセントだと!? 帝都アカデミーの特任教授陣でも70パーセント台が限界だぞ! エネルギーのロスがほぼゼロじゃないか!!」
部屋中に技官の悲鳴が反響する。
長谷川さんも口に手を当てたまま固まっていた。
「ま、間宮さん!? あなた、Cランクになってからのこの数週間で、一体どんな特訓をしたんですか!?」
「特訓?」
俺はグリップを離し、首を捻った。
「いや、毎日鈴を抱っこしてスクワットして、現場でナイフを研いでたくらいだが」
「スクワットで魔力回路が拡張するわけないでしょうがぁぁぁぁっ!!」
長谷川さんの鋭いツッコミが室内に炸裂した。
いや、嘘を言ったつもりはない。
だが、思い当たる節はある。
アダマン・ボアとの死闘、4機編成となったレイヴン・クアッドの視界同期で脳が焼き切れそうになった経験。そして佐伯工房の灼熱の炉の前で、ボアの金剛角を打ち直すために親方の槌打ちに合わせて微細振動を注ぎ込み、両腕が痺れ切れるまで衝撃を受け止め続けたことだ。さらには昨日、第30層でフロアマスターの飛竜を解体した際の極限集中。
魔力回路が逆流しかねない負荷に晒され続けた激闘の連続が、知らず知らずのうちに俺の体内の魔力回路を強引にこじ開け、広げていたのだろう。
実効出力81。
出力95に変換効率85パーセントを掛け合わせたこの数値は、一般のCランク探索者が渾身の力で叩き出す実効出力、約60を明確に上回っている。
これなら、4機のレイヴンを全力で飛ばし続けても、以前のように激しい魔力枯渇や脳波負荷で膝をつく心配はない。
職人として、道具を扱うための基礎体力がようやく追いついたという感覚だった。
「ふぅ、ふぅ。と、とにかく、測定完了です」
息を整えた長谷川さんが、カウンターへ戻り、銀色に光り輝く新しいライセンスプレートを取り出した。
「間宮凌さん。正式に【Bランク探索者】として登録が完了いたしました」
手渡されたカードには、俺の顔写真の横に堂々と『RANK: B』の文字が刻まれている。
下請け時代、FランクやEランクの探索者がどれだけ見下され、使い捨てられていたかを思えば、信じられない出世だった。
ずっしりとした金属の重みを掌に感じながら、俺は小さく息を吐いた。
魔力保有量480、実効出力81。
これで、これまで以上に効率よく、安全に現場をこなすことができる。
鈴のためのミルク代や飯代どころか、将来の学費まで完全に確保されたと言っていい。
(よし。今日もサクッと現場を片付けて、17時には保育所へ迎えに行こう)
俺は新しいライセンスをポケットにしまい、満足感とともにカウンターの長谷川さんに向き直った。
だが、その時の俺はまだ知らなかったのだ。
この銀色に輝くBランクの証が、平穏な定時退勤生活を脅かす、とんでもない厄災の引き金になるということを。




