第002話:引き渡せない現実と、小さな温もり
防壁外の荒野を抜け、俺は重い足取りで第七外郭門の巨大な検問ゲートへと辿り着いた。
見上げる頭上には、狂暴化した地上魔獣の侵入を阻むために築かれた、高さ50メートルを超える耐魔コンクリートの防壁が万里の長城のように都市を取り囲んでいる。
そして、その防壁の遥か彼方、都市の中央部に視線を向ければ、雲を突き抜けて天へと伸びる異様な巨影が視界を埋める。
金属柱。
30年前、地球圏外の深宇宙から世界各地へと飛来し、大地深くに突き刺さった未知の構造体だ。
あの柱から噴き出した未知のエネルギー、魔素によって、地球上の野生動物は狂暴な魔獣へと変異した。
人類は防壁の中に逃げ込み、魔獣の体内に宿る魔石をバッテリーとして利用する魔導社会を築き上げることで、どうにか滅亡を免れたのだ。
今年で25歳になる俺にとっては、生まれた時からこの防壁と金属柱が当たり前の風景であり、魔獣を狩って日銭を稼ぐ探索者という仕事も、ただの日常に過ぎない。
だが、今日の俺の胸元には、その日常とはかけ離れた異物があった。
ボロボロの毛布にくるまれた、小さな温もり。
全滅した集落の地蔵堂で保護した、小さな女の子だ。
「おいおい、間宮。その胸の荷物はなんだ? まさか密輸品じゃねぇだろうな」
ゲートの検問所で重機関銃を構えていた警備兵が、泥まみれの俺を見て、怪訝そうに銃口を少し下げた。
「密輸なわけあるか。防壁外の廃墟で拾った遭難者だ。ギルドの出張所に引き渡してくる」
「赤ん坊かよ。大変だな、おい」
警備兵の呆れ顔に見送られながらゲートをくぐり、俺は門の脇に併設されたギルド出張所の自動ドアを押し開けた。
「おいおい、マジで言ってんのか?」
そして数十分後。
窓口のカウンター越しに、俺は思わず眉間を押さえて深い溜め息を吐き出す羽目になっていた。
泥まみれの服と、血抜きを終えたデスクローベアの素材が入った重い背嚢。
そして何より、俺の胸元には、ボロボロの毛布にくるまれた小さな女の子がすっぽりと収まったままだ。
「ええ、残念ながら本当です、間宮さん」
窓口の奥で端末のホログラム画面を操作していた女性職員、長谷川さんが、困り果てたような顔で眼鏡の位置を直した。
「先ほど採取した生体IDとDNAを中央データベースで照会しましたが、該当する戸籍データは一切ありませんでした。防壁外の過疎集落ではよくあることです。出生届が出されていない未登録児ですね」
「未登録児」
「はい。さらに言えば、現在、都市内の公的児童福祉施設はどこも定員オーバーでパンク状態です。身元不明の未登録児を受け入れるとなると、一時保護シェルターの雑居房のような場所で、数ヶ月から下手をすれば年単位で待機していただくことになります」
雑居房。
その単語を聞いた瞬間、俺の腕の中で毛布の塊がもぞりと動いた。
見下ろすと、女の子が不安そうに大きな瞳を揺らし、俺の作業着の裾を小さな手でギュッと握りしめてくる。
「んぅ、ふぇ」
「あー、ほら、怖がらせるようなこと言うなよ長谷川さん。だいたい、俺はただのしがないEランク探索者だぞ? 今年で25歳の独身男が、こんな小さな赤ん坊の面倒を見られるわけないだろ!」
「ですから、公的な【未登録児一時預かり制度】があるんです」
長谷川さんは1枚の電子書類をカウンターに提示してきた。
「発見者である間宮さんが、正式な預かり先が決まるまでの間、保護責任者として一時的に同居・養育を行う制度です。もちろん無償ではありません。市とギルドから、1日あたり3000円の養育支援手当が支給されます」
「3000円」
微妙な金額だ。
粉ミルクや紙おむつ、離乳食代を考えれば、手元にほとんど残らないどころか足が出る可能性すらある。
「いや、金の問題じゃなくてだな。俺の家、エレベーターもないボロアパートの4階だぞ? 仕事だって毎日命がけで防壁外やダンジョンに潜ってんだ。こんな赤ん坊を置いて仕事に行けるわけないだろ」
「それでしたら、ギルド探索者向けの一時託児所が併設されています。探索中はそちらに預けていただければ、格安で専任スタッフが見守りを担当しますよ」
「う」
「それにですね、間宮さん」
長谷川さんが微笑みながらカウンターから身を乗り出し、俺の腕の中の女の子へと両手を伸ばした。
「ほら、おいで。お姉ちゃんと一緒に行こうね」
その瞬間だった。
「ぎゃああああんっ!」
鼓膜が破れるかと思うほどの大音量で、女の子が火がついたように泣き叫び始めた。
