第103話:広がる回廊と、新参の脅威
朝7時。
東向きの窓から柔らかい朝日が差し込むリビングで、小さな木製スプーンがコトコトと音を立てていた。
「あい、あむー」
子ども用のハイチェアに座った鈴が、自分でお皿のパン粥をひと匙すくい、小さなお口へ運ぶ。
トーストした食パンの耳を落とし、牛乳と少量の野菜スープで柔らかく煮込んだ朝の離乳食。
口いっぱいに頬張ると、鈴はふくふくとした頬を緩ませ、嬉しそうに足をパタパタと揺らした。
「んま!」
「しっかり食えよ。今日も一日、保育所で元気に遊ぶんだぞ」
俺が声をかけながら口元のミルクをガーゼで拭うと、鈴は満面の笑顔で頷いた。
黄色い通園リュックのファスナーには、先週末に結びつけた母の形見、小さな真鍮の鈴が揺れている。
鈴が体を揺らすたび、ちりん、ちりんと控えめで澄んだ金属音がリビングに響いた。
8時半。
認可保育所の玄関で鈴を抱き上げ、先生に引き渡す。
「ぱぱ、ばいばーい!」
鈴が小さな手を一生懸命に振る。
俺も手を振り返し、愛娘の後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、背筋を伸ばして踵を返した。
*
午前9時半。
第7区の旧工業用地に新設された『緊急保守用連絡シャフト』は、数週間ぶりに本来の熱気を取り戻していた。
第1区正規ゲートのコンクリート圧入封鎖は維持されたままだが、先日の初動調査を経て、この第7区暫定ゲートから限定的な試験再開が始まっていた。
開放されたのは、ギルド本部による厳格な審査を通過したBランク以上の探索者のみ。
それも1日の降下本数は午前と午後の定刻便に限られ、完全なタイムスロット制による人数制限が敷かれている。
厚い鋼鉄ハッチが並ぶロビーには、厳しい抽選枠を勝ち取ったベテラン探索者たちが集まり、真新しい運行モニターを見上げながら作戦を練っていた。
「おい、見ろよ。解体屋の旦那だ」
「先陣部隊で降りて、安全確認を通してくれた特級適合者だろ」
「ギルドから直々の先行安全パトロール枠で潜るらしいぜ」
すれ違う探索者たちから、好奇と敬意の入り混じった視線が向けられる。
俺は作業服の上からベルトを締め直し、長谷川さんから支給された先行パトロール用の電子キーを認証盤にかざした。
有名になりたいわけでも、手柄を立てたいわけでもない。
朝の指定便で降りて現場の安全を確認し、夕方の最終回収便で地上へ戻って17時にお迎えに行くだけだ。
ゲートが開き、六角形の昇降ケージへ乗り込む。
油圧の唸りとともにケージが急降下を開始し、10分ほどで深度3,000メートルの深層第31層『黒鉄の回廊』へ到着した。
扉が開くと、ひんやりとした過酷な深層の冷気が肌を刺す。
だが、あの大崩落の直前のような、息の詰まる過剰魔素の重圧はもうない。
ピラー深部の循環は穏やかに保たれていた。
俺は双対長剣『天鷲』の留め具を確かめ、先行部隊の足跡を追って第32層への連絡通路へと足を踏み入れた。
*
第32層『晶析回廊』。
天井や壁一面に、青紫色の魔導結晶が鍾乳石のように群生する静寂の空間。
だがその静けさを引き裂くように、前方の大空洞から激しい銃声と金属の衝突音が響いてきた。
「クソッ、弾が曲がる! 当たらねぇぞ!」
「下がれ! 障壁が割られるぞ!」
曲がり角を抜けると、Bランクの若手4人パーティが背中を預け合って防戦していた。
前衛の重装甲兵が構えるシールドに、鋭利な衝撃波が甲高い火花を散らしている。
彼らを囲んでいたのは、空中にゆらめく3体の幾何学的な結晶体だった。
それは『アストラル・ラーカー』と呼ばれる迷宮種だった。
深層特有の、純粋な魔素結晶で構成された伏兵。
体表に幾何学模様の位相歪曲力場を展開し、飛来する銃弾や魔導弾を空間ごと屈折させて無力化していた。
長期の封鎖によって、深部から境界セクターまで這い上がってきた新参の脅威だった。
「ひ、引き撃ちで後退するぞ!」
「無理だ、回り込まれた!」
ラーカーの1体が重力を無視して滑るように急降下し、高周波の光の刃を伸ばして前衛の首筋へ迫る。
シールドの死角。あとコンマ数秒で首が刎ねられる。
シュンッ!
空気を切り裂く鋭い風切り音が響いた。
俺の左右の腰から射出されたビット『レイヴン』2機が、音もなくラーカーの軌道上へ割り込む。
「な、なんだ!?」
前衛の探索者が息を呑む間もなく、レイヴンの刃先が超高周波で微細振動を開始した。
無敵に見える位相歪曲力場だが、波長が切り替わる極小の継ぎ目が必ず存在する。
日頃から何千頭もの魔獣の関節を探り当ててきた解体屋の知覚が、その0.1ミリの歪みを瞬時に捉えた。
カチリ、と空間が軋む音が鳴る。
レイヴンの刃先が力場の継ぎ目を正確に穿ち、ラーカーの守る位相バリアがガラス細工のようにパリンと弾け散った。
「ギチッ!?」
守りを奪われた結晶体が驚愕に身を震わせた、その瞬間。
俺は地を蹴り、無駄な予備動作を一切削ぎ落とした最短の歩幅で肉薄していた。
シュバッ!
