第102話:新しいゲートと、次への一歩
月曜の朝。
ギルド本部およびWSO(世界探索者ギルド)から、防壁都市全域に向けて公式な通達が一斉に発信された。
『ダンジョン深層第31層〜第33層:限定試験再開の決定について』
第1区正規ゲートのコンクリート圧入封鎖は維持したまま、第7区に新設された『緊急保守用連絡シャフト』を暫定進入ゲートとして開放する。
対象はBランク以上の実力者、完全許可制、各パーティー最大5名まで。
全面凍結によって干上がりかけていた防壁都市の経済と探索者界隈に、数週間ぶりの熱気が一気に吹き返していた。
午前10時。
第7区の旧工業用地に整備された、真新しい防護ゲートの前に見慣れた顔ぶれが集まっていた。
厚い鋼鉄のヘビーハッチの前には真新しい案内標識と、WSOの監査ブースが設置されている。
「ガハハ! 水没バイパスをコソコソ掘ってた俺たちが、今度はギルド公認の先陣部隊たぁ痛快じゃねえか!」
「全くだぜ。堂々とエレベーターで降りられるってだけで、涙が出そうなくらいありがてぇよ。あの暗闇の水路を何キロも泳ぐのはもう御免だからな」
多機能バックパック『V-RIG』のサブアームをガシャガシャと鳴らす坂東宗一郎に、武田健太が手入れの行き届いたタワーシールドの留め具を締め直しながら応じる。
その隣で、腕にアルス社の通信コンソールを着けた神崎葵が真剣な表情で釘を刺した。
「油断は禁物です。第31層の魔素濃度は安定していますが、封鎖中に浅層や中層から迷い込んだ個体が溜まっている可能性があります。スワローの索敵圏内から決して離れないでください」
「ええ。バイタルおよび魔素テレメトリーのリンクはすべて正常です。先生、いつでも行けます」
如月雫がタブレットから顔を上げ、俺に頷いた。
腕組みをして立っていた一条岳も、無言で拳の手甲を打ち合わせ、静かに気合を入れている。
「よし。初日の仕事は、連絡シャフトから第31層前進セクターまでの安全確認と地盤調査だけだ。派手な狩りをする必要はねぇ。サッと見て、サッと戻るぞ」
「「「了解!」」」
俺の合図とともに、厚さ30センチの鋼鉄ハッチが減圧音を立てて開いた。
新設された六角形の昇降ケージに乗り込み、急速下降を開始する。
滑らかな油圧制御の唸りが響き、足元から伝わる重力がふっと軽くなった。
*
深度3,000メートル。
重厚な金属音が響き、エレベーターの防護扉が左右に開いた。
目の前に広がったのは、深層第31層『黒鉄の回廊』の最前セクターだった。
かつてあの大崩落が起きる直前に訪れた時のような、息苦しいほどの過剰魔素の重圧はない。
第35層の大空洞でアビス・カルキノスを両断したあの日以来、ピラーの深部を流れるエネルギーは、驚くほど穏やかな循環を取り戻していた。
「信じられない。背景魔素の揺らぎが、完全に平常運転時の水準に落ち着いています」
雫が端末のサイン波を見つめ、静かに息を漏らした。
その直後、回廊の曲がり角から低い地響きが迫ってきた。
「ギシャァッ!」
封鎖中に湧き出したと思われる体長2メートルの岩殻蜥蜴が3頭、侵入者を察知して飛び出してくる。
タケが大盾を構えようとした、その瞬間だった。
シュンッ!
俺の左右の腰から射出されたビット『レイヴン』2機が、音もなく空を切り裂いた。
不可視の徹甲ニードルが先頭の複眼を正確に撃ち抜く。
同時に、背中から抜いた双対長剣『天鷲』の壱ノ刃が、すれ違いざまに青白い光の弧を描いた。
ズバッ!