小さな手足をジタバタと暴れさせ、長谷川さんの手を全力で拒絶する。
そして必死の形相で俺の胸元へと潜り込み、作業着の布地を爪が食い込むほどの力で握りしめてきた。
「ちょ、おい! 暴れるなって!」
「あ、あらら」
長谷川さんが苦笑いを浮かべて手を引っ込める。
俺が慌てて女の子の背中をポンポンと優しく叩くと、数秒もしないうちに泣き声が小さくなり、しゃくり上げるような吐息へと変わった。
「ひっく、くぅ、ふにゃ」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を、俺の胸元にグリグリと擦り付けてくる。
まるで、世界中でこの場所だけが唯一の安全地帯だと信じ切っているかのような、痛々しいまでのしがみつき方だった。
「完全に懐かれてますね、間宮さん」
「勘弁してくれよ。俺、さっきまで泥まみれで魔獣を解体してた血生臭い男だぞ?」
「生き残るための本能かもしれませんね。魔獣の地獄から自分を救い出してくれた人を、魂のレベルで識別しているのかも」
「魂とかそういうオカルトはいいから」
俺は深く、重いため息を吐き出した。
この子を劣悪な雑居シェルターに今すぐ突き出すか、それとも正式な施設が空くまで一時的に預かるか。
天秤にかけるまでもなかった。
ここで突き放したら、今夜夢見が悪くて絶対に寝付けない。
「分かったよ。受け入れ先が正式に決まるまでの【一時預かり】だ。それ以上は絶対に面倒見ないからな」
「ありがとうございます! では、こちらに生体サインをお願いします」
長谷川さんがパッと表情を明るくし、電子サイン用のペンを差し出してきた。
手際が良すぎる。完全に最初からこうなることを見越していただろ、この受付嬢。
「サインする前に、今日の素材の査定と、生体測定を頼む。早く帰ってシャワー浴びたいんだよ」
「かしこまりました。すぐに処理しますね」
カウンターの専用トレイに、背嚢から取り出したデスクローベアの素材を並べていく。
超硬度の大鉤爪が4本、背部の硬質甲殻、そして体内から摘出したD級上位の魔石。
「えっ!? デスクローベアの鉤爪と魔石!? 間宮さん、これ、単独で仕留めたんですか!?」
「ああ。集落を全滅させた元凶が居座っててな。逃げられそうになかったから、不意を突いて下顎から一撃で落とした」
「う、嘘でしょ。デスクローベアって、適正ランクはD級上位ですよ? 下手なCランクパーティでも怪我人が出るような危険種なのに」
「解体屋の経験で急所を知ってただけだ。運が良かったんだよ」
それ以上は詮索させないよう、素っ気なく手を振る。
長谷川さんは指先で眼鏡のブリッジを押し上げ、戸惑いながらも手際よく素材を査定機に通していった。
「素材買い取りと討伐報酬、過疎地の緊急危険手当を合わせまして、合計で34万8000円になります」
「34万」
思わず声が漏れた。
下請け時代、1週間泥まみれで魔獣の解体を続けても数万円にしかならなかったことを思えば、破格の金額だ。
これなら、粉ミルクどころか当面の生活費には困らない。
「それと、こちらが生体測定のスキャン結果です」
提示されたホログラムパネルに、俺の最新データが映し出された。
【探索者ID:JP-88214-R】
【氏名:間宮 凌(25歳)】
【ギルド登録ランク:Eランク】
【魔力保有量:131】
【瞬間最大出力:15】
【変換効率:80%】
「ん?」
画面を凝視し、俺は足を止めた。
魔力保有量の数値が、以前の測定値である【128】から【131】へと、わずかに3ポイント増えている。
「あの、長谷川さん。この測定器、故障してないよな?」
「え? 毎朝校正してますので正確ですよ。どうかされましたか?」
「いや、なんでもない」
デスクローベアを倒した直後、青白い魔素粒子が体内に吸い込まれた感覚を思い出す。
あの時感じたわずかな胸の温もりは、気のせいじゃなかった。
魔物を倒すことで、体内の魔力保有量が少しずつ拡張されるという噂。
おとぎ話か都市伝説の類だと思っていたが、本当に実在する現象だったのか。
その場で劇的に強くなるわけじゃない。
だが、日々の過酷な戦闘を積み重ねていけば、この数値は確実に伸びていく。
底辺Eランクの俺にも、成長の余地があるということだ。
「よし」
小さく息を吐き、報酬を受け取ってギルドの出張所を後にした。
この小さな命を預かったからには、腹いっぱい飯を食わせてやらなきゃならない。
俺は腕の中の温もりをしっかりと抱き直し、夕暮れの街へと歩き出した。




