第105話:現場の絶句と、秒速のサイン
月曜の朝8時。
週明けの澄んだ秋空の下、認可保育所の玄関前で、小さな真鍮の鈴がちりんと鳴った。
「ぱぱ、ばいばーい!」
黄色い通園リュックを背負った鈴が、小さな手を力いっぱいに振る。
保育士の先生に手を引かれながら、何度も振り返っては嬉しそうに足を跳ねさせていた。
「しっかり遊んでくるんだぞ。夕方5時には迎えに来るからな」
俺が手を振り返すと、鈴は「あい!」と元気よく返事をしてプレイルームへ駆けていった。
リュックの鈴が、ちりん、ちりんと遠ざかる音を聞き届け、俺は駅へ向けて歩き出した。
*
午前9時半。
第7区の『緊急保守用連絡シャフト』地上ターミナル。
本日の任務は、一昨日の土曜に俺たちがルートを開拓した第33層『古代連絡シャフト』基部までの安全確認パトロールだった。
ギルド本部による正式なルート認可を出すため、本部の安全査察官と都市防衛軍の監視小隊が現場点検へ同行することになっていた。
俺はギルドからの公務護衛枠として参加している。日当15万円。17時までに確実に帰れる好条件の依頼だった。
「君が本日の民間護衛枠かね? 間宮凌、登録ランクは、Bランクか」
仕立てのいい防護スーツを着た男が、電子端末の画面から顔を上げて俺を見た。
ギルド本部から派遣されてきた上級査察官の小野寺だった。
その背後には、最新型の魔導アサルトライフルと複合装甲で身を固めた都市防衛軍の監視小隊6名が整列している。
「あの未踏領域の点検に、護衛がBランク一人とはな。ギルドもずいぶんと予算を出し渋ったものだ」
小野寺査察官が露骨に失望の息を吐いた。
防衛軍の小隊長である三条准尉も、無骨なタクティカルスーツ姿の俺を一瞥して口元を歪める。
「民間人の護衛など最初から不要だ。足を引っ張らないよう後ろについて歩いていろ」
「了解です。予定通り15時半の回収便には戻れるよう進行をお願いします」
俺が淡々と頭を下げると、二人は鼻を鳴らし、昇降ケージへと乗り込んだ。
余計なプライドなどない。定刻通りに仕事が終わり、鈴の迎えに間に合いさえすれば文句はなかった。
ケージは油圧の唸りとともに急速降下を開始した。
第31層、第32層『晶析回廊』を通過し、一昨日切り開いた連絡ルートを経て、深度3,300メートルの第33層基部ゲート前へと降り立つ。
ひんやりとした重苦しい冷気が漂う中、防衛軍の隊員たちがライフルを構えて周囲を警戒した。
小野寺査察官は端末を操作し、古代金属で組まれた巨大な隔壁ゲートの魔素数値を記録していく。
「ふむ、地盤の歪みも魔素濃度も基準値内だ。一昨日の調査報告書通りだな。これなら今週中にも一般開放の認可が下りる」
小野寺が胸を撫で下ろしかけた、その瞬間だった。
ズズズズズッ!
坑道の奥深くから、胃袋の底を直接揺さぶるような不気味な地鳴りが響いた。
青紫色の結晶岩がパラパラと天井から剥がれ落ちる。
「な、なんだ!? 地震か!?」
「全員、散開! 迎撃姿勢を取れ!」
三条准尉が怒声を上げ、隊員たちが一斉に銃口を暗闇の奥へ向けた。
暗黒の裂け目から現れたのは、悪夢のような巨躯だった。
全長約8メートル。
獅子のように頑強な筋肉質の胴体に、太い3本の結晶頭部が異様な角度で蠢いている。
全身をダイヤモンドに匹敵する生体鉱物複合甲殻で覆い、蛇のように長い尾が床の岩盤を軽々と粉砕していた。
深層固有の変異受肉巨獣、『アビス・キメラ』だった。
先のピラー異変の余震によって、深部から押し流されてきたAランク相当の怪獣。
三つの頭部から、鼓膜を裂くような耳障りな咆哮が轟く。
「ギシャァァァァッ!!」
「う、撃てぇぇぇッ!!」
