第100話:雫の報告書と、封鎖解除への道
ギルド特区出張所、3階の特別会議室。
遮音カーテンが引かれた薄暗い室内に、青白いホログラムモニターの光が浮かび上がっていた。
スクリーンの中央に表示されているのは、如月雫が作成した詳細な学術データシートだ。
『東京ピラー深部魔素波形に関する緊急観測報告書』
演壇に立つ雫が、手元のタブレットを滑らかに操作する。
映し出された折れ線グラフは、先日まで1.6倍の危険域を示していた魔素ベースラインが、通常値の1.1倍にまで急降下し、完全に水平な安定曲線を描いていることを示していた。
何より、心臓の鼓動のように不気味に刻まれていた3秒周期の異常脈動が、跡形もなく消え去っている。
「以上が、佐伯工房研究室およびアルス・テック社の広域センサー網によって記録された、最新48時間のピラー深部魔素ログです。地下断層に滞留していた局地的な過剰エネルギーは、深部鉱脈へと穏やかに散逸し、ピラー本体の活性度は完全に沈静化傾向へ移行したと結論づけられます」
雫の凛とした声が響き渡る。
ホログラムスクリーンの向こう側には、オンラインで接続されたギルド本部査定部、防衛軍技術監査室、そしてWSO(世界探索者ギルド)の合同査問パネルが並んでいた。
重厚なデスクに座る初老の査定部長が、眉間に深い皺を刻みながら腕を組んだ。
「如月研究員。君の提出した観測データそのものに疑義はない。だが、原因が分からんのだよ。あれほど異常な高周波を噴き上げていたピラーが、なぜ突如として沈静化したのか。その物理的根拠が示されない限り、我々上層部としては首を縦に振るわけにはいかん」
「原因につきましては、報告書の第4項に記載した通りです。第34層直下の未踏断層帯における局所的なエネルギー圧の臨界突破、それに伴う自然放電現象と推測されます」
雫は表情一つ変えずに言い切った。
先日、俺たちが非公式に水没バイパスを掘り進め、第35層の大空洞で変異受肉巨獣アビス・カルキノスを一刀両断したことなど、この場にいる誰一人として知らない。
知っているのは、俺と雫、倉田、そして背中を預け合った仲間たちだけだ。
雫のレポートは、その極秘討伐の事実を完璧な学術的推論の裏に隠し、公的なデータとして一切の綻びなく仕立て上げられていた。
「推測に過ぎんではないか」
本部の安全管理課長が、苛立たしげに卓上の書類を叩いた。
「先日の大規模防衛戦における都市の損害は甚大だった。第1区の深層進入ゲートをコンクリートで物理封鎖したのは、二次災害を未然に防ぐための苦渋の決断だ。万が一、ゲートを再開した直後に再びピラーが暴走を始めたら、一体誰が責任を取るのかね? 現状維持、無期限凍結の継続こそが最も安全な選択肢だ」
保身と事なかれ主義に満ちた官僚たちの言葉に、会議室の空気が重く沈み込む。
机上の数字と責任の所在ばかりを気にする上層部の態度は、いつだって現場の事情からかけ離れていた。
その重苦しい沈黙を切り裂いたのは、涼やかな靴音だった。
「現状維持、ですか」
演壇の脇から一歩前へ出たのは、長谷川さんだった。
いつも窓口で見せる柔らかな笑顔は完全に消え去り、ギルド支所長補佐としての鋭い眼差しがホログラムの面々を射抜く。
「安全対策課長。あなたが安全と呼んでいるその現状維持の陰で、防壁都市の経済がどれほど出血を続けているかご存じですか?」
「な、なんだと?」
「第1区の全面凍結以来、深層産の高純度魔石の供給は完全に途絶えています。医療用魔導機器の稼働率は30パーセント低下し、特区の復旧工事に必要な重機用燃料魔石の価格は暴騰。中堅探索者たちが浅層へ雪崩れ込んだことで現場の治安は悪化し、日を追うごとに数億円規模の損失が積み上がっています。現場を止めること自体が、今や都市にとって最大の危機なのですよ」
