第037話:仕組まれた暴走(スタンピード)と、悪友の危機
東京ピラー地下深層、第29層『紅蓮の狭窄路』。
見上げるほど巨大な鍾乳石と、赤黒い溶岩鉱脈が壁面を這う危険地帯だ。第30層のフロアマスター部屋へと続く巨大な縦穴坑道の直前、湿り気を帯びた熱風が吹き抜ける薄暗い岩陰に、数人の人影が音もなく潜んでいた。
全身を覆うのは、漆黒の耐魔ケブラー装甲と、表情を完全に隠すバイザー付きのフェイスガード。
大手メガコープ『ハイペリオン』統括理事・九条厳正が直属で動かす、特殊工作班の部隊だった。
彼らは消音仕様の特殊魔導ランチャーを構え、第29層の通気ダクトを兼ねる断層の亀裂へと狙いを定めていた。
砲身に装填されているのは、毒々しい黒紫色の燐光を放つ特殊弾頭。深層に巣食う凶暴な魔獣たちの闘争本能を限界まで刺激し、狂乱状態へと叩き込む禁忌の劇薬『魔導誘引香』だ。
「ターゲットの元下請けとアルス・テックの実験機は、すでにこの第29層へ進入しているはずだ」
「ふん、所詮はしがない作業員上がりの雑魚だ。この狭い坑道でスタンピードを引き起こせば、骨も残らずミンチになる。事故死として処理すれば、九条理事もご満足されるだろう」
カシュッ、カシュッ、カシュッ。
くぐもった発射音とともに放たれた3発の弾頭が、岩壁深くに突き刺さり、瞬時に破裂した。
鼻を突く甘ったるい血生臭い異臭が、ダンジョンの循環気流に乗って、一気に最深部の魔獣の巣窟へと拡散していく。
数秒の静寂の後。
ゴゴゴゴゴゴッ!
地下全域を揺るがす地鳴りとともに、数十、数百もの凶暴な咆哮が重なり合って轟き始めた。
狂乱の津波が、解き放たれたのだ。
「仕掛けは完了した。潮時だ、専用ゲートから撤退する」
黒衣の工作班は冷酷な嗤いを残し、一般探索者には開示されていないハイペリオン専用の緊急帰還ゲートへと姿を消した。
*
「逃げろ! 荷物は捨てて上の層へ走れ!」
けたたましい怒号と悲鳴が、落盤の土煙に霞む狭い坑道に響き渡っていた。
突如として逆流を始めた第29層の魔獣の群れ。通常の倍以上の速度で突進してくる凶獣の津波に、現場の一般探索者たちは完全なパニックに陥っていた。
その最後尾、崩落寸前の狭窄路の防衛ラインに、たった一人で立ち塞がる男がいた。
タケだ。
身の丈ほどもある厚さ10センチの特注タワーシールドを泥水に突き立て、歯を食いしばって魔獣の群れを睨みつけている。
「タケさん! もう防衛ラインは持ちません! 第28層への階段へ退避しましょう!」
タケの野良パーティーの若手が、肩を負傷した採掘屋の老人を背負いながら叫んだ。
「バカ野郎! 俺がここで盾を引いたら、背中の連中が全員ミンチだろうが! いいから負傷者を連れてさっさと行け! 前衛の俺がここで踏ん張る!」
「で、でも!」
「ぐだぐだ抜かすな! さっさと走れぇぇぇッ!」
タケの怒号と同時に、前方の暗闇から巨大な影が突進してきた。
第29層の固有種『アダマン・ビートル(金剛角甲虫)』。
分厚い鉱石の外殻と、ショベルカーのような巨大な角を持つ凶暴な重装魔獣だ。
猛烈なスピードで迫る角が、タケの大盾に激突した。
ドガァァァァァンッ!
耳を劈く金属衝突音が狭い洞窟に反響する。
「ぐあああっ!?」
激しい衝撃がタケの両腕と腰を襲い、ブーツの靴底が地面を数メートルも削り取った。泥水と火花が派手に飛び散る。
耐魔合金で作られた大盾の表面に、ピシリと細かな亀裂が入った。
重い。いつもの魔獣とまるで違う。目が血走り、痛みも恐怖も忘れて突っ込んでくる。
タケは血の滲む唇を噛み締めた。
こんな数の魔獣が一度に湧き上がるなど、絶対にあり得ない。何者かが人為的に引き起こしたとしか思えなかった。
*
一方、崩落した岩盤の壁を隔てた第2区画。
ダダダダダダダダッ!!
