第7話 耳元で感謝しないでください
結界を抜けた瞬間、耳鳴りがして、空気が一変しました。それに、森の様子も様変わりしました。巨大な倒木が折り重なって朽ち、苔むしているのです。
確か、三十年前に白い氷結の竜が大森林を凍てつかせたことがあったと聞いています。
災厄の発生が魔獣の生息地だったからよかったものの、同じことが街中で起きたら、大惨事になっていたでしょう。
それほど、森の中は荒れ果てていました。
私は、自分の腕を抱くようにさすりました。
……冷たい。
けれど、アーヴィン様の魔力が暴れた時の冷たさとは違います。
もっと濁っていて、ざらざらしていて、喉の奥に砂が張りつくような嫌な気配。それなのに肌に纏わり付く空気は泥濘のようでした。
ぞわり、と背筋が凍りました。
「……これが、魔獣の気配」
声が震えました。
記憶に掛けられた錠前が、ぎし、と軋んだ気がしました。
耳元に、低い声が落ちてきます。
「大丈夫か」
私はごくりと喉を鳴らしました。
「……はい」
「無理はするな。やつらの魔力の気配は、騎士団の手練れでも慣れることはない」
「……アーヴィン様も、怖いんですか」
思わず聞いてしまいました。
彼は少しだけ沈黙しました。
「怖くない者から死ぬ」
固く、静かな声でした。
「恐怖は、危険を知らせる感覚だ。押し殺す必要はない。ただ、呑まれるな」
その言葉は、不思議と胸に落ちました。
怖くていい。
でも、呑まれてはいけない。
私はアーヴィン様の左腕に添えた指へ、少しだけ力を込めました。
「……分かりました」
やがて、前方から低い咆哮が響きました。
ルーヴェの耳がぴくりと動きます。
騎士様たちの空気が、さらに鋭くなりました。
木々の間、黒い影が動きます。
それは、狼に似ていました。
けれど、肩までの高さは霊馬ほどもあり、背中からは歪な角のようなものが生えています。
口元から垂れる唾液が地面に落ちるたび、草が黒く焼けました。
魔獣。
本物の魔獣です。
喉が詰まるように苦しくなりました。
指先が冷たくなり、耳鳴りがします。
自分よりも圧倒的に強い生物に対峙した時の、根源的な恐怖。それが体を支配しました。
怖い。
逃げたい。
まだ距離はあるのに。
私たちの前には多くの騎士様がいるのに。
その時、後ろから片腕が回され、ぎゅっと支えるように抱きしめられました。
「大丈夫だ。俺がついてる」
低く、落ち着く声でした。
この人がいれば大丈夫。
そう思えるような安心をくれました。
ある意味心臓に悪いですが、それは脇に置いておきます。
今は魔獣を見なければ。
私は魔力視を開きました。
黒い靄のような魔力が、魔獣の全身を覆っています。
人間の魔力とも、霊獣の魔力とも違う。
濁っていて、荒くて、絡まり合った糸の塊のようでした。
その奥に、核があります。
どくん、どくん、と脈打つ黒い塊。
そこから魔力が絶え間なく噴き出し、魔獣の体を動かしているのです。
魔力が溢れ出る向き。
絡まり方。
歪み。
それらを魔法陣に読み込ませて記録します。
個体ごとに違いますが、どうやら共通項もありそうです。それに、先行研究にあった通り、動物に似た動きをしています。動物と違うのは、無尽蔵に湧くような魔力量と、その荒々しさで、流れ自体はよく似ています。
私は知らず、唇を上げていました。
これなら──できる。
流れが動物と似ているなら、瞬時に錠前を作って核を止めることができます。
ただし、これはあくまで動物用なので、何秒持つかはわかりません。
「アーヴィン様」
「なんだ」
「何秒止められれば、斬れますか」
一拍の間の後、彼は少し笑ったようでした。
「一秒だ」
私は頷き、前方を指差しました。
「今から、あの右手の個体に錠前をかけます。うまくいくかはわかりませんが、見ていてください」
一瞬でいい。
あの魔力の流れに逆らって、核に錠前をかける。
私は杖を魔獣に向けました。
杖先に魔法陣が浮かび上がり、魔獣の動きを追います。
──速い。
動きが速く、なかなか捉えきれません。
心臓が早鐘のように打っています。
落ち着け。
落ち着け、私。
よく見ろ。
よく見て──
──放て。
その瞬間、魔法陣から伸びた光が、魔獣の核を捉えました。
「施錠!」
キィンと高い金属音と共に、魔獣の核に錠が掛けられました。魔獣の動きが完全停止します。
一秒。
二秒。
三秒。
三秒もった!!
