第003話:初めての買い物と、鈴の命名
ギルドの出張所を出た俺は、防壁都市の雑踏を抜け、駅前の大型ドラッグストアへと足を踏み入れた。
作業着姿の薄汚れた探索者の男が、毛布に包まれた赤ん坊を胸に抱いて店内をうろうろしている。すれ違う買い物客や店員の視線が、チクチクと痛いほど刺さった。
ベビー用品の棚の前で、俺は立ち尽くした。
粉ミルクの缶だけで何十種類と並び、パッケージには聞き慣れない横文字がびっしり印字されている。魔獣の生態なら図鑑を頭に叩き込めば済むのに、こっちはさっぱりだ。
「ええと、粉ミルク、新生児用? いや、1歳から2歳用はどれだ?」
「あぅ?」
「あぅ、じゃねぇよ。お前の飯を選んでんだよ。哺乳瓶もサイズがあんのかよ。離乳食のレトルトパウチ、紙おむつ、おしりふき、ベビーオイル。」
「あの、お客様。もしよろしければ、こちらの月齢別ガイドをどうぞ」
異変を察知したのか、青い制服の若い女性店員が、そっとパンフレットを差し出してきた。強面の探索者が赤ん坊を抱えて棚を睨みつけている絵面に、よほど面食らったのだろう。声が微かに上ずっている。
「あ、ああ。助かる」
並んだ陳列棚の前で、俺はパンフレットとスマートフォンを見比べながら検索を繰り返した。
過疎地で何十頭もの魔獣を解体してきた手先が、赤ん坊のオムツのサイズ選びひとつで冷や汗をかいている。テープタイプとパンツタイプ、一体何が違うんだ。
まったく、命がけの変異魔獣駆除任務よりよっぽど神経を使う。
結局、月齢表示だけを頼りに、目についた大手メーカーの缶を迷わず掴んだ。念のためにと、必要かどうかも分からない爪切りや体温計まで放り込むうちに、買い物カゴはあっという間に山盛りになった。
レジで合計金額を見て目玉が飛び出そうになったが、今日の討伐報酬のおかげでなんとか一括で支払いを済ませた。
両手にパンパンに膨らんだビニール袋を提げ、胸に小さな温もりを抱きかかえて、4階建てのボロアパートへ帰り着いた頃には、すっかり夜の帳が下りていた。
「ふぅ、ただいま」
誰もいないはずの六畳一間のワンルームに声をかけ、靴を脱ぐ。
万年床の敷かれた殺風景な部屋。男の一人暮らし丸出しの無骨な空間に、場違いな女の子をそっと畳の上に下ろした。
女の子は物珍しそうにキョロキョロと部屋を見回し、ペタペタと小さな手のひらで畳を叩いている。
「悪かったな、狭い部屋で。とりあえず、腹減ってんだろ」
大急ぎでやかんの湯を沸かし、買ってきた粉ミルクを溶かす。スマホで見た通り、手首の内側に一滴垂らして温度を確かめた。熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうどいい人肌加減だ。
哺乳瓶を差し出すと、女の子は小さな両手でぎゅっと抱え込み、必死になって乳首に吸い付いた。
ゴク、ゴク、と喉を鳴らしながら、夢中でミルクを飲んでいく。時折、こちらをちらりと見上げてくる仕草に、思わず口元が緩んだ。
その小さく一生懸命な姿を見つめていると、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
「よっぽど腹が減ってたんだな」
飲み干した哺乳瓶を外すと、女の子は満足そうに「ふぁあ」と小さなあくびを漏らした。
だが、安堵したのも束の間、次の難関が襲いかかってきた。
もぞもぞと落ち着かなさそうにお尻をもじもじさせる女の子。
買ってきたばかりのオムツの袋を破り、説明書のイラストと睨めっこしながら畳の上に広げる。
「よし、動くなよ。前と後ろは。こっちが前か? テープはどこで留めるんだ?」
説明書を三度見しながら、なんとかテープを留め終える。
だが、女の子が足をばたつかせた拍子に、あっさりとずれて外れた。
「きゃっきゃっ!」
「笑ってねえで足をじっとさせろって! あ、おい、寝返り打つな!」
舌打ちしながら、今度こそイラスト通りの角度でテープを留め直した。
じたばたと元気いっぱいに足をバタつかせる赤ん坊に、俺は悪戦苦闘した。
魔獣の急所をコンマ1ミリで抉り取る俺の指先が、オムツの左右のテープを均等に留めるだけで汗だくになっている。
なんとか新しいオムツを穿かせ終えた頃には、どっと全身の疲労が押し寄せていた。
「はぁ、魔獣を3頭狩るより疲れたぞ。」
俺が畳の上に大の字になって息を吐くと、女の子がハイハイで寄ってきて、俺の作業着の袖を小さな指先でぎゅっと握りしめてきた。
離さないぞ、とでも言うような力強い手のひら。
ふと、防壁外の過疎集落、あの壊滅した地蔵堂の軒先でチリンと鳴った、澄んだ風鈴の音色を思い出した。
「そうだな。名前がないと呼びづらいしな」
俺は女の子の小さく柔らかい頭を、そっと撫でた。
「お前は、あのお堂の鈴の音に導かれて出会ったんだ。だから、鈴。今日からお前の名前は、鈴だ」
女の子はくりくりとした瞳を瞬かせ、俺の顔を見上げた。
「すー?」
「違う、鈴だ。す・ず」
「しゅー!」
「ま、だいたい合ってるか」
俺は苦笑し、ぎゅっと握られた指先を握り返した。
窓の外から、遠い電車の走行音がかすかに響いてくる。
ふにゃ、と小さなあくびを漏らした鈴が、指先を握ったまま、いつの間にかとろんと瞼を落としていた。
家族なんてとっくに諦めていた底辺探索者の六畳一間に、小さな灯火が灯った夜だった。




