第106話:譲らない三人と、譲らせない鈴
土曜の昼下がり。
南向きの大きな窓から、柔らかな秋の陽光がリビングの床いっぱいに注いでいた。
特区タワマン401号室の室内には、穏やかな空気が満ちている。
床に敷き詰めた厚手のコルクマットの上で、鈴が木の積み木を小さな手で一つずつ積み上げていた。
「しょっ」
真剣な面持ちで、赤と青の四角いブロックを重ねていく。
三つ目の黄色い三角を乗せた瞬間、指先がわずかに触れて、コトコトと乾いた音を立てて崩れた。
「あっ」
鈴はぽかんと口を開けたが、すぐに両手をパタパタと振って笑い声を上げた。
「きゃっ! にゃーっ!」
「上手に積めたな、鈴」
ソファの端から見守っていた俺が声をかけると、鈴は満面の笑顔でこちらを振り返った。
「ぱぱ!」
「もう一回やってみるか」
「あい!」
元気よく返事をして、鈴はまた小さな手でブロックを拾い集め始める。
平日の迷宮探索のような張り詰めた気配はどこにもない。
ただ愛娘の呼吸と、木の転がる音だけが響く至福の時間だった。
そこへ、玄関の電子チャイムが軽やかなメロディを鳴らした。
「ん?」
誰か来る予定はなかったはずだ。
探索者協会の配達か、それともお隣の早川さんだろうか。
「だぁれ?」
「ちょっと待っててくれな」
立ち上がり、インターホンのモニターを確認する。
画面には、見知った顔が二人並んで映っていた。
大きな紙袋を大事そうに抱えた神崎葵と、銀色の保冷バッグを胸元に抱きしめた如月雫だ。
二人はカメラの前でわずかに視線を交わし、何やら静かに火花を散らしているように見える。
俺はドアのロックを解除し、玄関を開けた。
「こんにちは、間宮さん!」
「先生、突然お邪魔して申し訳ありません」
葵が快活に声を張り上げ、隣で雫が丁寧にお辞儀をする。
「葵に、雫。どうしたんだ二人とも。珍しい組み合わせだな」
「ギルドの本部経由で耳に入ったんですよ! 先日の第33層パトロールで、小野寺査察官が現場でAランク特例推薦書を殴り書きしたって!」
「アカデミーの観測課にも連絡が入りました。正式な授与式は月曜ですが、事実上の昇格内定とお聞きして、居ても立ってもいられず、お祝いに駆けつけました」
二人が同時に紙袋と保冷バッグをわずかに持ち上げた。
俺は頭を掻きながら、小さく苦笑いを漏らす。
「まだ内定の段階だし、大げさに祝うようなことでもないんだが、まあ、上がってくれ。立ち話もなんだ」
「お邪魔します!」
「失礼いたします」
二人が靴を揃えて廊下に上がり、リビングへ足を踏み入れた。
コルクマットの上にちょこんと座っていた鈴が、見知った二人の姿を見上げて首を傾げた。
首筋に結んだ小さな真鍮の鈴が、ちりん、と涼やかな音を立てる。
「あ!」
「鈴ちゃん、こんにちは!」
「こんにちは、鈴ちゃん。元気にしていましたか?」
葵と雫の顔つきが、仕事モードから一瞬で蕩けるような笑みへと切り替わる。
二人は床に膝をつき、鈴の視線の高さまで腰を落とした。
「あおい! しずく!」
鈴が小さな指を差して、名前を口にする。
その瞬間、葵と雫の背筋がピシッと伸びた。
「ふふ、覚えててくれたんですね。さあ鈴ちゃん、今日は間宮さんの昇格祝い、いえ、鈴ちゃんに喜んでもらうために、とっておきのプレゼントを持ってきたんですよ」
葵が抱えていたアルス社のロゴ入り紙袋から、鮮やかな化粧箱を取り出した。
「神崎さん、抜け駆けはいけません。お祝いの品なら、私の方こそ自信があります」
雫も負けじと、銀色の保冷バッグのファスナーを滑らかに引き開けた。
俺はキッチンカウンターに寄りかかりながら、二人の様子を眺めた。
どうやら俺への昇格祝いというのは建前で、本命は鈴にどれだけ喜ばれるかの勝負らしい。