と思った瞬間、魔獣の体が蒸発するように霧散し、角だけが地面にぼとりと落ちました。黒い靄が広がります。
…………え?
しばらく、何が起きたのか分かりませんでした。
私は三秒止めただけです。
他には何もしていません。
やがて、黒い靄が薄れてきて、気づきました。
その奧に、私の弟子がいることに。
剣から赤黒い血を滴らせて、当然のように立っている弟子が。
どうりで背中が寒くなったはずです。
いつの間にそんなとこに跳んだんですか?
やっぱり人間やめてます?
「アーヴィン様!」
思わず叫ぶと、彼はこちらを振り返り、戻ってきました。
「成功したな」
「成功しましたけど! あなた、今、跳びましたよね?!」
「問題あるか?」
「あります!」
私は急いで魔力の流れを確認しました。
魔力門は──無事。
少し軋んではいますが、壊れてはいません。
よかった。
本当に、よかった。
安堵した瞬間、今度は怒りが込み上げてきました。
「約束は?!」
私が言うと、アーヴィン様は一瞬だけ黙りました。
「魔力は使っていない」
「身体能力で跳んだと?」
「ああ」
「それはそれでおかしいんです!」
騎士様たちの何人かが、視線を逸らしました。
どうやら、今の跳躍はこの方々にとっても少しおかしかったようです。
カイルさんが淡々と言いました。
「導師殿。隊長は魔力を使わずとも、短距離ならあの程度は跳びます」
「あの程度」
「はい」
「基準がおかしいです」
「討伐隊では普通です」
「普通の意味を辞書で確認してください」
私が頭を抱えると、アーヴィン様が顎に手をやり、不思議そうに首を傾けました。
「一秒だと言っただろう?」
「私、見ていてくださいと言いましたよね? この距離で斬り掛かるとは思わないじゃないですか、普通」
「ああ。だがせっかく導師殿が作ってくれた好機を無駄にするわけにはいかない」
真面目な顔で言い切られてしまいました。
「一秒あれば、俺は斬れる。三秒あれば、他の騎士も斬れる。導師殿のしたことは、それほどすごいことだと認識してくれ」
真っ直ぐな言葉に、胸がじんと熱くなりました。
元々は動物の魔力酔いや、魔力暴走に備えて研究してきた、錠の速掛けです。
それが魔獣にも、効くなんて。
たったの三秒です。
でも討伐隊の騎士様たちなら、それで斬ってくれる。
なら。
私の錠前は、誰かを守れるのかもしれない。
魔獣に襲われた誰かを。
結界の中で震える誰かを。
かつての私のような子どもを。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛みました。
「……ありがとうございます」
私が小さく言うと、アーヴィン様は静かに首を横に振りました。
「礼を言うのは俺たちの方だ」
やめてください。
そんなふうに真っ直ぐ認められると、困ります。
泣きそうになるではありませんか。
「導師殿」
カイルさんが、魔獣の消えた跡を確認しながら言いました。
「今の術式、もう一度使えますか」
「魔力が続く限りは。ただし、動きが速いと狙いが難しいです。核の位置を捉えるまでに時間がかかります」
「では、隊長」
「ああ」
アーヴィン様が頷きました。
「次からは導師殿が核を見る時間を作る。第一班は牽制、第二班は足止め。導師殿の施錠後、三秒以内に斬れ」
「了解!」
一斉に返る声に、私は思わず肩を跳ねさせました。
……待ってください。
今、さらっと私が作戦に組み込まれませんでしたか?
「アーヴィン様」
「なんだ」
「私、後方から記録を取るだけの予定だった気がします」
「記録も取れる」
「そういう問題ではありません!」
騎士団に来て二日目。
私は早くも、討伐隊の作戦の一部に組み込まれてしまったようです。
研究者は現場に出るものではありません。
出るとしても、もう少し段階を踏むものです。
ですが、目の前で騎士様たちが私を見る目は、もう完全に「導師殿、次もお願いします」という目でした。
情報の上書きが、今度は早すぎます。
「リーリア」
耳元で、そっと名前を呼ばれ、心臓が跳ねました。
どうして、今、名前なんですか。
「本当に、ありがとう」
静かなのに、ひどく優しい声です。
「君がいてくれると、心強い」
それは、導師に向ける信頼の言葉だったのかもしれません。
でも、それなら、こんなふうに背後から包みこむように、甘く囁かれては困ります。
……私はちょろいのですから。
だから私は、アーヴィン様の腕に添えた指先へ、少しだけ力を込めることしかできませんでした。