「し、しかしだな、長谷川君! 安全確認が取れていない危険領域へ探索者を送り込むわけにはいかんのだ!」
「ですから、全面解除などとは一言も申し上げておりません」
長谷川さんが手元の端末を軽くタップした。
スクリーンに、新たな提案書が投影される。
『深層第31層〜第33層:段階的・限定的試験再開案』
・対象:ギルド公認Bランク以上の実力者のみ
・人数:1回あたり最大1パーティー(5名以内)の完全許可制
・目的:浅層〜中層連絡路の地盤調査および限定的な素材回収
・監視:如月研究員およびアルス・テック社によるリアルタイム魔素テレメトリー連動
「限定的な試験再開です。第1区正規ゲートのコンクリート封鎖はそのまま維持し、第7区の緊急保守用連絡シャフトを1系統のみ開放。万一の際にも3分で物理遮断が可能な隔離プロトコルを敷きます」
「う、うむ。だが、それでも深層だ。突発的な変異魔獣の出現に即応できるだけの戦力保証がなければ、WSOの規約をクリアできん」
査定部長がなおも難色を示した。
その瞬間、長谷川さんの口元に、冷徹とも言える確信の笑みが浮かんだ。
「戦力保証、ですか。では、こちらをご覧ください」
長谷川さんがスクリーンの中央へ、今朝更新されたばかりの生体データを大きく表示させた。
『間宮 凌(25歳 / Bランク特級基準適合)』
・魔力保有量:1240
・瞬間最大出力:280
・変換効率:92パーセント
・実効瞬間出力:258
画面を見た査問パネルの官僚たちが、一斉に椅子から身を乗り出し、息を呑んだ。
「な、なんだと!? 実効出力258だと!?」
「変換効率92パーセント!? 馬鹿な、こんな数値はアカデミーの教授陣ですらあり得ん!」
「間宮凌? あの、防壁戦で空挺ボスを単独撃破したという、例の『謎の歩兵』か!?」
スピーカー越しに、どよめきと混乱の声が雪崩のように押し寄せる。
長谷川さんは背筋をピンと伸ばし、堂々たる声で宣告した。
「この限定的試験再開において、初動調査部隊のリーダーとして間宮凌探索者の同行を確約いたします。Aランク上位を凌駕する実効出力を誇る特級探索者を筆頭に、アルス・テックの最新鋭防空兵装、そして如月研究員による即時テレメトリー監視。これ以上の安全マージンが、この都市のどこに存在するというのですか?」
ぐうの音も出ない完璧な論理武装。
査定部長は額に滲んだ汗をハンカチで拭い、画面の向こうの官僚たちと小声で協議を始めた。
やがて、重々しい咳払いが一つ響く。
「相分かった。如月研究員の観測報告、ならびに長谷川補佐の限定再開案を、ギルド本部およびWSOの緊急審査会議へ諮問する。異例の措置だが、前向きに承認の方向で調整しよう」
「ありがとうございます。速やかな決裁を期待しております」
長谷川さんが完璧な礼を返し、ホログラム通信の接続がプツリと切断された。
*
通信が切れた瞬間、特別会議室の張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
「ふぅ。心臓が止まるかと思いました」
雫が机に手をつき、小さく息を吐き出した。
眼鏡を外し、目元を指先でそっと押さえている。
「お疲れ様、如月さん。あなたの完璧な観測データがあったからこそ、官僚たちの言い逃れを完全に封じることができたわ」
長谷川さんが微笑みながら、雫の肩を優しく叩いた。
そして、部屋の壁際に置かれたパイプ椅子へ視線を向ける。
「それで、間宮さん。ずっと黙って聞いていらっしゃいましたけど、何かご意見は?」
俺は腕を組み、壁の時計を見上げた。
長針と短針が指している時刻は、15時40分。
「意見配分もクソもない。長谷川さんの舌戦は見事だったが、俺が気にしてるのは時間だけだ」
「時間?」
「17時の保育所のお迎えまで、あと1時間20分しかない。駅前のスーパーの夕方特売に寄って、挽肉と玉ねぎを買わなきゃならん。審査が通ろうが通るまいが、夕飯のハンバーグの仕込みに遅れるわけにはいかねぇんだよ」
