第032話:保育所の連絡帳と、新兵装の単独試運転
スマートフォンの画面に表示された連絡帳アプリを開き、俺はボロアパートの玄関先で思わず口元を緩めた。
『今日の鈴ちゃんは、お昼の野菜スープをスプーンで上手にすくって、半分以上こぼさずに飲めました! 空になったお椀を両手で持って「んま!」と嬉しそうに見せてくれましたよ。おやつの時間には、隣のお友達に「じょーじょ(どうぞ)」と積み木を渡してあげる優しい姿も見られました』
添えられた写真には、口の周りを人参スープで鮮やかなオレンジ色に染めながら、小さなスプーンを握りしめて誇らしげに胸を張る鈴の姿が写っていた。
カメラに向かって満面の笑みを浮かべ、細い目をさらに細くして笑っている。
「誰に似たのか知らねぇが、偉いもんだな」
画面の中の小さな頭を親指でそっと撫でる。
地蔵堂の冷たい雨の中で震えていたあの子が、今では自分の足で立ち、自分の手でスプーンを握り、他人に優しさを分け与えている。
その事実だけで、胸の奥にじんわりと温かい火が灯るようだった。
壁の時計を見る。午前9時40分。
今日の保育所のお迎えは17時だ。
「よし。さっさと中層を回って、16時半には地上に戻るぞ」
ヘマをして怪我でもすれば、あいつを夕暮れの保育所でたった一人、不安な顔で待たせることになる。それだけは絶対に避けたかった。
玄関の土間で作業靴の紐を固く結び直し、俺はアパートの鍵を閉めて歩き出した。
*
ダンジョン管理ギルド、中央ゲートの地下3階。
中層突入専用の転移ゲート前には、重装備に身を包んだ探索者たちが列をなしていた。
だが、俺の姿を見て周囲がひそひそとざわめき始める。
「おい、見ろよ。あいつ、一人だぞ」
「中層第21層にソロで潜る気か? 自殺志願者じゃないのか」
「いや、見ろ。胸元のライセンス、銀枠のCランクだぞ。しかも背中の装備、なんだあれ。見慣れないコンテナを背負ってるが、何者だ?」
周囲の視線を軽く受け流しながら、俺は自動改札機にCランク探索者証をタッチした。
ピン、と澄んだ電子音が鳴り、ゲートの遮断バーが跳ね上がる。
先日のハイペリオン社による妨害工作を退け、ギルドから特例昇格の認定を受けたことで、俺は中層への単独立ち入り許可を正式に得ていた。
転移陣の青白い光に足を踏み入れると、視界が一瞬で暗転する。
次に目を開けた瞬間、冷たく湿った結晶の匂いが鼻腔を突いた。
第21層、水晶洞窟。
頭上数十メートルに及ぶ広大な空洞には、青や紫の燐光を放つ巨大な魔導水晶の柱が無数に突き立っている。美しい光景だが、空気中の魔力濃度は浅層の比ではない。肌がチリチリと刺されるような圧迫感があった。
『凌、聞こえるか? 回線テストだ』
耳元の通信イヤホンから、アルス・テック社開発ラボにいる倉田のしわがれた声が響いた。
続けて、主任の瀬名結衣の落ち着いた声が割り込んでくる。
『生体バイタル、魔力波形ともに極めて安定しています。間宮さん、背部磁気コンテナのコネクタ状態はどうですか?』
「問題ねぇよ。ガタつきもねぇし、重心のブレも計算通りだ」
俺は肩を軽く回し、背中に背負った薄型の4連ポッドを確かめた。
黒い複合装甲で覆われたそのコンテナには、アルス・テック社が持てる技術の粋を集めて改修した最新鋭のビットが収まっている。
4機編成実戦特化型ビット『レイヴン・クアッド』。
さらに腰の左右には、中層フロアマスターの硬質素材で鍛え直された大型鉈『アダマン・クリーバー』と、大口径魔導銃『レクス・マグナム』が吊るされている。
『いいかい凌、絶対に無理はするなよ』
倉田が警告するように言った。
『ビットを4機同時に扱うなんざ、本来はAランク魔導士が専用の神経同期ヘルメットを被ってようやく成立する芸当なんだ。いくらお前の魔力変換効率が80パーセントの異常値だからって、脳への負荷は2機の時とは桁が違う』
