第119話:静まる奈落と、消えない余白
真っ二つに割れた中心核から立ち上っていた光の粒子が、天井の漆黒の中へと溶けて消え去った。
白銀の床に横たわるアルケー・コアの巨大な残骸からは、もはや駆動音も油圧の軋みも聞こえない。
無数に展開されていた自律迎撃アームも、完全に動力を失って転がっていた。
壁面を走っていた深紅の警告ラインが、スーッと色を失っていく。
やがて現れたのは、これまでの冷酷な光とはまったく異なる、微かな琥珀色の燐光だった。
それはまるで、激しい怒りを鎮め、深い眠りへと就いた巨人の寝息のようだった。
30年間、この巨大な東京ピラーの深部を震わせ続けていた不気味な低周波の脈動が、完全に消滅していた。
大気を切り裂くような高濃度の魔素圧は急速に散逸し、肌を刺す殺気は清涼な空気へと置き換わっていく。
迷宮全体が、長い戦いを終えて安定した休眠状態へと移行していた。
俺は深く息を吐き出し、乱れた呼吸を整えた。
胸ポケットに手を当てると、金属製の小さな鈴が、いつも通りの静けさで指先に触れた。
ふと、足元で乾いた硬質な音が響いた。
カラン。
二つに割れた中心核の断面から、親指ほどの大きさの結晶片が転がり落ち、白銀の床を滑って俺の爪先に当たった。
黒鉄と白銀、深い藍色が複雑に混ざり合った、未知の金属結晶。
手のひらに拾い上げると、ほんのりと微弱な温もりを帯びていた。
このピラーという建造物を制御していた、古代の技術の欠片。
なぜこれがここに作られ、なぜ30年前に地上へと降ってきたのか。
先ほど一瞬だけ脳裏を掠めた、星々の海と12本の金属柱の記憶。
その真実の全貌は、読めない古代文字のように謎のまま残されていた。
けれど、俺はその結晶を覗き込もうとはしなかった。
「雫への土産だな」
呟き、俺は結晶片を背嚢のサイドポケットへと無造作に放り込んだ。
知りたければ学者が調べればいい。
俺の仕事は、街を脅かす暴走を止め、定時に娘の元へ帰ることだけだった。
俺は天鷲の二振りを手元へ引き寄せ、腰のポーチから取り出した油布で刀身を拭った。
親方が鍛えた刃には、刃こぼれひとつない。
青白い二重螺旋の燐光を静かに収め、ジャキリと背中の鞘へ二振りを納刀した。
続けて、床に散らばった2機のレイヴンの残骸を拾い集める。
熱線を屈折させて砕け散った刀身の破片を、丁寧に背嚢へ詰めた。
「葵に小言を言われそうだな」
苦笑いを浮かべ、残る2機のレイヴンを背嚢のスロットへ帰還させる。
身の回りの道具を点検し、忘れ物がないことを確認して、俺は広大なドーム神殿に背を向けた。
振り返ることは一度もなかった。
黒曜石の円形大扉を抜け、第60層を後にする。
通ってきた回廊を逆戻りしていくと、周囲の空気が劇的に変化しているのが分かった。
第59層『反転の虚空』。
先ほどまで0.8秒周期で天地がひっくり返っていた重力異常は、完全に消失していた。
空中に浮遊していた金属片はすべて床へと落ち、通常の重力が足元をしっかりと捉えている。
足取りは軽く、歩行の乱れもない。
何万回と繰り返してきた、ダンジョンでの解体作業を終えた後の、いつもの帰り道だった。
第58層『星霜の回廊』を抜け、奈落のゲートを跨いで戻る。
かつて仲間たちを押し潰そうとしていた異常な重力波はどこにもなく、吹き抜ける風は驚くほど穏やかだった。
そして。
深度5,000メートル、第55層の岩窟が見えてきた。
暗がりの中、遠く前方に黄色いランタンの明かりが揺れていた。
設営された耐魔テントの前で、五人の人影が固まるようにして立っているのが見えた。
ピピッ、ピピッ、ピピッ!