三条准尉の号令とともに、6門の魔導アサルトライフルが一斉に火を噴いた。
青白い魔導弾の弾幕がキメラの全身へ着弾する。
だが、甲高い金属音が連続して響くだけだった。
極厚の鉱物甲殻は、軍用の徹甲弾を飴玉のように弾き返す。かすり傷一つついていない。
「バカな、装甲が厚すぎる! 魔力バリアすら貫通できんぞ!」
「キシャッ!」
キメラが太い前足を横薙ぎに払った。
突風のような衝撃波が吹き荒れ、防衛軍の前衛2名が吹き飛ばされて岩壁へ叩きつけられた。
「ぎゃああっ!?」
「た、退避! 昇降ケージへ戻れ!」
小野寺査察官が腰を抜かし、手にしたタブレットを床へ取り落とした。
だが背後の退路には、キメラの長い蛇尾が激しく叩きつけられ、岩盤を崩して逃げ道を塞いでいた。
「無理です、退路を断たれました!」
「終わりだ! こんなところで、Aランクの化け物に出くわすなんて!」
隊員たちの悲鳴が響き渡る。
キメラの三つの頭部が大きく口を開き、高濃度の魔力ブレスを充填し始めた。
あと数秒で、この一角が青白い高熱の光に包まれて消滅する。
俺は手首の時計に目を落とした。
14時42分。
「おいおい、勘弁してくれよ」
小さく息を吐き出す。
ここで戦闘が長引けば、15時半の最終回収便を逃す。
そうなれば第7区からの地下モノレールに乗り継げず、17時の保育所のお迎えに確実に遅刻する。
「志保さんに、遅れるって連絡も通じねぇんだぞ」
深層の電波遮断下では、遅刻の連絡すらできない。
あいつを、不安な顔で待たせるわけにはいかなかった。
「おい、Bランク! 何をしている、早く逃げろッ!」
三条准尉の叫び声を背に、俺はすでに一歩前へ踏み出していた。
カチリ、と背中のホルダーが外れる。
アキュラ、ハイブリッドモード。
右手に刃渡り115センチの漆黒の長剣『天鷲・壱ノ刃』を引き抜き、頭上へ『弐ノ刃』を射出。
左右の腰から、マットブラックの小型ビット『レイヴン』2機が音もなく解き放たれる。
シュンッ!
空気を切り裂く微細な風切り音。
レイヴン2機が超音速で飛翔し、ブレスを放とうとしていたキメラの三つの顔面へ肉薄した。
ピピピピピッ!
高周波ニードル徹甲弾が、三対の複眼へ寸分の狂いもなく撃ち込まれる。
視界を奪われたキメラが苦悶の咆哮を上げ、ブレスの術式が口内で霧散した。
「ギシャァッ!?」
狂乱した巨獣が、盲滅法に太い鉤爪を振り下ろす。
だが俺は予備動作の一切ない歩法で、その爪先がかすめるコンマ2ミリの外側を滑るようにすり抜けていた。
下請け解体屋時代から叩き込んできた、相手の重心と刃筋を見切る職人の知覚。
宙に浮いたキメラの右前脚の付け根。装甲と装甲の継ぎ目、わずか1センチの隙間。
シュバッ!
右手の天鷲・壱ノ刃を、その隙間へ滑り込ませた。
変換効率92パーセント。
実効出力258の濃密な魔力循環が、超高周波の微細熱振動となって刀身へ迸る。
ギチリ、と硬質な音が鳴り、太い前脚の腱が抵抗ゼロで断ち切られた。
「グガッ!?」
支えを失った巨躯が前のめりに崩れ落ちる。
その頭上から、旋回していた天鷲・弐ノ刃が音もなく急降下した。
ズバッ、ズババッ!
二重螺旋励起の青白い刃が、三本の首の根元を撫でるように交差する。
太い動脈と神経束が瞬時に両断され、三つの頭部が力なく床へ落ちた。
だが、まだ中枢核が残っている。
受肉種の心臓部、胸甲の最奥。
俺は床を蹴り、無防備になったキメラの背中へ駆け上がった。
首を落とされてもなお痙攣する巨体の背甲スリットへ、右手の壱ノ刃を逆手に構えて深々と突き立てる。
カラン、と頭上の弐ノ刃が反転し、壱ノ刃の柄頭へ音速で突入した。
追突質量加速。
ドォォォンッ!
