第23話 甘すぎる冬の夜
それから、研究所は私たちの第二の拠点になりました。
アーヴィン様を拾ったのが、鍵花の咲く春のこと。
そして、今はもう冬です。
私は資料室と研究室に籠もり、父たちの残した記録を元に、術式の完成を目指しています。
アーヴィン様は騎士団の任務に出て、食材を抱えて戻ってきます。
時には私も討伐隊に同行し、魔獣核に絡む靄を観察しながら、施錠の研究も同時に進めていきました。
そして、夕方には一緒にお料理を作って、その日の進捗を話しながら夕飯をとります。
ただの共同生活です。
新婚生活ではありません。
ですが、アーヴィン様がすぐに甘い雰囲気にしてしまうので、私の心臓がもちません。
例えば、一緒に料理をしていると、必ず味見を求められるのですが、それが絶対に私の両手が塞がっている時なのです。
「後で確かめますので、小皿に入れていただければ……」
そう言うと、すぐにスプーンが口元に運ばれます。
「今、食べてみてくれ」
そして、あーんをされるのです。
少しでもこぼそうものなら、すぐに口元を指で拭われます。
もう慣れてきました。
慣れてきてしまいました。
ですが、これは慣れてはいけないものではないでしょうか。
それから、アーヴィン様は討伐に出る前、必ず研究室を覗いて「行ってくる」と言うのです。
別に構いませんよ、と伝えたのですが、「行く前には必ず君の顔を見たい」と真顔で言い切られてしまいました。
戻ってくる時は、食材の入った袋を片手に「ただいま」と言います。
それも、まるで長い旅から帰ってきたかのような笑顔で。
私はそのたびに、「いってらっしゃい」「おかえりなさい」と返すようになりました。
……いえ、これは研究拠点での業務連絡です。
ちょっと声が甘くて優しくて、胸の奥が温かくなるだけの、業務連絡です。
それに、資料を読んだまま眠りかけると、すぐにお姫様抱っこでベッドに運ばれそうになるのも恥ずかしいです。
「起こしていただければ……」
そう言うと、アーヴィン様は心底あり得ないという顔をしました。
「疲れている君を?」
却下されました。
それから、「寝顔が可愛いから起こしたくない」とも言われました。
……よだれを垂らしていなければいいのですが。
けれど、その恥ずかしくも穏やかな日々に、徐々に影が差してきました。
アーヴィン様の竜核に、外部の力が絡みつくことが増えてきたのです。
最初は、討伐に出た日の夜だけでした。
魔獣由来の魔力が、薄い靄のように核の表面へまとわりついていたのです。
それを私が解き、外へ流しました。
解き方は、ルーカス博士の研究記録から見つけました。
ルーカス博士も、サラ様の竜核に絡む力を解いていたのです。
記録には、こう記されていました。
『サラの核に絡む外部魔力は、放置すれば疑似核を形成する。完全封鎖は逆効果。毎夜、表層の結合を解くこと』
けれどルーカス様が亡くなり、それができなくなったのです。
だからサラ様は、眠ることを選んだ。
そして今、私は同じことを、アーヴィン様にしています。
指先が、少し震えました。
もし、今、私が死んだら。
誰がアーヴィン様を助けてくれるのでしょう。
いえ、それよりも。
彼自身が、苦しみを抱え込んで、誰にも助けを求めないような気がするのです。
絡みを解けば、アーヴィン様の呼吸は楽になりました。
けれど、日を追うごとに、その靄は濃くなっていきました。
討伐に出ていない日にも。
研究所の中にいるだけの日にも。
まるで竜核そのものが、外の力を探し、手を伸ばそうとしているみたいに。
「今日は、少し深いです」
夜、魔力視で核を覗きながら、私は呟きました。
アーヴィン様は椅子に座ったまま、静かに目を伏せています。
「痛みますか?」
「……いや」
「本当ですか?」
そう訊くと、彼は小さく息を吐きました。
「少し、痛む」
私は焦る気持ちを抑えて、絡まった糸をほぐすように、ゆっくりと解いていきました。
昨日より時間がかかりました。
そして、解き終えた後のアーヴィン様の顔色は、以前よりも悪くなっていました。
翌日も、その翌日も、それは続きました。
処置にかかる時間が増え、アーヴィン様にはベッドに寝てもらうことになりました。
「少しでも眠れるなら、眠ってくださいね。明日も討伐なのでしょう?」
私はベッドに座って靄をほどきながら、言いました。
本当は討伐に出て欲しくないのですが、今は魔獣の増加期に当たり、隊長が抜けるわけにはいかないのだそうです。
彼は少し苦しそうに、細く息を吐きました。
「ああ。負担をかけてすまない」
「負担だなんて。弟子の面倒を見るのは、導師のつとめですよ」
そう言ってしまってから、先回りして訂正します。
「もちろん、導師でなくなっても研究は続けますから、安心して四級試験を受けてくださいね」
「受けない」
「また、そういうことを……魔力の制御はもう完璧ですよ?」
そう。当初のように、私が門を作って、彼の魔力を流すようなことはなくなっていました。
それでも四級試験は頑なに受けてくれないのですから、困った弟子です。
「今日は一日学院にいたんだろう?」
「はい。ナヴィード先生の意見を聞きたくて」
専門外のことでも、しっかりと問題点を指摘してくれるので、こういう時は重宝します。
「研究はだいぶ進んでいるんですが、魔力型の問題があって……」
「エリオスと話していた」
被せるように言われました。
「エリオス? ああ、魔法省の仕事で今日も来てたんです。でも竜核のことは一切話していませんので、安心してください」
「楽しそうに話していた」
ん?
