第107話:新しい肩書きと、変わらない夕餉
月曜の午後。
秋晴れの高い空の下、探索者協会ギルド特区出張所のロビーは、異様な緊張感とざわめきに包まれていた。
普段は淡々と手続きをこなす受付カウンターの前に、ぴんと背筋を伸ばした支部長自らが立っている。
その手元には、黒いベルベットが敷き詰められた重厚な化粧箱が置かれていた。
「探索者、間宮凌殿」
厳かな声が、大理石のフロアに低く響き渡る。
「貴殿の卓越した戦術判断、並びに第33層連絡ルートにおける変異受肉巨獣の迅速なる単独解体功績を認め、本日付をもって【Aランク探索者】への昇格を正式に認定いたします」
支部長が恭しく化粧箱の蓋を開けた。
中に収められていたのは、鈍い黄金の光沢を放つ金属製のカードだった。
外周には精緻な魔導彫金が施され、中央には間宮凌の名と、くっきりと刻印された『RANK-A』の金文字が刻まれている。
国内でも数えるほどしか存在しない、上位探索者の頂点を示す金縁ライセンスだった。
「お受け取りください」
ロビーにいた他の探索者やギルド職員たちの息を呑む気配が、肌にビリビリと伝わってくる。
「おい、見たかよ。本当にAランクの金縁だぞ」
「第33層のキメラを30秒足らずでバラしたっていう、あの元下請け解体屋か」
あちこちから漏れ聞こえる囁き声の中、俺は一歩前へ進み出た。
手袋を外した右手を差し出し、化粧箱から金縁のカードを指先でつまみ上げる。
ずっしりとした金属の重みが、手のひらに冷たく伝わってきた。
「ありがとうございます」
俺は深く頭を下げ、そのカードを一瞥した。
そして何のためらいもなく、作業着の胸ポケットへ無造作に滑り込ませた。
「えっ」
支部長の眉がピクリと跳ね上がり、ロビーのあちこちで小さなどよめきが走る。
至宝のように扱うべき最高峰のライセンスを、ただの小銭入れに突っ込むような手つきだったからだ。
カウンターの奥で書類を揃えていた長谷川さんが、口元に手を当てて笑いを懸命に噛み殺していた。
俺は長谷川さんに向き直り、用件だけを手短に確認した。
「長谷川さん。これで確認ですが、急な招集や強制遠征の義務は、規定通りすべて免除ですね?」
「はい、間違いありません。ギルド規約第十二条に基づき『出撃完全任意選択権』が与えられます。間宮様の同意のない強制招集は一切行われません」
「よかった。それなら文句はありません」
俺が心底ほっとしたように息を吐くと、支部長が信じられないといった面持ちで口を開いた。
「ま、間宮殿、それだけ、かね? 名誉市民権の申請や記念式典の打診なども届いているのだが」
「いえ、全部結構です。それより夕飯の買い出しに行きたいので。5時に保育所へ娘を迎えに行かなきゃならないんで、失礼します」
俺は手短に会釈を残し、踵を返して出張所の自動ドアへと向かった。
背後で支部長が呆然と立ち尽くし、長谷川さんが小さく吹き出す気配が伝わってきた。
ロビーの自動ドアを抜けると、心地よい秋風が頬を撫でた。
胸ポケットに収まった金縁ライセンスはひんやりと冷たい。
世間がどれほど騒ごうと、俺にとっては「定時退勤を誰にも邪魔されないための通行手形」にすぎなかった。
時計の針は14時10分を指している。
保育所のお迎えまでは、まだ3時間近くある。
俺は地下鉄の連絡通路へ向かい、第4工業区行きの列車へと乗り込んだ。
轟音と鉄の匂いが立ち込める第4工業区。
狭い路地の奥にある見慣れた暖簾をくぐると、鍛冶場の奥からガン、ガンと激しい金属打撃音が響いていた。
「親方、邪魔するぞ」
槌を振るう手がピタリと止まった。
炉の赤々とした火の粉が舞う中から、煤だらけの顔をした佐伯鉄造がのっそりと姿を現した。
首に巻いた分厚い手ぬぐいで額の汗を乱暴に拭い、鋭い眼光で俺を睨め付ける。
「なんだ、小僧。今日は天鷲の定期点検の日じゃねえぞ」
「点検じゃない。ちょっと顔を見せに来ただけだ」
俺は作業着の胸ポケットから、先ほど受け取ったばかりの金縁ライセンスを取り出した。
鉄粉の積もった作業台の端に、コトンと音を立てて置く。
親方は眉をひそめ、作業台の上のカードを横目で一瞥した。
