第011話:安全特区の社宅と、小さな居場所
「間宮。金じゃ動かねえってなら、こいつはどうだ」
倉田は端末を操作し、防壁都市の立体ホログラムマップを空中に投影した。
指し示されたのは、防壁都市の中枢、第2区の一角だ。
「第2区、安全居住特区。外壁の崩壊や魔獣の侵入が絶対に及ばない、都市最上層の特別区画だ。一般の探索者じゃBランク以上か、巨額の推薦枠がなきゃ入居すら許されねえ。だが、うちの特別技術顧問として契約すれば、メーカー特権の社宅枠を使える」
「安全居住特区の社宅?」
「ああ。24時間体制の自動防犯シールド完備。区画内にはギルド直営の最高級認可保育所と小児医療センターがある。家具家電付きの広いマンションを無償提供しよう」
ドクン、と心臓が跳ねた。
頭の中に浮かんだのは、下町の路地裏にある、湿気と隙間風のひどいあの木造アパートの部屋だった。
治安も悪く、夜中に酔っ払いやゴロツキの怒鳴り声が響くあの場所。
そして、地蔵堂の冷たい床で、小さく震えながら毛布にくるまっていた鈴の姿。
俺一人なら、あんなボロアパートで野垂れ死んでも構わない。
だが、あの子は違う。
あたたかい光が差し込む、誰も脅かす者のいない安全な場所で、安心して笑っていてほしい。
俺は唾を飲み込み、倉田を見つめ返した。
「その社宅、日当たりはいいのか?」
「は?」
倉田が拍子抜けしたように黙り込んだ。
隣の葵もぽかんと口を開けている。
「だから、日当たりだ。昼間にちゃんと陽が入る部屋なのかって聞いてる」
「あ、ああ! 南向きの最上階角部屋だ! ベランダからは遠くの富士山まで見晴らし最高、洗濯物も1時間でカラッと乾くぞ!」
「分かった。契約しよう」
俺が即答すると、倉田も葵も、周囲の技術者たちも一瞬静まり返り、次の瞬間に全員で盛大にずっこけた。
「ひ、日当たりで決めたのーーー!?」
「月給300万と1200万の即金には眉一つ動かさなかったくせに!?」
葵の悲鳴のようなツッコミがラボに木霊した。
俺は知らん顔で契約書のホログラムに電子サインを走らせた。
「機体の調整に1日くれ。さっきの変異コアを組み込んで、明日にはお前の魔力波形に合わせた初期チューンを終わらせておく」
「助かる。じゃあ俺はもう行くぞ。迎えの時間だ」
*
ラボを後にし、葵が運転するアルス・テック社の社用車でギルド第七外郭門出張所へと戻った。
助手席の俺をチラチラと見ながら、葵が不思議そうにハンドルを握っている。
「ねえ間宮さん。失礼だけど、奥さんとか、お子さんがいるの? 日当たりとか保育所とか、やけに気にしてたから」
「奥さんはいない。独身だ」
「えっ、じゃあ誰のお迎えなの?」
「最近、訳あって一時預かりすることになった娘だ」
「む、娘ぇぇぇ!?」
葵がブレーキを踏み込みそうになり、慌てて体勢を立て直した。
「独身で娘!? 隠し子!? いや養子!? ちょっと、どういうこと!?」
「話せば長くなる。着いたぞ」
出張所の駐車場に車を滑り込ませ、俺たちは1階の託児窓口へと向かった。
カウンターの奥で書類を整理していた長谷川さんが、俺の姿を見とがめて柔らかく微笑んだ。
「あ、間宮さん。お疲れ様です。無事に第15層から戻られたんですね」
「ああ、長谷川さん。鈴はいい子にしてたか?」
「ええ、もう本当にお利口さんでしたよ。ミルクをたっぷり飲んで、ずっとおもちゃのブロックを握りしめて待ってました。今お連れしますね」
長谷川さんが奥のプレイルームへ声をかけると、トテトテトテ、と小さな足音が響いてきた。
靴下を履いた小さな足で、一生懸命に床を蹴って走ってくる影。
扉の隙間からひょこっと顔を出した鈴が、ロビーに立つ俺の姿を捉えた瞬間。
満開の花が咲くような笑みが、その顔いっぱいに広がった。
「りょー!」
小さな両手を広げ、満面の笑顔で一直線に突進してくる。
俺は思わず口元を緩め、床に膝をついて両腕を広げた。
ペタッ! と柔らかな温もりが俺の胸元に飛び込んでくる。
鈴は小さな手で俺の作業着をぎゅっと握りしめ、顔を胸元にスリスリと擦り付けてきた。
「ただいま、鈴。いい子にしてたな」
「んー! えへー!」
俺が頭を撫でてやると、鈴は誇らしそうに小さく胸を張った。
この温もりを感じるだけで、迷宮の冷気も戦いの疲れも一瞬で消し飛んでいく。
だが、その微笑ましい光景の横で、完全に石化している人物がいた。
「っ」
神崎葵だ。
さっきまで凛々しく銃を構え、テストパイロットとしてテキパキと指示を出していたクールビューティーが、両手で口元を押さえ、生まれたての小鹿のようにプルプルと震えている。
「あ、葵さん? どうした?」
「な、な」
「な?」
「なんなの、あの生き物っ!! て、天使!? ふわふわのほっぺ、小さな手、『りょー!』って何!? 私を殺す気なの!? 信じられないくらい可愛いんですけどぉぉぉ!!」
突如として理性を吹き飛ばした葵が、鼻息を荒くしながら鈴へと詰め寄ってきた。
その迫力に怯えた鈴が、ピクッと肩を跳ねさせ、俺の首元にギュッとしがみついて背中を向けた。
「やぁ!」
「拒絶されたぁぁぁ!? でも可愛い! 『やぁ!』の言い方が最高に尊い!」
「おい落ち着け、怖がってるだろ」
頭を抱える俺の胸の中で、鈴は警戒するようにチラリと葵を盗み見ながら、俺の指を小さな手でぎゅっと握りしめていた。
未知の共鳴コアの売却額、1200万円。
試作ビットのテスター契約、月給300万円。
明日から手に入る、日当たりの良い安全な新しい我が家。
すべては、この小さな笑顔を守るためだ。
俺は鈴を抱き直し、夕暮れに染まる防壁都市の空を見上げた。




