第014話:安全特区の朝と、認可保育所の初登園
カーテンの隙間から差し込む眩しい陽光に、俺は心地よく目を覚ました。
ふかふかのベッドから身を起こし、リビングの巨大な南向きの窓を開ける。
冷涼で澄み切った朝の空気が、部屋いっぱいに流れ込んできた。
視線を遠くへ向ければ、幾重にも連なる丹沢の山並みの向こうに、真っ白な雪を被った富士山が雄大に聳え立っている。
下町の湿気とカビ臭い木造アパートにいた頃には、想像もできなかった朝の光景だった。
「すぅ、くぅ」
子供用のベッドルームを覗くと、ふかふかの掛け布団の真ん中で、鈴が大の字になって眠っていた。
桃色のほっぺをぷっくりと膨らませ、時折小さく唇をモゴモゴと動かしている。
夜中に泣くこともなく、朝までぐっすり熟睡できたようだ。
ピンポーン。
まだ朝の7時前だというのに、リビングのインターホンが軽快な電子音を鳴らした。
玄関のモニターを確認して解錠すると、パタパタと小走りの足音とともに、ドアが勢いよく開いた。
「おはよう間宮さん! 朝ごはん作りに来たわよ!」
両手にスーパーの買い物袋を提げて飛び込んできたのは、神崎葵だった。
なぜか私服の上から淡いクリーム色のエプロンをばっちり身に着けている。
「おい、お前、自分の家はどうしたんだよ」
「社宅はすぐ近所よ! それに、独身男の適当な離乳食じゃ栄養が偏るでしょ! 今日は鈴ちゃんの記念すべき保育園初登園なんだから、栄養満点の特別メニューよ!」
葵はずかずかと最新式のシステムキッチンへ向かい、買ってきた食材を手際よく並べ始めた。
有機野菜の裏ごしペースト、新鮮な牛乳、バナナ、それに俺用のベーコンエッグトーストまで作る気らしい。
「あぅ?」
キッチンの物音に目を覚ましたのか、寝室の扉の隙間から、パジャマ姿の鈴がひょこっと顔を出した。
小さな手で目をこすりながら、トテトテとこちらへ歩いてくる。
そして、俺の足にしがみつき、満面の笑顔で見上げた。
「りょー!」
「おはよう、鈴。よく眠れたか?」
抱き上げて頭を撫でてやると、鈴は満足そうに俺の首元に顔をスリスリと擦り付けた。
そこへ、フライパンを片手にした葵が身を乗り出してくる。
「鈴ちゃん、おはよー! 葵お姉ちゃんだよー!」
「あおい!」
鈴が小さな指をさして元気に呼んだ。
その瞬間、葵がフライ返しを落としそうになりながら、両手で頬を押さえて悶絶した。
「な、名前覚えてくれたぁぁぁ! 『あおい』って呼んでくれた! 生きててよかった! 今日の朝ごはん、腕によりをかけて極上のやつを作るからね!」
「焦がすなよ」
騒がしくも温かい食卓。
葵が作ったバナナフレンチトーストをスプーンで口元に運んでやると、鈴は待ちきれない様子で両手をバタバタと振った。
「んま! あむあむ、んま!」
「ふふ、いっぱい食べてね。今日は新しいお友達がたくさんいる場所にいくんだから」
葵が優しく微笑みながら、鈴の口元のクリームをナプキンで拭き取ってやる。
まるで本当の母親のように甲斐甲斐しく世話を焼く姿に、俺は苦笑しつつも素直に感謝していた。
男一人の手探り子育てに、この面倒見の良さは正直かなり助かっている。
*
朝食を終え、鈴に新調した紺色のサロペットと帽子を着せて外へ出た。
第2区、安全居住特区の朝は静かで平和だった。
美しく手入れされた街路樹が並び、舗装された道路の上を球形の清掃ドローンが静かに巡回している。
通りを行き交う住民たちも身なりが整っており、下町のように血走った目の酔っ払いやガラクト集めが怒鳴り合っている姿はどこにもない。
歩くこと10分ほど。
白を基調とした近代的な2階建ての園舎が見えてきた。
ギルド直営『アストラル・キッズアカデミー』。
都市最上層の特区にのみ設置されている、最高峰の防犯設備と小児医療体制を備えた認可保育所だ。
エントランスゲートでIDカードをタッチし、生体認証をパスして園内へ入る。
清潔な受付カウンターで待っていた若い保育士の女性が、柔らかな笑顔で迎えてくれた。