磨き上げられた黄金の縁取りが、薄暗い工房の灯りを受けて鈍く輝く。
「ふん」
親方は鼻を大きく鳴らし、手ぬぐいを肩に放り投げた。
「ただの金ピカの板切れじゃねえか。ギルドの役人共が配る安っぽいメダルと同じだ」
「まあな。俺にとっても、ただのプラスチックと大して変わらないよ」
「だったらなんで持ってきた。自慢話をしに来たんなら、その板切れごと焼き鈍して鉄屑にしてやるぞ」
口の悪さは相変わらずだが、親方の口元がわずかに緩んでいるのを俺は見逃さなかった。
俺は小さく息を漏らし、作業台に手を置いた。
「親方が天鷲を完璧に仕上げてくれたおかげで、深層の変異種も刃こぼれ一つなく解体できた。その報告だよ。親方の鍛った刃がなきゃ、こんな板切れは手に入らなかった」
「当たり前だ馬鹿野郎。俺が打った得物が、どこの馬骨か知れねえ魔獣の骨ごときに負けるわけがねえだろうが」
親方は吐き捨てるように言うと、背を向けて炉の脇の棚をごそごそと漁り始めた。
そして戻ってきたその手には、竹の皮で何重にもきっちりと包まれた、ずっしりとした重みのありそうな塊が握られていた。
「ほらよ。持って行け」
親方は無造作に、その包みを俺の胸元へ押し付けてきた。
受け止めると、ずしりとした確かな重みと、冷たい温度が掌に伝わってくる。
「親方、これは?」
「馴染みの精肉問屋に、今朝届いた最高級の和牛だ。特別区の契約農家が育てた極上の霜降り肉よ。スジも俺の手で全部引いてある」
「こんな上等な肉、いいのかよ」
「小僧に食わせるためじゃねえ。鈴に食わせてやれって言ってるんだ」
親方は腕を組み、そっぽを向きながらぶっきらぼうに言った。
「その板切れのせいで、これから変な連中が寄りついてくるかもしれねえ。だがな、刃の筋が曇ったら終わりだぞ。家に帰って、娘と美味いもん食って、しっかり腹を満たしておけ」
無骨で、不器用な職人の餞別だった。
下請け時代からずっと俺の無茶な要望に応え、道具を直し続けてくれた親方なりの祝福の形だ。
俺は竹皮の包みを両手でしっかりと抱え直した。
「ありがとう、親方。今夜、極上のすき焼き風煮込みにして鈴に食わせるよ」
「おう。調子に乗って刃の手入れを一日でも怠ってみろ、承知しねえぞ」
「分かってるよ。また点検に来る」
背後から響く親方の荒々しい鼻息を聞きながら、俺は工房を後にした。
胸ポケットの金縁カードよりも、手の中にある竹皮の包みの方が、遥かに温かく、誇らしかった。
スーパーに寄り、新鮮な焼き豆腐と長ネギ、大ぶりの椎茸と白滝を買い込む。
時計を見れば、16時50分。
俺は歩く速度を速め、茜色に染まり始めた歩道を真っ直ぐに進んだ。
16時57分。認可保育所の前に到着する。
ガラス越しに見えるプレイルームでは、先生たちがお迎えの準備を整えていた。
17時ちょうど。
カチャリと玄関の鍵が開き、ガラスの引き戸が滑らかに開いた。
「すずちゃん、お父さんですよ」
先生の優しい呼びかけに続いて、部屋の奥から小さな足音がパタパタと響いてくる。
通園リュックに結ばれた真鍮の鈴が、ちりん、ちりんと涼やかで澄んだ音を歌うように奏でた。
「ぱぱ!」
黄色いスモックを着た鈴が、満面の笑顔で玄関へ飛び出してきた。
俺はその場に膝をつき、両腕を大きく広げた。
突進してきた小さな体が、胸元へ飛び込んでくる。
柔らかな髪の匂いと、日なたの匂い。
温かい小さな手のひらが、俺の首元にぎゅっと抱きついた。
「ぱぱー!」
「お待たせ、鈴。いい子にしてたか」
「あい!」
鈴は大きく頷き、顔を上げて俺の頬に自分のふっくらとした頬をすり寄せた。
迷宮の冷たい魔素も、世間の喧騒も、この温もりの中ではすべて消え去っていく。
「先生、今日もありがとうございました」
「いえいえ、鈴ちゃん、今日もお友達と仲良く積み木で遊んでいましたよ。お父さん、いつもお時間ぴったりですね」
「ええ、定時退勤が俺の仕事ですから」
先生と軽く言葉を交わし、鈴の手を引いて保育所を出た。
夕暮れの空は、見事な茜色に染まっていた。
鈴は小さな歩幅でぽてぽてと歩きながら、繋いだ手を前後に大きく揺らした。
「ちりん!」
