第22話 二人きりの研究棟
次に目を開けた時。
私たちは、朽ちた研究棟の前ではなく、鍵花の咲き乱れる白い部屋の中に立っていました。
「これは……」
白い床。
白い壁。
そして、部屋いっぱいに咲く鍵花。
外から見た研究棟は、蔦に覆われ、苔むし、今にも森へ還りそうな姿をしていました。
けれど内部は、まるで時間が止まっているかのように、どこも傷んでいません。
父とマイヤー博士が、今にもあの扉の向こうからやって来そうな雰囲気さえありました。
「父が、ここにいたのか」
アーヴィン様が、低く呟きました。
私も、ゆっくりと部屋を見回します。
私の父も、ここにいた。
私の知らない父が、ここで研究をしていた。
そう思うと、胸の奥が少しだけ痛くなりました。
それから、私たちは内部を見てまわりました。
実験室、研究室、資料室、仮眠室。
それから、簡素な台所まで。
台所の棚には、茶葉の缶が二つ並んでいました。
ひとつには「ルーカス用」と几帳面な文字で書かれています。
もうひとつには「エリク用。勝手に飲むな」と乱雑な文字。
……父たちは、ここでお茶を飲みながら研究していたのでしょうか。
研究棟には、生活するのに必要なものは一通り揃っていました。
長い間、人が戻ってこないことを前提に作られた場所ではありません。
むしろ、明日にでも誰かが帰ってくることを待っているような場所でした。
「内部が、こんなにも綺麗に保たれているとは……」
「保存魔法でしょうか。マイヤー博士の魔法かもしれません。いえ、鍵花がこれだけ咲いているなら、父も何か余計なことをしていそうです」
「余計なことなのか」
「私の父ですから」
なにせ、鍵花の種を撒いて歩いていた人です。
きっと間違ってはいません。
私はさっそく、研究室や資料室を探し始めました。
二人の残した研究成果があれば、それを元にアーヴィン様の核を外部の力から守る術式を完成できるはずです。
アーヴィン様も、マイヤー博士の使っていたであろう机や、棚を見ています。
会ったことのないお父様を窺い知ることのできる何かを探しているのかもしれません。
私はしばらくの間、資料を集め、読み込むことに没頭していました。
竜核の観察記録。
魔獣核との比較。
鍵花を用いた認証式。
可変式の錠。
そして、未完成の魔力門。
ここは私にとって宝の山でした。
文字や術式の向こうに、父とマイヤー博士が今もいて、研究や議論を重ねている姿が見えるようです。
私は一人じゃない。
彼らと一緒なら、きっとアーヴィン様を救える。
そんな気持ちになりました。
何時間経ったのか、ふと、何だか美味しそうな匂いが鼻先をかすめました。
顔を上げ、時計を見ると、すでにお昼を回っています。
私は研究ノートを抱えたまま、匂いを辿っていきました。
台所を覗くと、アーヴィン様が何か調理をしていました。彼は私に気付くと、優しく笑いました。
「休憩するか。ちょうどスープができたところだ」
彼はそう言って、私を席につかせました。
そしてスープやパン、卵料理とサラダを手早く盛り付けると、テーブルに並べました。
「……ありがとうございます。すみません、お手伝いもせず」
「いや、君は俺のために調べてくれているんだから。礼を言うのはこちらの方だ」
私はまずスープを口にしました。
「ん……! 美味しいです!」
野菜の味が溶け込んだ、優しいスープです。
塩加減が絶妙で、優しいのに物足りなさはありません。
「そうか。それはよかった」
食べ始めると、お腹が空いていたことを思い出し、私はぱくぱくと平らげていきました。
視線を感じて、ちらりと上を向くと、アーヴィン様が目を細めて、なんだか嬉しそうに私をみていました。
「あの……何か?」
「いや。新婚みたいだな、と」
思わずスープを吹き出すところでした。
「し、新婚……」
「恋人の日を除けば、二人で食事をするのは初めてじゃないか?」
確かに、隊舎でも学院でも神殿でも、常に誰かがいる環境でした。
と言うより、今、気づいたのですが。
ここは転移魔法でしか入って来れない、隔絶した場所です。つまり、食事どころか、何もかも完全に二人きりです。