「まずは私から! 見てください鈴ちゃん、アルス社の技術の粋を集めた最新試作品、『魔導知育玩具・おしゃべりスワロー』です!」
箱から現れたのは、手のひらサイズの丸っこい青い小鳥のマスコットだった。
葵が指先で胸元をぽんと押すと、翼の先端が七色にぽっと灯り、澄んだオルゴールのような音とともに歌い出す。
『ピヨピヨ! こんにちは、すずちゃん! きょうもいっしょにあそぼうね!』
「わぁ、っ!」
鈴の小さな口が丸く開き、両手が小さく跳ね上がった。
「ふふん、魔導センサー内蔵で鈴ちゃんの声に反応して歌を変えるんです。お口に入れても完全に無害なコーティングですよ!」
葵が得意げに胸を張り、小鳥を鈴の前に差し出す。
しかし、そこで雫が静かに割って入った。
「素晴らしい玩具ですが、子供の心を真に満たすのは、五感で味わう本物の味覚です」
雫が保冷バッグから取り出したのは、結露の膜をまとった重厚な陶器の小瓶だった。
蓋を外すと、淡い黄金色に輝くプリンが現れ、バニラの甘い香りがふわりとリビングへ広がる。
「特別保護区の牧場から届いた素材で作った、私の微細冷却魔法で芯まで完璧な四度に保たれた『極上とろけるカスタードプリン』です。ひとくち、食べてみませんか?」
葵と雫の熱い視線が、中央に座る鈴へと注がれた。
「さあ鈴ちゃん、この鳥さんと一緒に歌いましょう!」
「鈴ちゃん、まずはこちらのスプーンをどうぞ!」
二人の真剣なアピール合戦に、鈴は小鳥とプリンの小瓶を交互に見つめた。
小さな首を右へ傾げ、左へ傾げる。
葵が息を呑み、雫の指先がかすかに強張る。
どちらを選ぶのか。最新魔導エンジニアの誇りか、天才魔導師の精密冷却か。
やがて、鈴は小さな両手をいっぱいに広げた。
そして、次の瞬間だった。
右腕でふかふかの青い小鳥をぎゅっと抱きしめ、左手でプリンの小瓶の底をしっかりと抱え込んだ。
「あ」
「え?」
葵と雫が同時に声を漏らす。
鈴は二つの宝物を胸元にしっかり抱きかかえたまま、よいしょ、と力強く立ち上がった。
真鍮の鈴が、ちりん、ちりんと元気に鳴り響く。
小さな足でコルクマットをぽてぽてと踏みしめ、鈴が一直線に向かった先は、
キッチンカウンターの前で腕を組んでいた、俺の足元だった。
「ぱぱ!」
鈴は俺の膝にしがみつき、満面の笑みで胸元の獲物を掲げて見せた。
「これ! みて!」
右手の小鳥をパタパタと揺らし、左手のプリンを誇らしげに突き出してくる。
「ぱぱ! とり! ぷりん!」
小さな胸をいっぱいに張って、自慢げに声を弾ませる鈴。
その頭を、俺は思わず大きな手でぽんぽんと撫でた。
「そうか。どっちももらえてよかったな、鈴」
「あい!」
鈴は満足そうに頷き、俺の足に頬をすり寄せた。
ふと視線を床へ戻すと、葵と雫が正座したまま、がっくりと両手を床について項垂れていた。
「間宮さんに、」
「先生に、全部持っていかれました」
二人の声が綺麗に重なり、リビングに乾いた風が吹き抜ける。
「いや、二人ともいい顔をしてくれ。鈴は大喜びしてるぞ」
「うう、喜んでくれたのは嬉しいんですけど、まさか両方抱えて間宮さんのところへ直行するとは」
「どちらが選ばれるかという私の前提条件そのものが、完全に破綻していました。鈴ちゃんの愛着対象の絶対値、恐るべしです」
葵が額を押さえ、雫が深々とため息をつく。
二人のあまりに真剣な落ち込みように、俺は吹き出しそうになるのを堪えるのが大変だった。
その時、再び玄関のチャイムが鳴った。
今度は電子音に続いて、外から元気な子供たちの声と、ドンドンとドアを叩く音が響いてくる。
「すずちゃーん! あそぼー!」
「めいもきたよー!」
お隣の陽菜と芽依の声だ。
続けて、早川志保の明るい声が廊下越しに届いた。
「間宮さーん! 廊下に楽しそうな声が響いてたから来ちゃった! リンゴのタルトが焼き上がったんだけど、お邪魔していいかしら!」