轟音とともに、大型重機関銃の乾いた発砲音が坑道を満たしていた。
リグ・クラフト社の重装工兵、坂東宗一郎だ。
背中の『V-RIG』から伸びた多関節サブアームが重機関銃の銃身をがっちりと保持し、激しい反動を抑え込んでいる。吐き出された無数の薬莢が、足元の水たまりにジャラジャラと甲高い音を立てて落ちていく。
「オラオラオラァッ! 寄ってくんじゃねえクソ虫どもが!」
だが、機関銃の銃身が真っ赤に焼け付き、やがてカチリと空撃ちの音が響いた。
「チッ、ドラムマガジンが底を突きやがった! 一条、そっちはどうだ!?」
坂東の叫びに応じるように、青白い魔力の奔流が闇を切り裂いた。
ドゴォッ!
一条岳の鋭い踏み込みから放たれた正拳突きが、飛びかかってきた魔獣の頭骨を一撃で粉砕した。
全身の筋肉に生体魔力を極限まで循環させる一条の武導術だ。
荒い息を吐きながら、一条は拳についた体液を鋭く払った。
「異常だぞ! 群れ全体のヘイトが人為的に誘導されている。自然発生のスタンピードではない!」
「あっちの第1区画でタケの坊主たちが殿をやってる! 岩盤をドリルでぶち破って合流してぇが、この数の雑魚を相手にしながらじゃ背中を喰われちまうぞ!」
「くそっ、退路を確保するのが先か!」
その時だった。
キィィィン!
澄み渡るような冷気の波動が、坑道の背後から駆け抜けた。
一条たちの背後から忍び寄っていた数体の魔獣の足元が、瞬く間に白銀の氷柱によって凍結され、動きを完全に封じられた。
「はあっ、はあっ!」
肩で息をしながら、濡れた白銀のローブを泥で汚して現れたのは、帝都魔導アカデミーの如月雫だった。
その手には愛用の魔導杖が固く握られている。
一条が息を呑んだ。
「如月!? 貴様、なぜ前線に来た! 上層部からの『即時帰還・アルス社関連の現場への介入禁止命令』を聞いていなかったのか!?」
雫は乱れた息を整えながら、凛とした強い眼差しで一条を見つめ返した。
「聞いていました! ですが、先生の大切な仲間が、あんなに温かく接してくださったタケさんたちが、理不尽な悪意に晒されているのです! ここで規則や査問を恐れて見殺しにするなど、真の魔導士の誇りが許しません!」
「貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか! 命令違反で査問会にかけられれば、資格剥奪どころかアカデミーを追放されるのだぞ!」
「構いません! 目の前の命一つ救えない肩書きなど、私には一片の価値もありませんから!」
雫の迷いのない叫びが、狭い洞窟に響き渡った。
一条はその気迫に気圧されたように息を呑んだ。
だが、感動に浸る猶予など一瞬たりともなかった。
グルルルルッ!
凍結した魔獣の背後から、さらに凶悪な魔獣の波が雪崩れ込んできたのだ。
「くそっ、キリがねえ! 如月、後ろへ下がってろ!」
坂東がサブアームの油圧カッターを構え直すが、状況は絶望的だった。
*
ドガァァァァァンッ!
第1区画の防衛ライン。
タケの愛用するタワーシールドに、ついに限界が訪れた。
突進してきたのは、第29層の深部に棲まう超重量級の変異魔獣『アイアン・ベヒーモス(重装甲角獣)』。
体長5メートルを超える鋼鉄の巨躯が、全質量を乗せて突っ込んできたのだ。
バキキキキィィィンッッ!!