まずいです。
意識したら急にドキドキしてきました。
とりあえず、話題を変えましょう。
「えっと、いつの間に買い物に……?」
「ああ、市場に転移したからすぐ済んだ。先に学院へ寄って、ナヴィード先生の許可を得た。転移制約も外してもらったから問題ない」
そうですか。
五級魔法使いが、転移魔法の制約を外してもらったんですか。
今さらですが、どうして三級の私が導師をしているのでしょう。
「資料は持ち出さない方がいいだろうから、君はしばらくはここで研究することになる、とナヴィード先生が仰っていたが、そうなのか?」
「はい。竜核の研究もありますから、外に持ち出せば、余計な火種を生みかねません」
「寝泊まりもここで?」
「はい。アーヴィン様がいなければ、私は移動もできません」
「そうか」
アーヴィン様の唇が微かに上を向いたのを、私は見逃しませんでした。
「あ、今導師をバカにしましたね?」
アーヴィン様は目を丸くしました。
「まさか」
それから、わずかに身を乗り出し、
「つまり、ずっと二人きりだということだろう? それが嬉しいだけだ」
と言って、私の手に手を重ねました。
自分でも、顔が赤くなるのが分かりました。
このままでは私の心臓が保ちません。
「……あの、アーヴィン様」
「ん?」
ん? じゃありません。
そこは「何だ?」でお願いします。
「その、研究の差し障りになりますので……」
「休憩中だ」
「それは、そうなんですけど、後で思い出すと言いますか、その」
「思い出してくれるのか?」
握る手に力が込められました。
逆効果でした。
「いや、そのですね……」
「では、いつならいい? 寝る前か?」
寝る前。
……寝る前?!
「待ってください、まさかアーヴィン様までここに泊まるつもりですか?!」
「念の為、部屋は整えておいた」
仕事が早い。
……ではなく!
「明日からは騎士団の仕事に戻るんですよね? ということは泊まるのは隊舎では? 隊長がいなくて大丈夫なんですか?」
「大丈夫だ。カイルがいる」
「で、でも……」
「研究者は没頭すると寝食を忘れるから、支えてやってくれ、とナヴィード先生が」
あの師匠!!
支えてやってくれ、だなんて殊勝なこと言って、絶対に面白がってます。
「でも何より、俺が君のそばにいたい。ダメだろうか?」
私はその真っ直ぐな視線を受け止めきれず、赤い顔のまま、うつむきました。
「アーヴィン様は」
「うん」
「サラ様に似たんでしょうね……」
「母上に?」
「はい。会うたびに愛情を示していたと仰っていましたから」
「それなら、似てよかった」
「よくありません!」
「男として君を口説くと言っただろう?」
「言いました、言いましたけど……っ!」
「まだ信用できないか?」
するりと指が絡められ、私は息をのみました。
顔を上げられないまま、スープの湯気を見つめるしかできません。
「リーリア」
至近距離で低い声が落とされました。
そして、こつん、と額が触れ合いました。
もう二度と顔を上げられない気がします。
「このまま共に過ごすだけで、君の信用を得ることができるんだろうか? 焦ってはダメだと分かっているが、不安で仕方がないんだ」
私は何も答えられませんでした。
頭の中の時間が止まったように、手と額の熱だけを感じていました。
「こんな気持ちになったのは君だけだ。どうしても君が欲しい。君のすべてが」
……もう、無理です。限界です。
「……け、」
「け?」
「研究に戻りますので!」
私はそう叫んで勢いよく立ち上がりました。
「リーリア」
「戻ります!」
「すまない。少し、急ぎすぎた」
その声があまりにも悲しそうで、足が止まりかけました。
だめです。
今、振り返ったら負けます。
何に負けるのかは分かりませんが、とにかく負けます。
「スープ、ごちそうさまでした!」
私は研究ノートを抱え、逃げるように資料室へ戻りました。
心臓は、まだうるさく鳴っています。
信用できないわけではないのです。
怖いのです。
信じてしまったら、もう戻れない気がするから。




