第101話:消滅集落の記録と、母が遺したもの
朝の澄んだ空気の中、特区の認可保育所へ鈴を送り届けた。
門の前で小さな手を振る鈴に「夕方にな」と手を振り返し、俺はギルド特区出張所へと向かった。
午前9時過ぎ。
受付カウンターの脇で待っていた長谷川さんが、周囲に人がいないことを確かめてから小さく手招きした。
「間宮さん、こちらへどうぞ」
案内されたのは、出張所の地下深くに位置する資材・記録管理区画だった。
頑丈な耐火防爆扉が並ぶ無機質な廊下を歩きながら、長谷川さんが手元の端末を操作する。
「昨夜お伝えした、防壁外の旧第8開拓プラント周辺地区の生存者記録です。ギルドの遺失物管理課が旧駐在所の耐火金庫から回収した遺留品の中に、鈴ちゃんのお母様と思われる方の所持品が保管されていました。開示請求の手続きは完了しています」
「手数をかけたな、長谷川さん」
「いえ。あの子をここまで大切に育ててこられた間宮さんには、知る権利がありますから」
厚さ20センチの鋼鉄扉が、鈍い電子音とともに解錠された。
*
薄暗い保管庫の中央、ステンレスの作業台の上に、1つの金属トレイが置かれていた。
トレイの上には、透明な保護フィルムに包まれた古い冊子と、手のひらほどの小さな布袋が載っている。
「これが、現場に残されていた記録と遺留品です」
長谷川さんが静かに一歩下がり、俺に場所を譲った。
俺は作業台の前へ進み、保護フィルム越しにその冊子を見つめた。
表紙には、かすれた金文字で『母子健康手帳』と印字されていた。
母親の氏名欄には、丁寧で細い筆跡が残されている。
『水島 遥(28歳)』
『子の氏名:紬』
手帳のページは泥水と熱気で端がわずかに縮れていたが、検診の記録や体重の推移が、几帳面な文字でびっしりと書き込まれていた。
生まれてから1歳を迎えるまでの、日々の成長の記録。
初めて寝返りを打った日、初めて歯が生えた日、熱を出して夜通し抱きしめていた夜。
文字の端々から、溢れんばかりの愛情が立ち上ってくるようだった。
添えられていたギルドの調査報告書には、あの日、防壁外の集落で起きた最期の足取りが克明に記されていた。
夫である水島誠が発煙筒を焚き、デスクローベアを東の谷へと引きつけた後。
母である遥は、1歳の紬を抱いて集落の裏山へと走った。
だが、集落を取り囲んでいたのは巨大熊だけではなかった。
群れをなす俊敏な小型魔獣が、逃げる母子の背後へ迫っていた。
遥は脚と脇腹に深い爪傷を負いながらも、紬を抱きしめたまま丘の上の地蔵堂へと駆け込んだ。
そして、お地蔵様の足元に泥で汚れた毛布を敷き、泣き叫ぶ娘を優しく寝かせた。
報告書には、金庫から見つかった小型ボイスレコーダーの文字起こしが記録されていた。
『紬、いい子ね。声を出したら駄目よ。ここで静かに待っていて』
『ママが外のお化けをあっちへ追っ払ってくるからね』
『大丈夫。パパもママも、ずっと紬のそばにいるから』
遥は格子扉をそっと引き閉め、崩れた瓦礫の欠片を敷居に立てかけて隙間を塞いだ。
人の手なら容易く動かせても、獣の鼻面や爪では押し開けられない、ささやかな支えだった。
魔獣たちにお堂の存在を悟らせないため、遥は自らの血を流しながら反対側の深い谷底へと足跡を残し、群れを引き離したのだ。
その後この地に踏み入った者はおらず、地蔵堂の周囲には魔獣の血痕と爪痕が散乱していたが、お堂の格子扉だけは瓦礫に支えられたまま静かに閉ざされていたという。
あの日、俺が地蔵堂の扉を開けた時、なぜあの子が傷一つなく生きていたのか。
その理由が、すべてここにあった。
「お母様は、最期まで娘さんを守り抜かれたんですね」
背後で、長谷川さんが目元を拭いながら小さく呟いた。
俺は何も言わず、トレイの上に置かれた小さな布袋に手を伸ばした。
色褪せた生成りの麻布で手編みされた、小さな巾着袋。
紐の端には、古びた真鍮の小さな鈴が結びつけられていた。
指先で持ち上げると、チリン、と澄んだ柔らかな音が静かな保管庫に響いた。
あの日、地蔵堂の軒先で風に揺れ、俺の足を止めたあの音と同じ、優しく澄んだ鈴の音。