「いや、別に、お互いに近況報告をしていただけで……」
まぁ、正直に言えば、今日もイケメンだなー、と思いながら見ていましたが。
アーヴィン様は、それを見透かすような目で私をじっと見ました。
「な、なんでしょう……」
彼は何も答えず、しばらく私の目を見つめていました。
別にやましいことなんてありませんが、なんとなく気づまりで目を逸らすと、彼は「すまない」と重たい息を吐きました。
「自分がこんなに嫉妬深いとは思わなかった」
……嫉妬。
自分の顔が熱くなるのが分かりました。
いえ、嬉しかったわけではなく、恥ずかしかったのです。
だって、エリオスと私なんて、月とその辺の石くらいの違いがあります。
そんな相手に、アーヴィン様が嫉妬する理由なんてありません。
「そんな心配なんて、いりませんよ。私を好きになる人なんていませんから……」
「俺がいる」
「……物好きですよね。それが本当なら」
彼は眉間の皺を深くしました。
「まだ信用してくれないのか?」
そこにあったのは、不快感ではなく、悲しみの色でした。
私は慌てて言い訳をしました。
「アーヴィン様のことは、信用しています。でも、それとこれとは別といいますか……」
つくづく面倒くさい女です。
私がこれ以上、彼を好きにならないように、彼のことを信用しないという姑息な手法をとっているのですから。
それから余計なことを喋らないよう、靄をほどくことに集中していると、アーヴィン様がおもむろに私の手に触れました。
「……せ、施術中です」
「知ってる」
「でしたら……」
「だからこそ、君は逃げられないだろう」
「……卑怯です」
「分かってる」
彼の手に力がこめられました。
「君は、自分がどれほど魅力的か分かってない」
いきなりそんなことを言われて、うっ、と喉が詰まりました。
「そ、そんなの当然です。私はただの三級魔法使いで……」
「でも開錠して、俺を救ってくれた。今も、こうして、俺の核に触れている」
「か、可愛くもありませんし……」
「可愛い」
「それは、小動物的なあれで……」
「違う」
低い声でした。
いつもの優しい声ではありません。
けれど、怒っているわけでもありません。
ただ、そっと逃げ道を閉じるような声でした。
彼は腕を伸ばし、私の頬に触れました。
いつもなら、この時点で逃げています。
でも、今は無理です。
私はアーヴィン様の核に触れているのです。
施術の途中で、手を離すことはできません。
……ずるいです。
「君は、自分が可愛いことも知らなかったのか?」
彼は、少し呆れたように笑いました。
「その緑の瞳も」
指先が、瞼の端に触れました。
「すぐ赤くなる頬も」
頬を、親指がゆっくりと撫でます。
「強がるくせに、すぐ震える唇も」
その指が、唇に触れました。
ほんの少し。
確かめるように。
けれど、それだけで息が止まりました。
「全部、可愛い」
「……や、めてください」
声が、震えました。
恥ずかしくて死にそうです。
「嫌か?」
問われて、答えられませんでした。
嫌ではないからです。
嫌どころか、指先ひとつでこんなに心臓が跳ねる自分が怖いのです。
「リーリア」
名前を呼ばれました。
低くて、甘い声で。
「俺を見てくれ」
無理です。
今、目を合わせたら、何かが決定的に変わってしまう気がします。
それでも、彼の指が頬を支えているので、完全には逃げられませんでした。
視線を上げると、銀灰色の瞳が、まっすぐに私を見ていました。
「何度でも言う。俺は……君が欲しい」
喉の奥が、きゅっと鳴りました。
「導師としてではなく。研究に必要だからでもない」
彼の指が、唇から離れ、今度は私の手を包みました。
核に触れている私の手を。
彼の命に一番近い場所へ伸ばされた、私の手を。
「俺は、君にそばにいてほしい。君の声を聞きたい。君が笑うところを見たい。君が他の男に笑いかけると、どうしようもなく妬ける」
「……っ」
「君が怪我をした時、心臓が止まるかと思った」