悲鳴のような破壊音とともに、10センチの耐魔合金板が中心から粉々に破断した。
「がはっ!?」
強烈な衝撃波を全身に受け、タケの巨体が木の葉のように吹き飛ばされた。
泥水の中を激しく転がり、背中が岩壁に激突する。
肺の中の空気が強制的に吐き出され、口の端から鮮血が溢れた。
右腕は骨が折れたのか、力なく垂れ下がっている。
顔を上げると、砕け散った盾の残骸の向こうで、アイアン・ベヒーモスが血走った赤い眼をギラつかせていた。
逃げ遅れた後続の探索者たちは、すでに上の階層へと続く階段を駆け上がっていった。
殿の役目は、果たした。
だが、その代償として、タケの目の前には逃げ場のない死だけが残されていた。
ズシン、ズシン、と地響きを立てながら、ベヒーモスが巨大な蹄を振り上げる。
凶悪な角の先端が、タケの胸元へと照準を合わせた。
(ああ、ここまでか)
タケは薄れゆく意識の中で、泥まみれの天井を見上げた。
脳裏をよぎったのは、下町の安酒場で一緒にくだらない愚痴を言い合っていた凌の顔。
そして、あの新しい部屋で、小さな手でスプーンを握りしめ、「んま! んまー!」と満面の笑みを浮かべていた鈴の愛らしい姿だった。
(凌、すまねぇな。鈴ちゃんの美味そうに飯食う顔、もう一度見たかったな)
タケが観念して、静かに目を閉じた。
ベヒーモスの巨大な角が、死の宣告とともに振り下ろされる。
その、コンマ数秒前のことだった。
キィィィィィィィィンッ!
鼓膜を劈くような、鋭利極まる高周波の飛翔音が空間を切り裂いた。
タケが驚愕して目を開けた瞬間、視界を横切ったのは、漆黒の4筋の閃光だった。
音速を超えて空間を滑空する、4機の鳥形兵装。
『レイヴン・クアッド』。
4機のビットは、ベヒーモスの巨体を囲むように0.1秒で完全な四角形の包囲陣を形成した。
次の瞬間、超高周波振動を帯びた黒鋼の刃が、寸分の狂いもなく急所へと撃ち込まれた。
両前脚の強靭なアキレス腱。
分厚い頸動脈。
そして、頭蓋骨の最も薄い隙間に隠された中枢魔力核。
ズバババババッッ!!
閃光のような4重同時の切断線が空間に走り、ベヒーモスの巨体が一切の断末魔を上げる間もなく、綺麗に4つに両断された。
ドシャァァァッ!
大量の黒い体液を噴き出しながら、巨大な肉塊が泥水へと崩れ落ちる。
「えっ!?」
タケが呆然と声を漏らした。
頭上では、仕事を終えた4機のレイヴンが、かすかな排気音を立てながら阿吽の呼吸で滞空している。
そして、土煙の向こうから、一定のリズムを刻む足音が近づいてきた。
ジャリ、ジャリ、と水たまりを踏みしめる音。
現れたのは、見慣れた無愛想な顔だった。
肩には、佐伯の親方が丹精込めて打ち直した鈍く黒光りする剛鉈『アダマン・クリーバー』。
腰には、鈍重な威容を誇る大口径魔導拳銃『レクス・マグナム』。
防護ベストを羽織ったその男は、タケの目の前に立つと、冷めた声で呟いた。
「手こずってるな、タケ」
「りょ、凌ッ!? お前、なんでここに! 地上でネットのニュースだか記者会見だかで大変なことになってたんじゃねえのかよ!」
「あんな雑音、相手にしてる暇はねぇよ」
俺は息を吐き出し、泥まみれで倒れ込んでいる悪友に左手を差し伸べた。
「タケ、立てるか」
「凌ッ」
「鈴の迎えまで、まだ3時間ある。現場の片付けをさっさと終わらせるぞ」
タケが呆気に取られ、次の瞬間にぐしゃりと顔を歪めた。
「へっ、相変わらず現場第一の石頭野郎がよ!」
タケが残った左手を伸ばし、俺の手を力強く掴み返した。
俺は悪友の身体を一気に引き起こすと、暗闇の奥から押し寄せる新たな魔獣の唸り声に向けて、鋭い視線を据えた。
第29層の暴走、仕組んだ奴が誰であろうと関係ない。
俺たちの現場を荒らす奴は、誰一人として許しはしない。




