第6話 実戦初日ですが、距離が近すぎます
騎士様たちの顔つきが、一瞬で変わりました。
口を引き結び、鋭い視線で、迅速に動き出します。誰も慌てていませんが、緊張と戦意のようなものを、ひしひしと感じます。
茫然と立っていた私の肩に、大きな手が置かれました。
「魔獣出現の警報だ。準備を」
アーヴィン様でした。
さっきまで眠っていたはずなのに、そんな様子は微塵もありません。
銀灰色の瞳は冴え、声は低く落ち着いていました。
彼はそのまま横を通り過ぎて、騎士たちと一緒に行ってしまいました。
……初日です。
いえ、正確には二日目です。
どちらにしても、早すぎませんか?
私も行くんですか?
……行くんですね。
仕方ありません。
可愛い弟子と、研究と、特別手当のためです。
私は部屋に戻って、急いで魔法使いのローブに着替えました。
それから腰に杖を差し、携帯食の小袋をポケットに押し込みます。
限定ぶどう味です。
騎士団の方々による餌付けが、早速役に立ってしまいました。
少し悔しいです。
最後に、髪をきつく結びました。
鏡の中の私が、緊張した面持ちで見返してきます。
緑の目には、明らかに不安が浮かんでいました。
魔獣に対峙するのですから、当然です。
やつらは人類共通の敵なのです。
知性はあまりありませんが、膨大な魔力と強靭な肉体を持ち、人や霊獣を好んで捕食します。
私の両親は、魔獣に殺されました。
けれど、その時の記憶はすっぽりと抜け落ちています。
次に思い出せるのは、師匠に抱っこされている時の匂いです。
魔法草を燻した香りと、銀葉樹の枝葉から抽出した精油の爽やかな香り。
父と似た匂いに、胸が締めつけられた記憶。
私は『星を食べたかった竜』だけを持って、師匠の腕の中で泣いていました。
私はきつく目を閉じました。
それからゆっくりと開けて、鏡の中の自分を睨みつけました。
──やるしかありません。
詰所の前には、すでに騎士様たちが集まっていました。
白い甲冑を身につけ、銀色の霊馬に跨っています。
それは物語の中の騎士団より、ずっと現実的で、ずっと怖い姿でした。
その先頭に、アーヴィン様が立っています。
彼は甲冑ではなく、白い隊服のままでした。
それなのに彼がそこに立っているだけで、静かな圧がありました。
最前線では、すでに戦闘が行われています。
私たちが向かうのは、そのさらに後方。
戦況を見極め、必要に応じて指示を出すための場所だそうです。
それを聞いて、少しだけほっとしました。
よかった。
いきなり魔獣の口元に放り込まれるわけではないようです。
「導師殿」
アーヴィン様が私を呼びました。
「はい」
「君は俺と同乗してもらう」
「……はい?」
聞き間違いでしょうか。
私は目の前の銀色の霊馬を見上げました。
普通の馬よりも一回り、いえ、二回りほど大きく、銀のたてがみが朝の光を受けて淡く輝いています。
アーヴィン様の愛馬で、ルーヴェという名前だそうです。
魔獣の気配にも怯えない、討伐隊の霊馬です。
こんなに大きな霊馬に乗るんですか?
私が?
「魔力の異常に備えるなら、離れない方がいい。魔獣の核を見るにも、ある程度前に出る必要があるだろう」
正論です。
腹立たしいほど正論です。
高いところが怖いとか言える雰囲気ではありません。ありませんが、ぽろりと口から転がり出てしまいました。
「落ちたら、確実に死にますよねぇ……」
「その前に、俺が支える」
さらりと言われました。
それは頼もしいです。
……ん?
待ってください。
それはつまり、私がアーヴィン様の前に座るということでは?
いえ。
前でも後ろでも、どちらにせよゼロ距離です。
そんなの、馬から落ちる前に心が落ちます。
ご存知ないでしょうか?
異性に免疫ない女は、ちょっと優しくされたり守られたりしただけで、ときめくものなのです。
そう、どれくらいチョロいのかと言うと。
研究課程に入る前、講義で羽根ペンを貸してくれた男の子がいたんです。
私は師匠にこう言いました。
「彼、私のことが好きなんですかね?」
師匠はあからさまな嘲笑を浮かべて、こう答えました。
「お前、頭大丈夫か? それは親切っていうんだよ。勘違いすんな、バカ弟子」
完全な黒歴史です。
それにしても、もう少し言い方ってもんがないですかね?
でも、そこまで分かってるんですから、勘違いしないように己を固く戒めなければなりません。
私は導師、私は導師、私は導師──。
アーヴィン様は先に霊馬へ跨ると、私へ手を差し出しました。
大きな手です。
昨日から、何度も握った手です。
大丈夫。私は導師。
いけます。
私は少しだけ息を吸って、その手を取りました。
ふわり、と体が浮きました。
次の瞬間には、私はアーヴィン様の前に座らされていました。
視点が高いです。
怖いです。
それから、背後が近いです。
ものすごく近いです。
「苦しくないか」
「はい。物理的には」
「……物理的には」
「いえ、お気になさらず」
私は邪念を振り払うように、頭をぶんぶんと振りました。
代わりに、師匠の嘲笑を思い浮かべます。
はい、ムカつきました。
効果覿面です。
「アーヴィン様」
「なんだ」
「左腕に触れて、魔力の流れを常に監視します。邪魔かもしれませんが、ご容赦を。それから、魔力に関しては私の指示に従ってください」
「ああ。約束する」
その声は、背中越しに低く響きました。
私は杖を握り直しました。
やるしかありません。
*
霊馬ルーヴェが走り出すと、風が頬を打ちました。
銀のたてがみが揺れ、蹄の音が石畳から土の道へ変わります。
背後では、アーヴィン様の腕が私を囲むように手綱を握っていました。
近いです。
ものすごく近いです。
体温が伝わってきます。
ですが、これは必要な距離です。
魔力監視のためです。
落馬防止のためです。
……師匠、私を嗤ってください。
私は左腕にそっと指を添え、アーヴィン様の魔力の流れを追いました。
今は落ち着いています。
でも、流れは相変わらず変化し続けていました。
しかも、まるで周囲の気配を探るように、細く、鋭く、絶えず形を変えているのです。
錠を開けたばかりの人とは思えません。
無意識でこれをやっているのですから、技術として覚えたら、ますます人外です。
*
街を抜け、郊外の広大な畑を抜けると、大森林が見えてきました。
周縁はまだ人の領域です。
けれど、その深部は魔獣の勢力圏です。
森の中は暗く、湿っていました。
巨大な木々に光が遮られて、地表にはほとんど届きません。
魔法学院の裏に広がる森とは違って、荒々しく、原初の森と呼ぶに相応しい場所でした。
「もうすぐ、最後の結界層だ」
アーヴィン様が低く呟きました。
私は頷き、身構えました。
聖女様たちの構築した結界。
それは森の中に五層にも及んでいました。
一層超えるごとに、空気が冷え、澱むようでした。
そして、最後の結界が目の前に現れました。
キラキラと輝く薄い膜。
これが──最後。
私は思わず、アーヴィン様の左腕を強く握っていました。
「怖いか」
背後から、低い声が落ちてきます。
「……少しだけ」
「大丈夫だ。俺が守る」
その言葉と同時に、ルーヴェが最後の結界を越えました。