リュックの鈴が鳴るたびに、鈴は嬉しそうに声を弾ませる。
「ちりん! ぱぱ! ちりん!」
「ああ、いい音だな」
「ん!」
小さな足音と、澄んだ真鍮の音。
タワマンへと続く並木道を、二人でゆっくりと歩いていく。
急ぐ必要は何もない。俺たちの時間は、確かにここにあった。
特区タワマン401号室。
帰宅して鈴の手足を綺麗に洗い、お気に入りの部屋着に着替えさせる。
鈴はリビングのマットの上で、葵にもらったおしゃべりスワローをぽんと押し、『ピヨピヨ!』という音に合わせて手を叩いて喜んでいた。
俺は台所に立ち、親方からもらった竹皮の包みを慎重に開いた。
現れたのは、見事な真紅の赤身に、細やかな白いサシが芸術品のように走る和牛だった。
脂の融点が低く、常温の空気に触れただけで表面が艶やかに潤んでいる。
「よし、最高の夕飯にするか」
厚手の鉄鍋に牛脂を引き、微細魔力循環で熱の波長を均一に整える。
肉の表面だけを一瞬で焼き固めて旨味を閉じ込め、出汁と醤油、みりんの特製割り下を注ぎ入れた。
ジュワッ、と香ばしい湯気が立ち上る。
ざく切りの長ネギ、椎茸、焼き豆腐を並べて弱火で煮含めると、肉は箸で触れただけでほろりと崩れる極限の仕上がりになった。
「鈴、ご飯ができたぞ」
器に炊きたての白いご飯を盛り、その上にトロトロに煮上がった和牛と長ネギ、タレの染みた焼き豆腐を乗せる。
子供用の小さな木椀に、一口大にほぐした肉とご飯をよそった。
鈴を子供用のハイチェアに座らせると、鈴は鼻をくんくんと鳴らし、両手をテーブルに乗せて身を乗り出した。
「ん! んー!」
「熱いから気をつけてな。はい、スプーン」
銀のスプーンを手渡すと、鈴は小さな指でしっかりと握りしめた。
そして、甘辛いタレをまとった和牛のひとかけらを、スプーンですくって大きなお口へ運ぶ。
「あむ!」
ぱくりと頬張った瞬間、鈴の動きがピタリと止まった。
小さな口をもぐもぐと動かす。
柔らかくとろける和牛の旨味が舌の上に広がったのだろう。
鈴のふっくらとした両頬がみるみるうちに赤く染まり、口元がとろけるように緩んだ。
「んんーっ!」
足をバタバタと激しく揺らし、スプーンを持った手を大きく振り上げる。
「おいし!」
全身で美味しさを表現するように、満面の笑顔が弾けた。
「おいし! ぱぱ、んまー!」
「そうか。美味いか」
「んまー!」
鈴は夢中になってスプーンを動かし、次から次へとご飯とお肉を口へ運んでいく。
お口の周りに茶色いタレをちょこんとつけながら、一生懸命に頬張るその姿に、俺の胸の奥がじんわりと温かくなった。
「ゆっくり食え。おかわりもあるからな」
「あい!」
元気に返事をして、鈴は小さな木椀をあっという間に空っぽにした。
おかわりした豆腐とネギも綺麗に平らげ、麦茶をゴクゴクと飲み干す。
「ぷはっ! ぽんぽん!」
「よく食べたな、偉いぞ」
俺が布巾で口元を拭いてやると、鈴は満足そうに喉を鳴らし、ふにゃりと笑った。
満腹になった鈴を抱き上げ、リビングのソファへ腰を下ろす。
温かい愛娘の体を膝の上に乗せ、背中を優しくトントンと叩いてやる。
ぽかぽかと温まった鈴のまぶたが、次第に重そうに下がってきた。
小さなあくびを一つこぼし、鈴は俺の胸元に顔を埋めた。
「ぱぱぁ」
小さな呟きとともに、すやすやと穏やかな寝息が立ち始める。
ふくふくとした頬が、呼吸に合わせて規則正しく上下していた。
俺はそっと手を伸ばし、作業着のポケットから金縁ライセンスを取り出した。
薄暗いリビングの照明の下、鈍く輝く黄金のカード。
下請けの解体屋として泥をすすり、使い捨てのように扱われていた日々を思い出す。
カードを木箱にしまい、代わりに親方からもらった竹皮の包み紙を丁寧に畳んで引き出しへ収めた。
「おやすみ、鈴」
俺は愛娘の柔らかな黒髪にそっと触れ、小さな頭を優しく撫でた。
静かな部屋に、真鍮の鈴がかすかに揺れて、優しい音を立てていた。
お読みいただきありがとうございます。
ここまでで第14章が区切りとなりました。
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