「間宮さん、お待ちしておりました! 今日からご入園の鈴ちゃんですね」
「よろしくお願いします。手がかかるかもしれませんが」
「まあ、とってもお利口そうなお顔立ちですね! お父様とお母様も、揃ってお見送りありがとうございます」
「えっ!?」
葵が素っ頓狂な声を上げた。
耳まで真っ赤にして、両手を激しく横に振る。
「お、お母様!? ち、違います! 私、まだ23歳の独身で、その、会社の同僚兼シッターというか、保護者枠の補助というか!」
「あ、あら、そうだったのですね。大変失礼いたしました! あまりにお似合いのご夫婦に見えてしまって」
「ご、ご夫婦だなんてそんな!」
湯気を噴き出しそうな勢いで狼狽える葵を横目に、俺は鈴を床に降ろしてやった。
鈴は奥のプレイルームに広がるカラフルな遊具や絵本を見て、俺の腕の中で身を乗り出すように手を伸ばした。
「あっち!」
小さな足でトテトテと一歩踏み出し、振り返って俺と葵を見上げた。
「鈴、先生の言うことをよく聞いて、いい子にしてるんだぞ。夕方には必ず迎えに来るからな」
俺が屈んで目線を合わせると、鈴は小さな両手を力いっぱいに振った。
「りょー! あおい! ばいばー!」
「うぅ、鈴ちゃん、頑張ってね! お迎えの時、おやつ買ってくるからね!」
保育士さんに手を引かれ、楽しそうに中へ駆けていく鈴の後ろ姿を見送る。
かつて冷たい地蔵堂で毛布にくるまっていたあの子が、今、陽当たりの良い安全な場所で笑顔で暮らしている。
それだけで、胸の奥の重荷がすっと軽くなるようだった。
*
保育所を出た後、俺たちは葵が運転するアルス・テック社の社用車で、第4工業区にあるダンジョン直通シャフトターミナルへと向かった。
旧都心の巨大金属柱から防壁都市の地下全域へと広がる『東京ピラー地下大迷宮』への、企業専用エントリー口の一つだ。
助手席の窓の外を見つめながら、俺は膝の上に置いた黒い細身のケースに手を置いた。
昨日、倉田チーフから手渡された、レイヴン専用の耐衝撃スリングケースだ。
「まだ顔が赤いぞ、葵」
「うるさいわね! 誰のせいで恥ずかしい思いをしたと思ってんのよ! 適当に合わせておけじゃないわよ!」
葵がぷりぷりと怒りながらハンドルを切る。
だが、ゲート前の駐車場に車を滑り込ませると、彼女の表情は引き締まったテストパイロットのものへと戻った。
「冗談はここまでね。間宮さん、今日の任務は第16層の魔素濃度調査と、中層魔獣の生息域マッピングよ。Dランク昇格後の初任務だけど、浅層とは全くの別世界だから油断しないで」
「分かってる。中層の連中は浅層の雑魚とは速度も硬さも桁違いだろ」
俺はシートベルトを外し、スリングケースのロックを解除した。
プシュー、と微かな減圧音。
中から現れたのは、光を吸い込むような漆黒の短剣型端末、試作一号機『レイヴン』の2機だ。
左右対称の鋭利な刀身。
内部に組み込まれた対の変異共鳴コアが、互いに呼び合うように青紫色の光条を脈動させている。
俺は作業着の腰ベルトの左右両サイドに、専用のカーボン製クイックドロー・ホルダーを装着した。
そして、2機のレイヴンをカチリと左右のホルダーへ1機ずつ収める。
電磁ロックが作動し、激しい運動でも絶対に脱落しない状態になった。
右手を伸ばせば右の柄を、左手を伸ばせば左の柄を、コンマ数秒で直接引き抜ける絶妙な配置だ。
右腰の革鞘には、愛用の刃渡り30センチの大型解体ナイフ。
左太腿には、調整を終えた魔導ハンドガン。
右腕には、薄型の制御アームレット。
「装備の同調、完了した」
「うん、データリンクは完璧よ。私の端末にもリアルタイムでレイヴンの駆動ログが飛んでくるわ。無茶はしないでね。鈴ちゃんが待ってるんだから」
「ああ。夕飯前には確実に帰る」
俺は車のドアを開け、第16層へと続く中層進入シャフトのエレベーターへと歩みを進めた。
腰の左右で静かに眠る、2振りの黒き刃。
職人の道具として研ぎ澄まされたその性能を、中層の化け物どもに存分に試してやるとしよう。