「分かってる。道具は道具だ。身体の延長だと思えば、手足が4本増えただけの話だろ」
『それを平然と言ってのけるのがおかしいんだよ!』
倉田のぼやきを聞き流しながら、俺は水晶洞窟の奥へと歩を進めた。
100メートルほど進んだ開けた広場に出たところで、空気がびりりと震えた。
カチ、カチカチカチ。
不快な擦過音とともに、天井の水晶柱の影から巨大な影が滑り落ちてくる。
体長3メートルを超えるエメラルド色の甲虫、第21層の門番魔獣『クリスタル・マンティス』が2体。
さらにその背後からは、岩盤のような重厚な甲羅を持つ中型魔獣『アダマン・トータス』が1体、地響きを立てて這い出してきた。
『マンティス2体にトータス1体! 中層の標準的な索敵遭遇パターンです! 凌、後退して地形を利用しろ!』
瀬名の切迫した声が飛ぶ。
だが、俺の足は止まらなかった。
呼吸を静かに整え、下腹部の丹田に意識を落とす。
俺の体内に巡る総魔力量は、わずか131。ギルドの基準ではEランク底辺の雀の涙だ。
しかし、その131の魔力粒子を、俺は80パーセントという純度で寸分の漏れもなく運動エネルギーへと変換できる。
「展開」
短く呟いた瞬間、背中のポッドからシュパパパッと4筋の黒い火花が弾けた。
漆黒の鋼刃を備えた4機の小型ビットが、空気を切り裂いて空中へ飛び出す。
脳内で4本の見えない神経を手繰り、手足の延長のように感覚を研ぎ澄ます。
1番機と2番機が、低空を滑るように左右へ大きく展開した。
「ギシャアアアッ!」
先頭のマンティスが前脚の巨大な水晶鎌を振り上げ、目にも留まらぬ速さで斬りかかってくる。
浅層の冒険者なら、その一撃で胴体を両断される速度だ。
だが、俺は一歩も引かない。
刃が俺の鼻先をかすめる0.05秒前、俺は右足をわずか3センチ横へずらした。
無駄な跳躍も回避運動もしない。重心を最小限にスライドさせ、敵の攻撃軌道を紙一重でかわす。
そして、空振りに終わったマンティスの体勢がわずかに前傾したその瞬間。
「そこだ」
1番機と2番機が、マンティスの視界の死角である後頭部から超音速で急降下した。
狙うのは甲殻ではない。
鎌の付け根にある、わずか1ミリ幅の生体関節の隙間だ。
キィィィンッ!
澄んだ金属音が重なり、アダマン鋼の極薄刃が関節の腱を精密に両断した。
マンティスの誇る巨大な水晶鎌が、だらりと力なく垂れ下がる。
「ギャッ!?」
「次」
俺は腰の『アダマン・クリーバー』を右手で逆手に抜き放った。
魔力を刃の表面に薄く這わせ、摩擦係数をゼロに近づける。
踏み込みとともに、斜め下から振り抜かれた黒い鉈が、鎌を失って隙だらけになったマンティスの首の接合部を吸い込まれるように通過した。
手応えは、豆腐を切るよりも軽い。
ズサァッと音を立てて、1体目の首が宙を舞い、巨大な胴体が床の水晶へ崩れ落ちた。
『なっ!? 遭遇から3秒で1体撃破!?』
通信の向こうで倉田の絶句する声が聞こえる。
だが、休んでいる暇はない。
2体目のマンティスが仲間の死に狂乱し、結晶の破片を散弾のように撒き散らしながら突っ込んできた。
同時に、後方のトータスが口から超高圧の水流ブレスを吐き出そうと喉を膨らませる。
「3番、4番、射線妨害」
空中に待機していた3番機と4番機が、交差するように急加速した。
トータスの目の前で推進ノズルを限界まで逆噴射し、眩い魔力閃光を炸裂させる。
目を灼かれたトータスが呻き声を上げ、ブレスの射角が天井へと逸れた。
その隙に、2体目のマンティスが俺の頭上へ跳躍してくる。
俺は左手の『レクス・マグナム』を引き抜き、銃口を真上へ向けた。
トリガーを引く。
ドォォォンッ!