その声には、痛みが滲んでいました。
「君がいなくなったら。君が俺から離れてしまったらと思うと──」
握られた手に力がこもります。
「だから、逃げるなら追う。誤魔化すなら何度でも言う。君が信じられないなら、信じられるまで言う」
真っ直ぐな瞳に、のみこまれるようでした。
今まで、私はずっと逃げてきました。
信じて、傷つくのが怖くて。
でも、もうとっくに分かっていたのです。
彼は嘘なんてつかない。
そして私は、もう引き返せないほどに、彼が好きなのだと。
「リーリア」
彼はゆっくりと身を起こしました。
「ま、まだ施術中ですよ……」
けれど、押し返そうとした手は、簡単に捕まえられてしまいました。
熱を帯びた銀灰の瞳に、体がぞくりと疼き、私は思わず目を伏せました。
彼は私の手を持ち上げ、そっと指先に口づけました。
「好きだ」
息ができませんでした。
甘い、というのは味ではないのだと、この時はじめて知りました。
喉の奥が熱くて。
胸の奥が苦しくて。
けれど、少しも嫌ではなくて。
「俺は、君の研究に向き合う目が好きだ。魔獣が怖くても、逃げずに前を見るところが好きだ」
彼は真剣にそう言うと、柔らかく微笑みました。
「照れて真っ赤になるところも好きだし、美味しいものを食べた時の満面の笑みも好きだ。それに、俺の名を呼ぶ可愛い声は、何度でも聞きたい」
「〜〜〜ッ!?」
なんなんですか、このほめ殺しは。
もう、ダメです。
死にます。
羞恥で死にます。
わずかに身を引くと、アーヴィン様は離さないとばかりに私を引き寄せ、抱きしめました。
声にならない声が、喉からもれました。
力強い腕と広い胸。
でも、苦しくはありません。
優しいのに、逃げることはできないのです。
いつも通りの、爽やかなのにどこか重たい、アーヴィン様の香り。
けれど、その近さに、頭は真っ白になっていました。
身じろぎをすると、背中と頭に添えられた手に、力が込められ、低い声が耳元に落とされました。
「逃げないでくれ」
「で、でも施術が……」
「もう少しだけ……このままで」
そんな、懇願するような声はずるいです。
私は身を固くしたまま、抱きすくめられるままになっていました。
だって、どうするべきなのか分かりません。
窓の外では、雪が音もなく降り積もっていきます。
静かな部屋には、呼吸音とわずかな衣擦れの音
だけ。
私は思わず息を止めました。
それに、この宙ぶらりんの手はどこに置けばいいのです?アーヴィン様の背中にまわすのでしょうか?
私はおずおずと手を伸ばし──
やっぱり無理!
と引っ込めました。
私の不自然な動きが伝わったのでしょう、アーヴィン様は小さく笑いました。
「……危なかった」
「な、何がです?」
「今、君から抱きしめられていたら、たぶん理性が飛んでいた」
「……っ?!」
「君に関しては、ほんとうに、もう余裕がないんだ」
アーヴィン様はもう一度、ぎゅっと私を抱きしめました。
それから、何かを抑えるように深く息を吐くと、静かに身を離しました。
……あ。
私、あんなに緊張していたのに。
こうやって温もりが去ると、なんだか残念だと思っています。
アーヴィン様は、私の頬に触れると、目を細めました。
「困らせたかと思ったが、そうでもなかったか?」
「っ……!」
バレています。
残念だと思ってしまったことが、確実にバレています。
一瞬で、顔が熱くなるのを感じました。
「赤い顔も、可愛い」
やめてください。
追い討ちをかけないでください。
「せ、施術の続きを……」
あまりにも情けない声でした。
もうそこにしか逃げ場はありません。
アーヴィン様は笑みを深め、
「はい、導師殿」
と、私の逃走に付き合ってくれました。
術式が完成すれば。
アーヴィン様が四級試験に受かれば。
研究者でも、導師でもなくなった私は、いったい何を言い訳にすればいいのでしょう。
すべての逃げ場を失った時、私はちゃんと素直になれるのでしょうか。