凄まじい衝撃波とともに、刀身が鉱物装甲の最深部まで貫通した。
超音波微細熱振動が内部の受肉核を一撃で両断する。
巨獣の全身から力が抜け、ドスンと重い地響きを立てて床へ沈黙した。
青白い魔素の粒子が鉱物甲殻から抜け落ち、巨体は完全に生命活動を停止した。
所要時間、28秒。
回廊を包み込んだのは、張り詰めたような絶対の静寂だった。
天鷲を引き抜き、刃先の油膜を布で拭いながら、俺は鞘へカチリと納めた。
返り血は一滴もついていない。
呆然と腰を抜かしていた小野寺査察官と、銃を構えたまま固まっていた三条准尉が、信じられないものを見るように俺を見上げていた。
「な、何だ今の。Aランクの変異受肉巨獣を、たった一人で30秒もかからずに!?」
三条准尉の顎がガタガタと震えている。
俺は二人の前へ歩み寄り、落としたタブレットを拾って差し出した。画面にはヒビ一つ入っていない。
「怪我はないですか。点検のノルマは達成しましたよね。じゃあこの護衛日報にサインを。お迎えがあるんで急いでるんです」
「お、お迎え!? 君、今、自分が何を仕留めたのか分かっているのかね!?」
「分かってますよ。受肉種なんで素材は軍で回収してください。俺が欲しいのは日当の受領サインだけです」
時計を見せると、小野寺と三条准尉が顔を見合わせ、凄まじい絶叫を上げた。
「書類の詐欺だぁぁぁぁっ!! こんな化け物を包丁さばきで片付ける男を、Bランクに据え置いている方がギルドの怠慢だ!!」
小野寺は鬼のような形相でタブレットを奪い取ると、ギルド本部直通の特例審査フォームを開き、猛烈な勢いで画面を叩き始めた。
「上級査察官特命推薦! 全会一致での即時Aランク昇格具申! 文句のある奴は現場を見に来い馬鹿野郎ッ!!」
「防衛軍第3師団監視小隊としても、全力でこの推薦を連名支持する! 間宮殿、無礼な口を利いて本当に申し訳なかった!」
隊員全員が直立不動で敬礼してくる。
俺は頭を掻きながら、呆れ顔でため息を吐いた。
「いや、だからサインだけでいいって言ったのにな」
*
夕方16時20分。
地上へ戻った俺は、認可保育所へ向かう前に第7区のギルド出張所の窓口へ立ち寄った。
カウンターの奥で、長谷川さんが眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、必死に笑いを噛み殺していた。
「間宮さん、お疲れ様です。本部の安全対策課から、怒号のような特例推薦書が届きましたよ」
提示された端末には、小野寺の悲鳴のような推薦文がびっしりと書き込まれた『上級査察官および防衛軍合同によるAランク特例昇格申請書』が表示されていた。
「勘弁してくれよ。Aランクなんて肩書きがついたら、遠征だの公務だので面倒な義務が増えるだろ。俺はBランクのままでいいんだよ」
俺が本気で嫌そうな顔をすると、長谷川さんはクスクスと笑いながら申請用紙を裏返した。
「ご安心ください。Aランクは法規により出撃・任務の完全任意選択権が与えられます。強制公務出動ノルマも一切免除、指名依頼すら正当な理由なく断れる特権階級ですよ」
「マジか」
「はい。5時のお迎えに間に合わせる定時退勤の自由が、今よりさらに広がります」
「なら受けるか」
俺は即座にペンを走らせ、申請用紙の承諾欄にサインした。
長谷川さんが吹き出しそうになるのを手で押さえ、書類を受領する。
「秒速のサイン、ありがとうございます。本部の緊急審査を通し、数日中には新しい金縁ライセンスが発行される手はずを整えておきますね」
「よろしく頼む。じゃ、お迎えに行ってくる」
俺は軽く手を挙げ、足早に出張所を後にした。
*
16時57分。
茜色に染まる特区の歩道を駆け抜け、認可保育所の玄関ドアを開ける。
「すずちゃん、パパのお迎えですよ」
先生の声と同時に、プレイルームの奥から黄色いスモック姿の鈴が駆け出してきた。
通園リュックの真鍮の鈴が、ちりん、ちりんと軽やかに鳴る。
「ぱぱ!」
勢いよく飛びついてきた小さな体を、俺はしっかりと両腕で受け止めた。
ふくふくとした温かい頬が、俺の首筋にすり寄せられる。
「ぱぱー!」
「お待たせ、鈴。いい子にしてたか」
「あい!」
鈴は嬉しそうに頷き、小さな手で俺の服をぎゅっと握りしめた。
帰り道、スーパーで買ってきた新鮮な鶏肉と甘い新玉ねぎを使い、特製のとろとろ親子丼を作った。
微細魔力循環で熱を通し、卵をふわふわの半熟に仕上げる。
「はい、できたぞ」
器を置くと、鈴は銀のスプーンを両手で握り、大きなお口で一口頬張った。
「あむ!」
もぐもぐと咀嚼し、口角をいっぱいに緩めて足をバタバタと弾ませる。
「わぁい! もぐっ!」
「おかわりもあるからな」
笑顔でスプーンを進める愛娘を前に、俺も丼を口へ運んだ。
夕暮れの部屋に、澄んだ鈴の音が優しく響いていた。