結晶洞窟の空間を揺るがすほどの重低音とともに、大口径の魔力徹甲弾が放たれた。
空中で回避行動をとれないマンティスの胸部中央、心臓核を、弾丸が正確無比に貫通する。
炸裂した衝撃波でマンティスの巨体が真後ろへ吹き飛び、壁の水晶柱に叩きつけられて絶命した。
「残りは亀だな」
残されたトータスは、危険を察知して全身を分厚い岩盤の甲羅の中へ引き籠もらせようとしていた。
通常の探索者パーティーなら、この鉄壁の防御を破るために大火力の範囲魔法を何発も撃ち込まなければならない。
だが、解体屋の目から見れば、どんな強固な甲羅にも必ず『合わせ目』が存在する。
「レイヴン、4機同調。固定楔」
4機の黒翼が一斉に旋回し、トータスの甲羅の4隅にある排熱孔へと正確に突き刺さった。
ビットの内蔵スラスターが逆噴射し、甲羅の引き込み機構を強引にこじ開けて固定する。
「ギィィィッ!?」
閉じなくなった隙間に向かって、俺は歩み寄った。
アダマン・クリーバーの刃先を、甲羅と肉体の継ぎ目、わずかな筋膜の走行線へと差し入れる。
手首をわずかに捻る。
パキリ、と乾いた音がして、トータスの巨体を支えていた神経幹が完全に切断された。
暴れることもできず、トータスは静かに沈黙した。
静寂が水晶洞窟を包み込む。
戦闘開始から、わずか40秒足らず。
俺は息一つ乱さず、4機のレイヴンを背中のポッドへと自動回収させた。
カチリと心地よいロック音が背中で鳴り響く。
『おい、瀬名』
『はい、倉田さん』
『今の戦闘ログ、計器の故障じゃないよな?』
『はい。間宮さんの魔力消費量は、規定予測値のわずか22パーセント。4機のビットによる軌道制御誤差は、最大でも0.2ミリ以内です。すべての攻撃が、魔獣の解体ラインに沿って完璧にトレースされていました』
『手足が4本増えただけだと? あいつ、本当に人間かよ』
二人の呆然とした会話をバックに、俺は腰から解体用ナイフを抜き出した。
マンティスの希少な結晶大鎌を傷一つなく切り離し、トータスの甲羅から最上級の魔導甲殻プレートを外す。
さらに、トータスの腹側から極上の霜降り肉を素早く切り取り、持参した保冷パックへと丁寧に収めた。
「よし。血抜きもバッチリだ。これなら高く売れるし、肉の筋も綺麗に外れたな」
腕時計を見る。
まだ14時前だ。
「倉田、瀬名主任。試運転のログは取れただろ。俺はこれで引き揚げるぞ」
『えっ、もう帰るのか!? まだ第22層のデータ採取が残ってるんだぞ!』
「17時に鈴のお迎えがあるんだよ。スーパーで夕飯の材料も買わなきゃならねぇしな」
『お前、中層の魔獣を瞬殺しておいて、頭の中は晩飯と子育てのことだけかよ!』
倉田の絶叫を背中で聞きながら、俺は転移ゲートへ向かって軽快な足取りで歩き出した。




