第108話:遠征の決意と、預けた日々
Aランク昇格の認定証を受け取ってから数日後。
木曜の昼下がり、俺はギルド特区出張所の最奥にある個室ブースにいた。
防音壁に囲まれた静まり返る室内で、ローテーブルを挟んで向かい合う長谷川さんの表情は、いつもの柔らかな笑顔とは打って変わり、引き締まった緊張感を帯びていた。
卓上には、何重もの機密印が押された深層の立体魔素ホログラムが青白く展開されている。
「間宮さん。これが現在、WSO観測班とギルド本部が捉えている第35層以降の最新データです」
長谷川さんが指し示したのは、第35層の境界からさらに下、深度4,000メートルを超える暗黒の領域だった。
そこには、これまで観測されたことのない不規則な重力サージと、高密度の魔素流が不気味に渦巻いていた。
「先日のアビス・キメラの出現は、単なる孤立した事故ではありませんでした。ピラーの深部、おそらく第50層から第60層にかけての最奥で、未曾有の魔素膨張が進行しています」
「このまま放置したら、どうなるんですか」
俺が問いかけると、長谷川さんはわずかに唇を噛み、手元の書類をめくった。
「早ければ数ヶ月、遅くとも年内には、かつて起きたような大規模スタンピードが再び地上を襲う恐れがあります。しかも今度は、防壁の外郭だけでなく、都市の地下基盤そのものを突き破る規模です」
長谷川さんの言葉に、俺は静かに視線を落とした。
地下基盤が崩れれば、特区のタワマンも、認可保育所も、スーパーも、すべてが瓦礫の底に沈む。
鈴が笑顔で駆け寄ってくるあの夕暮れの歩道も、跡形もなく消え去ってしまう。
「ギルド本部と都市防衛軍は、第35層から第50層以深に向けた本格的な長期遠征調査隊の編成を決定しました。武田さん、坂東さん、一条さん、そしてアルス社の神崎さんと如月さんも、既に招集を受諾されています」
長谷川さんはそこで言葉を切り、まっすぐに俺を見つめた。
「ですが、間宮さんはAランクです。ギルド規約第十二条に基づき、出撃の完全任意選択権があります。危険な長期遠征への参加を拒否し、この街で待機する権利が法的に保障されています」
長谷川さんの声には、俺の立場を思いやる深い気遣いが満ちていた。
日帰りができない長期の遠征に出れば、当然、5時のお迎えには行けない。
何日も鈴の側を離れることになる。
だが、俺の心は最初から決まっていた。
「長谷川さん。俺も行きます」
「間宮さん」
「街が平穏でなきゃ、定時退勤もできませんからね。娘が安心して暮らせる場所を守るためなら、何日か家を空けるくらい、どうってことありません」
俺が淡々と告げると、長谷川さんは小さく息を呑み、やがて深く、静かに頭を下げた。
「承知いたしました。間宮さんの遠征参加を、正式に受領いたします」
17時ちょうど。
認可保育所で鈴を抱き上げ、茜色に染まる街を手を繋いで歩いた。
小さな手から伝わる温もりが、胸の奥にじんわりと染み渡る。
特区タワマン401号室に帰宅し、鈴の手足を洗った後、俺はお隣の402号室のインターホンを押した。
電子チャイムが鳴り、すぐにドアが開いた。
エプロン姿の早川志保が、人懐っこい笑顔で顔を出す。
「あら、間宮さん! ちょうどよかった、陽菜と芽依が鈴ちゃんと遊びたいって騒いでて」
「早川さん、少し相談があるんだ」
俺の改まった声に、志保は小さく表情を引き締め、室内に招き入れてくれた。
リビングでは、陽菜と芽依が鈴を囲んで積み木を広げていた。
三人で仲良くブロックを重ね、崩れては笑い声を上げている。
子供たちの無邪気な笑い声を聞きながら、俺は明日から始まる長期遠征のことを切り出した。
「明日から数日間、深層の第35層以降へ潜ることになった。日帰りができなくて、何日か家を空けることになる。鈴を、預かってもらえないだろうか」
志保は黙って俺の話を聞いていた。
そして俺が頭を下げようとした瞬間、志保の手が俺の肩を軽く叩いた。
「水臭いこと言わないでよ、間宮さん!」
顔を上げると、志保は呆れたように笑いながら、腰に手を当てていた。
「陽菜も芽依も、鈴ちゃんとずっと一緒にいられるって聞いたら飛び跳ねて喜ぶわよ。二人も三人分も、ご飯の支度なんてちっとも変わらないんだから」
「だが、何日かかるか正確には分からない。危険な遠征だし、迷惑をかける」
「間宮さん」
志保の声が、すっと静かなトーンに変わった。
その顔つきには、かつてBランク探索者として迷宮の泥をすすってきた者特有の、鋭く温かい光が宿っていた。
「私、元探索者だから分かるの。間宮さんがそこまで腹を括って行かなきゃならない場所があるんでしょ。この街と、子供たちの未来のために」
「ああ」
「だったら、後ろ髪引かれるような顔で行っちゃダメよ。鈴ちゃんのことは、この私が命がけで守るから。間宮さんは前だけを見て、無事に帰ってくることだけを考えなさい」
迷いのない、力強い言葉だった。
下請け時代、たった一人で鈴を抱えて途方に暮れていたあの日の自分が、どれほど救われたか分からない。