巾着の中には、折りたたまれた1枚の小さな便箋が入っていた。
『紬へ。生まれてきてくれてありがとう。愛しています。どうか生きて、温かい誰かの手に出会えますように』
鉛筆の筆跡は、血と涙でところどころ滲んでいた。
だが、その一文字一文字に込められた祈りの重さは、どんな頑丈な金属装甲よりも重く、温かかった。
俺は布袋をそっと手のひらで包み込んだ。
荒削りな解体屋の手のひらに、小さな鈴の金属の冷たさと、そこに遺された母親の体温が伝わってくる。
「長谷川さん。この遺留品、俺が引き取ってもいいか」
「はい、もちろんです。間宮さんに引き取っていただくために、正式な受理手続きを済ませてあります」
「ありがとう」
俺は手帳と巾着袋を大切に胸ポケットへ収め、保管庫の鋼鉄扉を後にした。
*
夕方17時。
認可保育所の門をくぐると、ホールの中から駆け出してくる足音が響いた。
「ぱぱ!」
黄色いスモックを着た鈴が、満面の笑顔で俺の足元へ飛び込んできた。
小さな両手で俺の作業ズボンをぎゅっと握りしめてくる。
「ぱぱー!」
「お待たせ、鈴」
俺は膝をつき、鈴の小さな身体を腕の中に抱き上げた。
ふわりと広がる柔らかなミルクの匂い。
首元にすり寄せてくるふくふくとした頬の温もりが、胸の奥深くまで染み渡っていく。
壊さないように、力を込めすぎないように、けれどしっかりと腕の力を確かめる。
かつて命を賭してこの温もりを守り抜いた、名もなき夫婦の想いが、今、俺の腕の中にあった。
「よし、帰るか。今夜は美味いうどんにしよう」
「うどん! あむ!」
鈴が嬉しそうに足をばたつかせ、俺の首にしがみついた。
*
夜19時、タワマンの新居。
ダイニングのテーブルには、湯気を上げる熱々の煮込みうどんが並んでいた。
出汁の染みた柔らかな鶏肉と、甘く煮含めた細切りの人参、ふんわりと溶いた卵。
奇跡の銀匙を握った鈴が、小さな口をもぐもぐと忙しなく動かしている。
「おいし!」
ふくふくとした頬をいっぱいに緩ませ、満面の笑顔が弾けた。
口の端に黄色い卵をつけながら、空になったスプーンを誇らしげに掲げる。
「ぱぱ、あむ! みて、あむー!」
「ああ、上手に飲み込めたな。偉いぞ」
人参をもう一口すくってやると、鈴は器用に口を開けてパクリと咥えた。
足をぱたぱたと揺らし、「んふー!」と鼻歌を歌いながら美味しそうに頬張る。
その無邪気な笑顔を見つめながら、俺も温かいうどんをすすった。
夜20時前。
お風呂から上がり、お腹いっぱいになった鈴は、絵本を読んでいる途中でコテンと眠りに落ちた。
寝室のベッドへ運び、柔らかな毛布を肩まで掛けてやる。
規則正しく刻まれる小さな寝息。
額に触れると、汗ばんだ柔らかな前髪の奥から、確かな命の熱が伝わってきた。
リビングに戻り、部屋の照明を少し落とした。
ベランダ側の丸テーブルの上に、昼間受け取った母子手帳と、手編みの巾着袋を並べる。
その隣に、かつて旧プラントの工具箱から回収した、父・誠と母・遥が赤ん坊の紬を抱いて笑っている写真を立てかけた。
グラスに冷たい水を注ぎ、写真の前に供える。
静かな夜の部屋に、遠くの街灯りの白光だけが差し込んでいた。
俺は写真の中の二人に視線を合わせ、静かに手を合わせた。
鈴には、まだこのことは話さない。
あいつがもっと大きくなって、物心がついた時。
自分がどこから来て、どれほど愛されて生まれてきたのかを知りたくなったその日まで、この手帳と鈴のお守りは俺が大切に預かっておく。
「父ちゃん、母ちゃん」
声に出して、俺は写真の中の若い夫婦に語りかけた。
「あんたたちが命懸けで守った紬は、毎日美味い飯を食って、笑って暮らしてるよ。安心しろ。何が起きても、俺があいつを絶対に幸せにする」
夜風がベランダの窓をかすかに揺らした。
テーブルの上で、小さな真鍮の鈴が、チリンと一度だけ静かに鳴った。
まるで、遠い空の向こうから、二人が頷いてくれたかのように。
俺は水を一口飲み干し、静かに写真を木箱へ収めた。
真鍮の鈴だけは巾着袋から出し、眠る鈴の枕元にそっと置いてやる。
窓の外、東京ピラーの黒い影の向こうで、今夜も変わらず星が瞬いていた。