俺は玄関を開け放った。
「早川さん。ちょうどよかった、今お茶にしようと思ってたところです」
「あら、いらっしゃい! って、神崎さんに如月さんじゃない! どうしたの二人とも、床に倒れ込んで!」
玄関先に立った志保が、焼きたてのタルトが乗った大皿を片手に、リビングの光景を見て驚いて口を開けた。
後ろから飛び込んできた陽菜と芽依が、鈴の元へ駆け寄る。
「すずちゃん! それなあに!」
「あおいとりさん! かわいい!」
双子の姉妹が小鳥のマスコットに飛びつくと、鈴は得意げに胸を張った。
「とり! ぴよぴよ!」
「えーっ! しゃべるの!? すごい!」
「陽菜ちゃん、芽依ちゃん、ここを押すと歌うのよ!」
床に沈んでいた葵が、子供たちの歓声を聞くや否や、素早く立ち上がって営業モードに復帰した。
三人娘とおしゃべりスワローを取り囲み、リビングの真ん中で賑やかな歌声が響き始める。
「じゃあ、私はプリンの準備をしますね。人数分の小皿をお借りしてもよろしいですか、先生」
雫も立ち直り、袖をまくって台所へ向かった。
「ああ、食器棚の上段にある。紅茶は俺が淹れるよ」
「まあまあ、それじゃ私はタルトを切り分けるわね! 今日は賑やかで楽しいわ!」
志保がエプロン姿で手際よくタルトを八等分に切り分けていく。
香ばしいバターと焼きリンゴの甘い香りが、湯気とともに広がった。
俺はポットに湯を沸かし、茶葉の香りを引き出しながら紅茶を蒸らした。
子供たちには、薄めたリンゴの果汁を小さなマグカップに注ぐ。
リビングのローテーブルを囲むように、みんなで腰を下ろした。
「さあ、おやつの時間ですよ」
雫が丁寧に盛り付けたプリンと、志保の黄金色のタルトがテーブルいっぱいに並ぶ。
鈴は子供用の椅子にちょこんと座り、小さな両手で銀のスプーンをしっかりと握りしめた。
目の前には、つややかに輝くカスタードプリンの小皿がある。
「すずちゃん、あーんして!」
陽菜が見守る中、鈴はスプーンでプリンをすくい、大きなお口でぱくりと頬張った。
もぐもぐと顎を動かした瞬間、ふっくらとした頬がパッと赤みを帯び、足をバタバタと弾ませる。
「おいし!」
「お口に合いましたか、鈴ちゃん」
「んまー!」
雫の表情が一気にほころぶ。
芽依がおしゃべりスワローの嘴にタルトを近づけると、小鳥が『ピヨピヨ! おいしいね!』と返事をし、子供たちの笑い声が部屋いっぱいに跳ね回った。
「それにしても間宮さん、Aランク内定、本当におめでとうございます」
紅茶のカップを手にした葵が、改めて柔らかな笑みを向けた。
「ギルド中が大騒ぎですよ。下請け解体屋から一気にAランクまで駆け上がった前例なんて、ここ数十年ないんですから」
「アカデミーでも、先生の魔力制御技術を論文にしたいという教授が何人も出ています。もちろん、先生の生活を乱すような取材は、私と神崎さんで全部ブロックしておきましたけれど」
「助かるよ、二人とも。俺はただ、鈴との生活を静かに守れればそれでいいんだ」
俺がそう言うと、隣でタルトを頬張っていた志保が、うんうんと深く頷いた。
「間宮さんは昔からそうよね。強くなっても、肩書きが増えても、頭の中は鈴ちゃんのことばっかり。でも、それが一番安心できるわ」
「ぱぱ!」
自分の名前を聞き取ったのか、口の周りに黄色いカスタードをちょこんとつけた鈴が、満面の笑みでこちらを見上げて呼んだ。
「なんだ、鈴」
「おいし!」
空っぽになった小皿を指差して、満足そうに喉を鳴らす。
「そうか。よかったな」
俺は布巾を手に取り、鈴の口元のクリームを優しく拭き取った。
鈴はくすぐったそうに身をよじり、えへへと無邪気に笑う。
窓の外には、どこまでも広がる秋の青空が続いていた。