抵抗ゼロの超高周波切断が、残る2頭の首関節をミリ単位の狂いもなく同時に両断した。
先日の定期再測定で技官を絶叫させた数値、実効瞬間出力258の魔力循環は、一切の無駄な力みを必要とせず、呼吸をするかのように自然に刃先へと浸透していた。
倒れ伏す蜥蜴の甲殻から、湯気のように薄い燐光が立ち上る。
「うおっ、相変わらず早業だな! 俺の出番がねぇよ!」
タケが盾を下ろして苦笑した。
俺は天鷲を鞘に収め、倒れた蜥蜴から魔石をナイフで手早くくり抜いた。
「無駄な戦闘で時間を食うな。初日のチェック項目をさっさと済ませるぞ」
「はい! 第1セクターの通気ダクト、構造変形なし! 次へ進みます!」
葵がテキパキと指示を出し、坂東がV-RIGのセンサーで岩盤のクラックを計測していく。
危険な深層でありながら、誰一人として浮き足立つことなく、確実に現場を検分していく職人たちの手際。
1時間後。
予定されていた第31層前進セクターの巡回をすべて終え、俺たちは再び昇降ケージへと乗り込んだ。
「全セクター、異常なし。これなら来週から、一般のBランク探索者の受け入れを段階的に拡大できますね」
地上への上昇中、雫がギルド出張所の長谷川さん宛てに調査完了の報告書を送信した。
コンソールのモニター越しに、長谷川さんが眼鏡を押し上げ、深く一礼する姿が映し出される。
『初動調査班の皆様、お疲れ様でした。迅速かつ完璧な安全確認、心より感謝申し上げます。これで、私たちの街の深層が、正式に息を吹き返しました』
ケージの中に、仲間たちの安堵の笑い声が広がった。
非公式な潜入で泥をすすったあの日々が、今、公の確かな一歩として報われたのだ。
*
午後15時半。
第7区の地上ゲートで解散した後、俺は一人で第4工業区の佐伯工房へ立ち寄っていた。
炉の火が落とされた作業場で、佐伯親方が太いパイプを燻らせながら、俺が差し出した天鷲の刃先をルーペで覗き込む。
「ふん。3頭斬ったって言ってたが、刃こぼれ一つねぇな。熱伝導の焦げ付きもゼロだ」
「ええ。魔力の抜けが抜群でした。親方の鍛造のおかげです」
「減らず口叩くな。お前が無駄な力みを入れずに刃の筋道を通したからだ。この獲物はもう、完全に手前ぇの体の一部になってるよ」
親方は満足そうに鼻を鳴らし、研ぎ布で刀身をひと拭きして鞘へ戻した。
叩き上げの職人が寄せてくれる確かな信頼が、手のひらの重みとなって心地よく染み渡る。
「そろそろ時間だろ。さっさと迎えに行ってやんな」
「はい。お邪魔しました」
工房を出ると、西の空が茜色から深い紫へと美しくグラデーションを描いていた。
駅前のスーパーで新鮮な牛乳と、鈴の好物の甘いリンゴを一袋買い、17時ちょうどに認可保育所へ到着した。
保育所の玄関ドアを開けると、先生が優しく声をかけてくれた。
「すずちゃん、パパのお迎えですよ」
「ぱぱ!」
奥のプレイルームから、黄色いスモックを着た鈴が満面の笑顔で飛び出してきた。
短い両足を一生懸命に動かし、俺の膝へ勢いよく飛びついてくる。
「ぱぱー!」
「お待たせ、鈴。今日もいい子にしてたか」
抱き上げると、鈴はふくふくとした頬を俺の首筋にすり寄せ、小さな両手でぎゅっと首にしがみついてきた。
その首元、小さな通園リュックのファスナーに、昨日受け取った母の遺品、あの小さな真鍮の鈴が結びつけられていた。
チリン。
鈴が体を揺らすたびに、澄んだ柔らかな鈴の音が夕暮れの空気に溶けていく。
鈴は自分のリュックに揺れる小さな金属の粒を見つめ、指先でちょんと触れた。
「ちりん!」
「ああ、いい音だな」
俺が頭を撫でると、鈴は誇らしげに胸を張り、満開の笑顔を咲かせた。
かつて全滅した集落の地蔵堂で、一人の母親が命を賭して遺した愛の祈り。
その祈りは、今、この子の笑顔とともに、確かにここに息づいている。
タワマンへの帰り道。
俺は鈴の小さな手を握り、茜色の歩道をゆっくりと歩いた。
繋いだ手のひらから伝わってくる、吸い付くような柔らかさと、トク、トクと刻まれる確かな体温。
骨も腱も、切る対象としてしか触ったことがなかった解体屋の手が、今は壊さないように力を抜いて、小さな命の重みを支えている。
どれほど世界が揺らごうと、深層の底に何が眠っていようと、俺のやるべきことは何一つ変わらない。
繋いだ手を少しだけ強く握り返し、俺は歩調を鈴に合わせた。
部屋に戻り、買ってきたリンゴの皮をナイフで薄く剥く。
解体ナイフと同じ角度で研ぎ上げた刃先が、リンゴの果肉を滑らかに切り分けていく。
小さくサイコロ状に刻んで小鍋に入れ、少量の水と蜂蜜でコトコトと煮詰めた特製のリンゴ煮。
「ただいま、鈴。今日も美味いもん食おうな」
「あい! あむー!」
木のスプーンから湯気の立つリンゴを一口含むと、鈴は目を細めて嬉しそうに足をバタつかせた。
小さな真鍮の鈴が、部屋の温もりの中でチリンと心地よく響いた。