「ありがとう、早川さん」
「お礼なんて無事に帰ってきてからでいいわよ! 着替えと予備のオムツ、それにお気に入りのオモチャだけ後で持ってきてね。さあ、今夜は鈴ちゃんと水入らずで過ごしなさい」
志保に背中を押され、俺は鈴を抱き上げて401号室へと戻った。
今夜の夕餉は、鈴の大好物を作ることにした。
秋の味覚である甘いサツマイモと、新鮮な鶏挽肉を使った特製とろみ餡かけご飯だ。
サツマイモの皮を丁寧に剥き、小さな角切りにして昆布出汁でじっくりと煮崩していく。
芋の甘い香りが台所に立ち上ったところで、細かく刻んだ鶏ササミと挽肉を投入する。
微細魔力循環を発動し、鍋底から伝わる熱を均一に浸透させる。
肉の表面を固めず、繊維を極限まで柔らかくほぐしながら、出汁の旨味と一体化させる。
仕上げに水溶き葛粉を回し入れ、とろりとした黄金色の餡に仕立て上げた。
「鈴、ご飯だぞ」
子供用のハイチェアに鈴を座らせ、木椀によそった温かい餡かけご飯を置く。
立ち上る湯気に、鈴は足をパタパタと弾ませた。
「ん! んま!」
「熱いからな、ふーふーして食べるんだぞ」
銀のスプーンを手渡すと、鈴は両手でぎゅっと握り、山盛りのサツマイモご飯をすくって大きなお口を開けた。
「あむ!」
一口頬張ると、鈴の丸い頬がパッと華やいだ。
もぐもぐと咀嚼し、喉を嬉しそうに鳴らす。
「おいし!」
満面の笑顔が、食卓いっぱいに弾けた。
「おいし! ぱぱ! んまー!」
「そうか、よかったな」
「んまー!」
鈴は夢中でスプーンを進めた。
小さな口の端に黄色い芋の餡をつけながら、あっという間に一杯目を平らげる。
おかわりしたご飯も綺麗に完食し、最後の一粒までスプーンで器用にすくい取った。
「んっ! たべた!」
「よく食べたな、鈴」
布巾で口元を拭いてやると、鈴は満足そうに口元を緩め、俺の腕にしがみついてきた。
リビングのソファで、鈴を通園リュックの前に座らせる。
リュックの肩紐に結ばれた真鍮の鈴が、ちりん、と涼やかな音を立てた。
母の形見であり、鈴が一番大切にしている宝物だ。
「ちりん!」
鈴は小さな指で真鍮の鈴を弾き、けらけらと声を上げて何度も繰り返した。
「ぱぱ! きゃっ!」
「そうか、気に入ったか」
俺は鈴の頭を優しく撫でた。
明日から数日間、この笑顔を見られない。
だが、この音を守るために、俺は行かなければならない。
「鈴。明日から少しの間、早川さんのところで陽菜ちゃんや芽依ちゃんと待っててくれな」
鈴は首を傾げ、澄んだ瞳で俺を見上げた。
言葉のすべてを理解できているわけではないだろう。
それでも、俺の真剣な声のトーンを察したのか、鈴は小さな手で俺の指をきゅっと握りしめた。
「ぱぱ!」
「お父さん、必ず帰ってくるからな」
「あい!」
力強い返事とともに、鈴は俺の膝に顔を埋めた。
やがて、小さなあくびがこぼれ、規則正しい寝息が部屋に満ちていく。
俺は眠った鈴をベッドへ運び、毛布を優しく肩まで掛けた。
翌朝、午前6時。
まだ夜明け前の冷たい空気の中、俺は荷物をまとめ、鈴を抱いて402号室を訪ねた。
パジャマ姿の志保と、目をこすりながら起きてきた陽菜と芽依が出迎えてくれた。
「鈴ちゃん、おいで!」
「いっしょにあそぼ!」
双子に手を引かれ、鈴はまだ眠たそうにしながらも、居間に敷かれた布団へと向かった。
そして振り返り、玄関に立つ俺に向かって、小さな手をいっぱいに振った。
「ぱぱ!」
「行ってくるよ、鈴」
「ばいばーい!」
鈴の小さな笑顔を網膜に焼き付け、俺は静かにドアを閉めた。
迷いは何一つなかった。
午前7時。
第7区緊急連絡シャフトの地上プラットフォーム。
冷え冷えとした鉄の匂いと重油の香りが立ち込める中、巨大な昇降ケージの前に五人の姿があった。
「よう、間宮。待ってたぜ」
巨大な強化タワーシールドを背負ったタケが、白い息を吐きながら豪快に笑った。
その隣には、削岩アンカーを重厚に組み替えた最新型V-RIGを装着した坂東。
腕を組み、静かに気を練り上げている一条。
そして、スワローの遠隔管制ポッドを抱えた葵と、精密重力センサーを起動させている雫。
「間宮さん、装備の最終チェックは完了しています。いつでも行けますよ」
「先生、第35層以降の重力予測データ、すべて端末に同期しておきました」
「助かるよ、二人とも」
俺は腰のホルダーに手を添えた。
佐伯親方が魂を込めて鍛え直した完全版アキュラ『天鷲』。
そして両脇に控える2機の『レイヴン』。
男たちの視線が交差し、言葉はなくとも互いの覚悟が通じ合う。
誰一人として、怯えも驕りもない。
ただ目の前の過酷な仕事を完璧にやり遂げるための、職人たちの顔だった。
「よし、全員揃ったな」
タケがケージの重い鉄扉を開け放った。
「第35層以深、長期遠征部隊、出撃するぞ!」
「「「おう!」」」
六人が昇降ケージに乗り込む。
重厚な警告音が鳴り響き、油圧ロックが外れる。
ゴオオッ、という轟音とともに、ケージは未知なる暗黒の深層へ向かって、凄まじい速度で急降下を始めた。