長谷川さんと雫が顔を見合わせ、同時に小さく吹き出した。
「ふふっ、あんなに息の詰まる諮問会の最中、ずっと特売の挽肉のことを考えていらしたんですか?」
「当たり前だ。現場の解体屋に机の上の政治は分からん。俺の仕事は、頼まれた現場を無傷で片付けて、娘に温かい飯を食わせることだけだ」
「相変わらずブレないですね、先生は」
雫が眼鏡をかけ直し、どこか誇らしげに目を細めた。
「でも、そのブレなさが、あの頑迷な本部の役人たちを動かす最大の決め手になったんですよ。正式な承認が下りるまで2、3日かかりますが、これで確実に、合法的な深層探索への道が開けました」
「分かった。準備ができたら呼んでくれ。じゃあ、俺は買い出しに行ってくる」
俺は立ち上がり、軽く手を振って会議室を出た。
*
夕方16時過ぎ。
駅前スーパーの精肉コーナーで、国産の牛豚合挽肉を2パック、特売の白ネギと玉ねぎをカゴに入れる。
夕方の冷たい風が吹き抜ける特区の歩道を足早に歩き、17時ちょうどに認可保育所の門をくぐった。
「すずちゃん、パパがお迎えに来てくれましたよ」
「ぱぱ!」
保育士の先生に手を引かれていた鈴が、俺の姿を認めた瞬間、パッと顔を輝かせた。
小さな足でトテトテと小走りに駆けてきて、俺の膝にぎゅっと抱きついてくる。
「ぱぱー!」
「お待たせ、鈴。いい子にしてたか」
抱き上げると、鈴はふくふくとした頬を俺の首元にすり寄せてきた。
柔らかく甘いミルクの匂いと、確かな体温。
冷え切った官僚たちの査問会や、ピラーの底の暗闇など、この小さな温もりを前にすれば遠い世界の出来事のように思えた。
*
18時半、タワマンの新居。
キッチンから、ジュウウゥゥと心地よい焼き音が響いていた。
フライパンの上で、こんがりときつね色の焦げ目をつけた特製ハンバーグが、ぷっくりと肉汁を蓄えて膨らんでいる。
微細な魔力をフライパンの底へ均一に通し、弱火でじっくりと芯まで蒸し焼きにした逸品だ。
粗みじんにした玉ねぎの甘みと、肉の旨味が部屋いっぱいに広がっていく。
「ぱぱ、あむ! これ、あむー!」
子供用の椅子に座った鈴が、小さな両手をテーブルの上でパチパチと叩いた。
手には、佐伯親方とアルス社が鍛え上げた奇跡の銀匙がしっかりと握られている。
「はいはい、熱いからふーふーしてからな」
お皿に取り分けたハンバーグをスプーンの先で一口大に割り、特製ケチャップソースを少し絡めて息を吹きかける。
鈴の口元へ運ぶと、鈴は待ちきれない様子で大きなお口を開けてパクリと咥えた。
もぐもぐ、と小さな顎を動かす。
その瞬間、鈴の背中がぴんと伸びた。
「おいし!」
満面に咲き誇るような笑顔。
ふくふくとした両頬をいっぱいに膨らませ、足をバタバタと揺らして喜ぶ。
そして空になったスプーンを掲げ、皿の上のハンバーグを指差した。
「これ! んーまー!」
「分かった分かった。おかわりな」
鈴が美味しそうに頬張る姿を眺めながら、俺も炊きたての白飯と一緒にハンバーグを口に運んだ。
溢れ出すジューシーな肉汁と、どこか懐かしいケチャップの風味。
どれほど強い魔力を手に入れようと、どれほど規格外の数値を叩き出そうと、俺の帰る場所はこの食卓にしかない。
鈴を寝かしつけた夜21時過ぎ。
端末を開くと、長谷川さんから短い業務連絡が届いていた。
『査問会議より内示が出ました。来週初頭、第31層への限定試験再開が正式承認される見通しです。それと、以前お話ししていた、鈴ちゃんの保護地域に関する生存者記録の件ですが、閲覧許可が下りました。明日、書類をお渡しできます』
画面の文字を見つめ、俺は静かに息を吐き出した。
深層への道、そして、鈴の母が遺した足跡。
止まっていた時間が、静かに、確実に動き出そうとしていた。




