第004話:夜泣きの夜と、初めての託児所
結局のところ、昨晩は一睡もできなかった。
夜中の2時。
昼間の疲労で泥のように眠っていた俺を叩き起こしたのは、耳を劈くような激しい泣き声だった。
見知らぬ狭い部屋に、慣れない匂い。昼間の魔獣襲撃の恐怖まで、ぶり返したのかもしれない。
毛布の中で、鈴が顔を真っ赤にして火がついたように泣き叫んでいた。
「おいおい、どうした!? 熱か? 腹減ったのか? それともオムツか!?」
飛び起きてオムツを確認するが濡れていない。ミルクを作って差し出しても首を振って拒絶する。
暗闇の中で激しく泣き続ける赤ん坊を前に、俺は完全にパニックだった。
片手でスマートフォンを握りしめ、『赤ん坊 夜泣き 泣き止まない』『抱っこの仕方』と必死に検索しながら、ぎこちない手つきで鈴を抱き上げた。
「ほら、よしよし大丈夫だ、魔獣はもういねぇよ」
狭い六畳間の畳を、何十分もすり足で行ったり来たり歩き回る。
肩と腰が軋み、睡魔が脳を締め付ける。
「おい、勘弁してくれよ。俺、明日も仕事なんだぞ」
口から愚痴が零れ落ちる。
だが、俺の胸元で小さな手を丸め、必死にしがみついてくる小さな温もりを感じているうちに、胸の奥がじんわりと痛んだ。
全滅した集落の、あの冷たい地蔵堂。
周囲の大人たちが全員食い殺される地獄の中で、この子はたった一人、毛布の中で震えていたのだ。
怖くないはずがない。
「悪かったな。大きな声出して」
歩くリズムを緩め、背中をポン、ポン、とゆっくり叩き続ける。
1時間ほどそうして部屋を巡り歩いた頃、鈴の泣き声が次第に小さくなり、すぅ、すぅ、と規則正しい寝息へと変わっていった。
腕の中で眠りについた鈴をそっと座布団に下ろし、俺は汗を拭って壁にもたれかかった。
今年で25歳の独身男だ。
定職といえば聞こえはいいが、日銭を稼ぐだけの底辺Eランク探索者。
他人の子、それも身元も分からない未登録児を抱え込むなんて、客観的に見れば正気の沙汰じゃない。
明日ギルドに行って「やっぱり無理です」と雑居シェルターに突き返すのが、最も賢明で現実的な選択だという理屈は、頭では嫌というほど分かっていた。
だが。
あの劣悪な保護シェルターの冷たい鉄格子の中で、この子が泣き叫んでいる姿を想像すると、どうしても胃の腑が締め付けられるように痛んだ。
「施設が見つかるまでの辛抱だ」
暗闇の中、自分に言い聞かせるように小さく呟いた。
子育てなんて大層なことはできない。パパになる気もない。
だが、あの地獄から拾い上げた以上、正式な預かり先が決まるまでの間、飯を食わせて安全な場所に寝かせてやるくらいは、拾った俺の責任だ。
そうやって無理やりにでも納得しなければ、到底やっていられなかった。
*
そして迎えた翌朝。
ボロアパートの六畳一間に、心地よい朝日が差し込んでいた。
「ほら、スプーン落とすなよ。あーん」
「あーむ! んま! えへへ」
座布団の上にちょこんと座った鈴が、小さな口をめいっぱい開けて離乳食のレトルトを頬張る。
買ってきたかぼちゃと野菜のペーストがよほど気に入ったのか、両手をパタパタと上下に振ってご機嫌そのものだ。
昨晩の激闘が嘘のように、美味しそうに笑う鈴の顔を見ていると、寝不足の重い頭痛も少しだけ和らぐような気がした。
「よしよし、完食だな。偉いぞ」
「きゃっ、あーい!」
濡らしたガーゼで口元を拭いてやり、手早く着替えさせる。
昨晩決めた通り、この子の生活を当面維持するためには、俺自身が稼ぎ続けなければならない。
粉ミルク代に紙おむつ代。いずれ必要になる、安全な部屋への引っ越し資金だってある。
底辺Eランクの稼ぎのままでは、到底足りない。
俺は大型解体ナイフと魔導拳銃を腰に装着し、鈴を抱いてギルド出張所へと向かった。
「おはようございます、間宮さん。昨晩はどうでしたか?」
受付窓口の長谷川さんが、柔らかな笑顔で出迎えてくれる。
「なんとか生き延びたよ。夜泣きで完全に徹夜コースだったがな。約束通り、併設の託児所に鈴を預けたいんだが」
「ええ、準備できていますよ。こちらへどうぞ」
託児室のドアを開けると、数名の保育スタッフが笑顔で駆け寄ってきた。
俺の腕から離される瞬間、鈴は不安そうに眉を八の字にして、俺の服の裾を小さな手でギュッと掴んだ。
「んぅ、ふぇ」
「大丈夫だ。ちょっと仕事行って、魔石を拾ってくるだけだからな。すぐ戻ってくる」
屈み込んで小さな頭を優しく撫でると、鈴は涙目でじっと俺の顔を見つめ、小さな手をぎゅっと握りしめて小さく振った。
「ばいばー?」
「ああ、行ってくる。いい子にしてろよ」
長谷川さんに鈴を託し、俺は後ろ髪を引かれる思いを振り切って、都市中央へと向かう地下連絡通路へと足を踏み入れた。
照明の並んだ通路の先へ歩き出しても、小さく振られていたあの手の残像が、瞼の裏からしばらく離れなかった。