静かな空間に、けたたましい電子アラートが鳴り響いていた。
雫が抱え込んだ観測端末から発せられている音だった。
「ピラー全域の魔素波形、完全平坦化! 30年間記録され続けていた基底脈動が、完全に沈静化しました!」
雫の震える声が、岩壁に反響した。
その言葉を聞いた瞬間、武器を構えていた仲間たちの肩が一斉に跳ね上がった。
「おい、嘘だろ! じゃあ、本当に!」
タケが叫び、大盾を抱えたまま前方の大空洞を凝視した。
坂東が巨大な機械腕『V-RIG』の油圧を唸らせ、一条が拳を握りしめて息を呑む。
神崎葵は通信機のヘッドセットを外しかけ、暗闇の奥へ身体を乗り出していた。
コツ、コツ、コツ。
静寂の坑道に、硬質なブーツの足音が響いた。
ランタンの温かい灯りが、闇の中から歩み出てくる一人の男の姿を照らし出す。
返り血を拭い、背嚢を背負い直した俺は、立ち尽くす五人に向けて軽く片手を挙げた。
「よう。待たせたな」
「凌っ!」
タケが咆哮のような声を上げ、地面を蹴って駆け寄ってきた。
ドンッ、と分厚い手のひらが俺の右肩を力任せに叩く。
「やりやがった! マジでやりやがったぞこの野郎! 一人で最深部まで行って、ピラーの親玉を引っこ抜きやがった!」
「おいおいタケ、肩が外れるだろうが」
俺が苦笑いすると、すぐ後ろから坂東がドシドシと足音を響かせてやってきた。
無骨な顔をくしゃくしゃにして笑いながら、金属の指先で俺の頭を小突く。
「ハッ、とんでもねえ解体屋だぜ。人類の誰も届かなかった60層の心臓を、本当に包丁1本で捌いてきやがった。まったく、恐れ入ったよ」
「お見事だ、間宮」
一条岳が歩み寄り、背筋を真っ直ぐに伸ばして深々と頭を下げた。
その表情には、武人としての深い敬意が滲み出ていた。
「この街のすべての人々を、お前がその刃1本で救い出した。生きて戻ったこと、心より誇りに思う」
「大袈裟ですよ、一条さん。俺はただ、目の前の邪魔な機械を止めてきただけです」
俺が肩を竦めると、背後から小走りで近づいてきた葵と雫が、その場に崩れ落ちるようにして立ち止まった。
葵は両手で顔を覆い、大きく肩を震わせながら何度も息を吐き出していた。
「本当によかった。無事で、本当によかった! 2機、信号が途絶えたから、もう最悪のことばかり考えてしまって」
「葵、雫。すまん、レイヴンを2機壊した。殲滅砲を逸らすのに盾にした」
俺が背嚢から回収した破片を取り出そうとすると、葵は勢いよく顔を上げ、俺の胸元をポカリと叩いた。
「そんなのどうでもいいです! 機械なんていくらでも作り直せます! 間宮さんが、五体満足で生きて帰ってきてくれた、それだけで百点満点です!」
「先生っ、ありがとうございます! 本当に、街を守ってくださって!」
雫も胸元を押さえ、声にならない安堵の吐息を漏らしていた。
全員が無事だった。
誰一人欠けることなく、この深度5,000メートルの地獄から生還を果たした。
俺はタクティカルスーツの袖を捲り、手首のアナログ時計を確認した。
長針と短針が指し示している時刻を見て、小さく頷く。
「よし。全員怪我がないなら、さっさと撤収作業を始めよう」
「あ? おいおい凌、これだけの偉業を成し遂げたんだぞ? もう少しここで勝利の余韻に浸ってもバチは当たらねえだろ」
タケが呆れたように笑いながら首を振る。
俺は背嚢のベルトをきゅっと締め直し、仲間たちに向けて真面目な顔で言った。
「余韻に浸ってる暇はない。今から昇降ケージに乗って地上へ上がらなきゃ、17時の保育所のお迎えに間に合わなくなる」
一瞬の静寂の後、坑道の中にドッと大きな笑い声が弾けた。
「あっははは! 違えねえ! 世界を救った大英雄が、保育所の時間制限で大慌てかよ!」
「さすがは間宮さんね。それでこそ私たちのエースパイロットよ!」
男たちの豪快な笑い声と、女性陣の明るい歓声が、暗い岩窟の中をどこまでも温かく照らしていった。
「さあ、帰るぞ」
俺の号令とともに、六人は足並みを揃え、地上へと続く昇降シャフトへ向けて歩き出した。




