第25話 あなたのそばにいさせてください。
それから、昼は魔法学院で魔力型の照合を行い、夜はアーヴィン様と研究棟へ帰る生活が続きました。
資料は山のようにありました。
魔法学院の古い登録簿。
聖騎士団の魔力検査資料。
そして、魔法省の膨大な記録。
師匠の研究チームとマデリンまで巻き込んで、毎日ひたすら照合を続けます。
それでも、見つかりません。
アーヴィン様の魔力型に合う人が、どこにもいないのです。
時間だけが過ぎていく。
焦りだけが募っていく。
その間にも、アーヴィン様の状態は少しずつ悪くなっていきました。
このまま魔力型が見つからなければ、アーヴィン様はどうなってしまうんだろう。
毎日ほどいても、追いつかなくなったら。
二重核を形成し始めたら。
その時、私は──。
「毎日……すまない」
アーヴィン様がぽつりと呟きました。
その声は掠れていて、苦しさが滲んでいました。
「大丈夫ですよ。もう慣れたものです。靄解き名人と呼んでください」
私は努めて明るく答えました。
けれど、彼は真剣な目で私を見ました。
「俺は、君の負担になっている」
「そうですね。でも気にしないでください。それが導師というものです。私がナヴィード先生にかけた負担に比べたら、なんてことないですよ。あ、でも師匠にかけられた迷惑の方が多い気が……」
「リーリア」
「九歳の時なんて、変化魔法の実験に付き合わされて、一週間、猫耳が生えたままで……」
「リーリア」
二度名前を呼ばれて、ようやく私は口を閉じました。
アーヴィン様は、ベッドに横になったまま、静かに私を見ています。
顔色は悪く、呼吸も浅い。
それなのに、その瞳だけはひどく強くて、私は思わず息をのみました。
「俺は、君に負担をかけ続けたいわけじゃない」
「負担ではありません」
「そう言ってくれることは分かっている。だが、このままではだめだ」
私は目を伏せました。
「すみません。でも、もう少し時間をください」
「違う。君を責めてるわけじゃない。君は十分過ぎるほど俺を助けてくれている。そうではなく……」
彼は、ためらうように言葉を切りました。
私はその続きを言わせたくなくて、靄を解きながら、また口を開きました。
「そうそう、聞いてください。今日マデリンがクッキーを……」
その時。
かつん、と固いものに触れる手応えがありました。
思わず手が止まり、息をのみました。
一瞬のことでした。
けれど、その一瞬を見逃すようなアーヴィン様ではありませんでした。
「二重核か?」
私はなんでもないことのように小さく笑い、手を動かしました。
「いいえ。まだ解けます」
「リーリア」
「解いてみせます」
けれど、アーヴィン様は私の手を握りこみました。
「アーヴィン様、術が……」
「リーリア。父が使った、最初の錠を掛けてくれ」
喉の奥が、ぎゅっと詰まったように、息が苦しくなりました。
ついに、言わせてしまいました。
一番言ってほしくない言葉を。
「……何を、言っているんですか」
声が震えました。
「研究は順調に進んで……」
「核ごと封じてくれ」
アーヴィン様は、落ち着いた声で、言葉をかぶせました。
「苦しくても、暴走するよりはましだ」
胸の奥が、かっと熱くなりました。
「だめです」
声が、自分でも驚くほど強く出ました。
「それだけは、絶対にだめです」
「リーリア」
「小さい頃とは状況が違います。開錠してからも、あなたの魔力は外部の力も取り込みながら、増大し続けています。そんなものを封じたら、苦しいだけではすみません」
私は、アーヴィン様の手を振り払い、絡みついた靄を解きながら、必死に言葉を探しました。
「私は、苦しいと言えない子どもや、動物や、助けてほしいと言えない誰かを、無理やり押さえつけるような術式は組みたくありません」
アーヴィン様が、黙りました。
けれど、その目の奥にある決意は揺るぎませんでした。
「だが、災厄に転じるわけにはいかない。そんなことになれば、どれほどの犠牲が出るか分からない。それに……」
アーヴィン様は何かを諦めたように、息を吐きました。
「それに、これ以上君を縛りつけたくない」
それは、私も同じ気持ちでした。
アーヴィン様を私に縛りつけたくない。
一人でも楽に呼吸ができるようにしてあげたい。
それなのに、私にはアーヴィン様の言葉が拒絶に聞こえたのです。
「私は……あなたの導師です」
目を合わせられませんでした。
なんて、みっともないんだろう。
今さら導師なんて言葉にすがろうとして。
アーヴィン様は小さく息を吐きました。