背中から抜いた天鷲の壱ノ刃が、すれ違いざまに真横一文字の青白い軌跡を描いた。
刃先の熱伝導率は90パーセント超。
先日の再測定で実証された淀みのない魔力循環が、一切の抵抗なく結晶体の中心核をミリ単位の狂いもなく真っ二つに両断する。
ズバッ、ズババッ!
流れるような身ごなしのまま、頭上を旋回した弐ノ刃が残り2体の核を上空から急降下して一撃で串刺しにした。
わずか3秒。
3頭のラーカーは断末魔を上げる暇もなく青い光の粒子となって霧散し、床には親指大の超高純度魔核が3つ、カランと音を立てて転がった。
静寂が回廊を包み込む。
助けられた探索者たちは、構えたライフルを下ろすことも忘れ、口を半開きにしたまま立ち尽くしていた。
「お、おい、今の何秒だ」
「深層の変異種を、たった一人で、仕込み刀一本で捌きやがったぞ」
俺は天鷲を鞘に納め、床に落ちた魔核をしゃがんで拾い上げた。
深層の純魔素結晶。小粒だがギルドで数十万円にはなる上物だ。
腰のポーチへ手早く収め、呆然としている若手たちへ視線を向けた。
「足元、青い結晶の破片で滑りやすくなってるから気をつけてな。無理して深入りしない方がいい」
「あ、はい! あ、ありがとうございました!」
慌てて頭を下げる彼らを背に、俺は手首の時計へ目を落とした。
15時45分。
「やべぇな。最終回収便まであと20分しかねぇ」
限定試験運用の現在、夕方16時05分の第31層最終回収ケージを逃せば、シャフトは安全確保のため地上と深層の双方向で完全閉鎖される。
それに乗り遅れれば、第2区の認可保育所へ戻るための直通快速モノレールにも間に合わなくなる。
余計な狩りをする暇はない。
俺は即座に踵を返し、昇降ケージのプラットフォームへ向けて連絡通路を全力で走り出した。
*
16時02分。
息を切らしながら第31層のプラットフォームへ滑り込み、六角形の昇降ケージに乗り込んだ。
重厚なハッチが密閉され、油圧の唸りとともに深度3,000メートルからの急速上昇が始まる。
16時12分に第7区の地上ゲートへ到着し、減圧室を経て出域手続きを完了。
窓口で魔核を手早く納品し、コインロッカーへ装備を放り込んだのが16時20分。
第7区ターミナルから第2区直通の地下高速モノレールに飛び乗り、車内で激しく揺られながら時計を睨みつけた。
第2区駅へ到着したのが16時50分。
改札を抜けて地上へ駆け上がり、茜色に染まる特区の歩道を脇目も振らず疾走する。
16時58分。
認可保育所の玄関ドアを開けると、ちょうど片付けを終えた先生が笑顔で出迎えてくれた。
「すずちゃん、パパのお迎えですよ」
「ぱぱ!」
奥のプレイルームから、黄色いスモックを着た鈴が満面の笑顔で駆け出してきた。
短い両足を一生懸命に動かし、俺の膝へ勢いよく飛びついてくる。
「ぱぱー!」
「お待たせ、鈴。いい子にしてたか」
抱き上げると、鈴はふくふくとした温かい頬を俺の首筋にすり寄せ、小さな両手でぎゅっと抱きついてきた。
通園リュックの真鍮の鈴が、ちりん、ちりんと心地よい音を立てる。
繋いだ手のひらから伝わってくる確かな命の重み。
この温もりを抱きしめるためなら、深層の冷気も、魔獣の刃も、何一つ苦にはならない。
帰り道、駅前のスーパーで新鮮な秋鮭の切り身とシメジを一パック買い、特区タワマンの部屋へ戻った。
手洗いうがいを済ませた鈴をリビングのラグに座らせ、お気に入りのおもちゃを持たせてからキッチンへ立つ。
アルミホイルを広げ、薄く油を引いた上に秋鮭を置く。
石づきを落として小房に分けたシメジを添え、少量の醤油とバターを一欠片。
ホイルの端をきっちりと折り込んで包み込む。
フライパンの火にかける代わりに、俺は両手でホイルを包み込み、指先から微細な魔力熱を通した。
解体で培った熱伝導制御。
外側を焦がすことなく、食材の内部へ均一に熱を浸透させていく。
数分後、ホイルの中でプシューと蒸気が立ち上り、ふくよかなバター醤油の香りが広がった。
「よし、できたぞ」
ホイルを開き、ふっくらと蒸し上がった鮭の身から骨と皮をナイフで丁寧に取り除く。
小さくほぐして鈴の小さなお皿へ盛り付け、スプーンを添えてテーブルへ運んだ。
「お待たせ、鈴。秋鮭のホイル焼きだ」
湯気の立つお皿を鼻先へ近づけると、鈴はすんすんと鼻を鳴らして匂いを確かめた。
「ぱぁ!」
鈴は銀のスプーンを小さな手で握り、鮭とシメジを一口すくってお口へ運んだ。
もぐもぐと口を動かした瞬間、パッと顔を輝かせる。
「あむあむ! きゃっ!」
嬉しそうに足をバタバタと揺らし、満面の笑顔で次の一口を急ぐ。
部屋の温もりの中で、リュックに結ばれた真鍮の鈴が、ちりんと優しく響いた。
愛娘の頭を優しく撫でながら、俺も残りの鮭をひと口、味わうように口へ運んだ。