「……俺が君の弟子である限り、君は俺から離れられないのだろうな」
「……そんなこと……」
「だったら、四級試験を受ける。君をもう導師から解放しよう」
頭が真っ白になりました。
わかっているのです。
彼は、私に負担をかけたくないだけ。
特務隊の隊長として、最善の道を進もうとしているだけ。
それなのに、私と私の研究を否定された気がしました。
そして。それでも。
私には言うべき言葉が見つかりませんでした。
好きだと言われても。
抱きしめられても。
どこかで信用していない私がいるのです。
それに、研究だって、結果を出せていません。
そんな私が、いったい何を言えるでしょう。
アーヴィン様は、黙りこんでしまった私の手を再びとりました。
「リーリア。錠を掛けてくれ。君の負担になるのなら、ナヴィード先生に頼んでもいい」
「……っ」
「君が術式を完成させられないと言っているわけじゃない。だが、間に合わないかもしれない」
その言葉は、正しかった。
正しいからこそ、苦しかった。
「俺は、君を縛りつけたくない。君が俺のために眠れず、食べられず、倒れそうになるのを見るのは、もう嫌だ」
「……私は」
「俺のために、君が壊れるくらいなら」
アーヴィン様は、苦しそうに息を吐きました。
「俺は、君に忘れられた方がいい」
私はその言葉に、はっと顔を上げました。
「……ナヴィード先生と何を話したんですか」
彼は答えませんでした。
けれど、そんなこと聞かなくても分かりました。
災厄に転じる前に、竜核を錠で封じる。
私が止めるなら、私の記憶を消去する。
それが世界のためであり、私のためでもあると。
「リーリア。君の、ためだ」
──私の、ため。
その言葉に、胸の奥で何かが切れました。
「嫌です」
声が出ました。
小さくて、震えた声でした。
けれど、確かに出ました。
アーヴィン様が目を見開きます。
「忘れたくありません」
師匠に言ったのと同じ言葉でした。
でも今度は、アーヴィン様に向けた言葉です。
「あなたのことを、忘れたくありません。絶対に」
彼が、息をのむ気配がしました。
私は彼の手をぎゅっと握り返しました。
「どうしても錠を掛けるのなら、私がやります。それが、導師としての責任です。だから、私からあなたの記憶を取り上げないで」
そう。
私は導師であり、研究者です。
逃げるわけにはいきません。
それに、何より、あなたを好きな気持ちを忘れたくない。
私は、挑むように彼を見ました。
「……術式は、完成しています」
初めてそのことを伝えました。
彼は驚いたように目を見開きました。
「でも、使えないんです」
「なぜ……?」
「魔力型が合わないからです。型が合わなければ、門は定着しません。拒絶されるだけなら、まだいい。でも、あなたの竜核は、きっと術式を取り込もうとします」
そうなれば、魔獣の靄以上に深く絡みつく。
もっと苦しむことになる。
「だから、探していました。あなたに合う魔力型を。学院も、神殿も、聖騎士団も、魔法省も、全部」
私は、唇を噛みました。
「でも、見つからないんです」
沈黙が落ちました。
彼は、目を伏せ、何か考え込んでいるようでした。
──なら、今すぐ錠を掛けてくれ。
そんな言葉が飛び出しそうで、私は慌てて言葉を継ぎました。
「その代わり、魔力型を合わせる研究を始めました。もちろん一朝一夕で結果は出ません。でも、私は諦めません。だから……」
私は銀灰色の瞳をまっすぐに見ました。
「私を……遠ざけないで。あなたのそばに、いさせてください」
研究者として、導師として、リーリアとして。
どの立場で言っているのか、自分でも分かりませんでした。
でも、心からの願いでした。
アーヴィン様は、ゆっくりと身を起こしました。
真剣な目で私を見つめ、それから、ぎゅっと私を抱きしめました。
「……っ?!」
思いがけない行動に、息が止まりました。
「……困った」
「……え?」
「そんなに可愛いことを言われたら、君から離れられなくなる」
「え、いや、だから……」
「俺は、君を苦しめたくない。君の負担になりたくない。君を縛りたくない」
そこで、彼の声がわずかに震えました。
「でも、君から離れるのは、もっと無理だ」
その言葉は、私の胸の一番弱いところに、すとんと落ちました。
嬉しい、と思ってしまったのです。
こんな状況で。
アーヴィン様は苦しんでいて、術式の問題も何も解決していないのに。
それでも、離れるのは無理だと言われたことが、どうしようもなく嬉しかったのです。




