第20話 白い竜
大聖女様に案内され、私たちは聖堂の最奥へ進みました。
そこには、小さな扉がありました。
鍵穴も取っ手もなく、ただ、扉の中央に、淡い光を帯びた聖印が刻まれています。
大聖女様がそっと手をかざすと、聖印が水面のように揺らぎました。
「ここから先は、聖術も魔法も禁止です」
先ほどまで親戚のおばあちゃんのように私の手を握っていた大聖女様とは思えない、静かな声でした。
扉が、音もなく開きました。
その先には、下へ続く階段がありました。
古い、石造りの階段です。
壁にも床にも、淡い光が薄く流れていて、まるで聖堂そのものが呼吸しているかのようです。
アーヴィン様は何も言わず、その階段を見下ろしていました。
最初の一歩を踏み出すことに、ためらっているようにも見えました。
私はそっと横顔を窺いました。
魔獣討伐特務隊の隊長。
私の弟子。
けれど今の彼は、どれでもありません。
母に会いに行く、一人の息子でした。
「アーヴィン様」
小さく呼ぶと、彼がこちらを見ました。
私はただ、手を差し出しました。
アーヴィン様は一瞬だけ目を伏せ、それから私の手を取りました。その手は、いつもより、少しだけ冷たく感じました。
私たちは、大聖女様の後について階段を降りていきました。
広い地下空間に、足音だけが反響します。
そこは幾重にも結界が張られていて、進むほどに、空気が変わるのが分かりました。
冷たい空気の中、魔力とも聖力とも言い切れない不思議な力が、底の方から静かに流れてきます。それは、少しアーヴィン様に似た力のように感じました。
やがて、階段の先に、淡い光が見えました。
入り口と同じ、聖印の刻まれた扉があります。
大聖女様が最後の段を降り、その聖印に手をかざしました。
聖印が揺らめく中、アーヴィン様の手に力が込められました。
私は無言でその手を握り返しました。
扉が開くと、中には深い深い闇が広がっていました。
けれど、よくよく目をこらして見ると、奥の方に淡く光る、大きなものがありました。
階段を降りる毎に感じた、あの不思議な力の塊のようでした。
アーヴィン様は、その力に導かれるように、闇の中に足を踏み入れました。
一歩。
また一歩と進むにつれ、力が濃くなっていきます。
眠るように、漂い、流れる力。
その時。
突然、その力が形状を変えました。
まるで周囲の気配を探るかのように、細く、鋭くなったのです。
心臓が跳ね、呼吸が止まりました。
まるで、刃の切先を喉元に当てられたかのようでした。
アーヴィン様の手からも、じわりと緊張が伝わってきます。
けれど、それは一瞬のことでした。
再び、力は穏やかになり、淡い光はどんどんと明るくなっていきました。
闇が払拭され、巨大な地下空間が白く浮かび上がります。
そして、その中央に。
白い竜が眠っていました。
大きい。
けれど、恐ろしくはありません。
長い首をゆるやかに伏せ、翼をたたみ、白銀の鱗を淡く輝かせている姿は、まるで月明かりそのものが形を得たようでした。
私は無意識に、アーヴィン様の手を握りしめました。
彼は、動きませんでした。
ただ、眠る竜を見つめています。
「サラ」
大聖女様が、優しく呼びかけました。
「あなたの子が来たわ」
その声が地下空間に静かに広がります。
しばらく、何も起こりませんでした。
けれど次の瞬間、白い竜のまぶたが、かすかに震えました。
空間を満たす光が、ゆっくりと揺らぎます。
竜が、目を開けました。
銀灰の瞳でした。
アーヴィン様と同じ、静かな色。
「あら」
竜の声が、直接胸の奥へ響きました。
優しくて、少し眠たそうで、でもどこか楽しげな声です。
「大きくなったのね」
アーヴィン様の手が、ぴくりと動きました。
「母……上」
その声は、ひどく掠れていました。
白い竜は、ゆっくりと瞬きをしました。
「ええ。あなたのお母さんよ」
たったそれだけの言葉でした。
けれど、十分な一言でした。
アーヴィン様は、泣き笑いのように眉を下げ、目を細めました。何か言いたいのに、喉の奥でつかえているように、唇がわずかに震えました。
私は、手を離すべきか迷いました。
これは母子の時間です。
私がここにいていいのか分かりません。
そう思って、そっと指の力を緩めようとした瞬間、アーヴィン様の手が強く握り返してきました。
白い竜──サラ様は、そんな私たちをじっと見つめました。
それから、ふわりと目を細めます。
「あなた、もう番を連れてきたの?」
「はい」
「違いますよ?!」
反射でした。
反射で否定しました。
なぜアーヴィン様は即答したのですか。
ここは母子感動の再会の場面ではなかったのですか。
どうして初対面の竜のお母様に、番認定されているのですか。
サラ様は不思議そうに首を傾げました。
「違うの?」
「違います。私は導師です」
「導師」
サラ様はゆっくり瞬きをしました。
「人間は、番のことをそう呼ぶのだったかしら?」
「呼びません!」
「似たようなものだろう」
「アーヴィン様?!」
母子で私を追い詰めないでください。
大聖女様が後ろで口元を押さえています。
笑っていますね?
絶対に笑っていますね?
サラ様は、楽しそうに喉を鳴らしました。
「だって、あなたの錠の気配が、アーヴィンの核に触れているわ。竜が核を預ける相手なんて、番くらいでしょう?」
「ち、違います! 魔法処置です! 導師として必要な処置です! あと錠ではなく門です」
「でも不思議ねぇ」
サラ様は小さく首を傾げました。
ちっともこちらの話を聞いてません。
「あなたから、エリクとララの気配がするのだけれど」
突然発せられた両親の名に、ぴくっ、と肩が跳ねました。
私が答えられないでいると、大聖女様が、にこりと笑いました。
「リーリアちゃんは二人の娘だもの」
「まぁ!」
サラ様は目を見開き、なぜか胸を張りました。
「だから言ったでしょ? エリクはララのことが好きだって。ルーカスはやっぱり鈍いのよ」
アーヴィン様のお父様、ルーカス・マイヤー特級魔法使いは、どうやら鈍かったようです。
名前だけの人物が、どんどんと体温を持つような感覚に、私とアーヴィン様は目を見合わせて笑いました。
「ほら、お互いに番の目をしているじゃない。人間はどうして愛情を隠そうとするの? 不思議な生き物よねぇ……そこも好きなのだけれど」
サラ様は心底わからないと言ったふうに、ため息を吐きました。
「ルーカスだって、どう見ても私のことが好きなのに、なかなか認めなかったもの。私は会うたびに愛情を示していたのに」
「あなたが押しすぎるから、困惑してらしたのよ」
大聖女様は懐かしそうに目を細めながら、苦笑しました。
サラ様も、何かを思い出すように優しく微笑み、それから、ふと真顔になりました。
「アーヴィン。もう少しこちらへ来てちょうだい」
私は、アーヴィン様の手を離しました。
彼はゆっくりと、サラ様の元へ進みました。
「本当に、大きくなって」
サラ様はアーヴィン様に顔を寄せ、そっと頬を押し当てました。
「ごめんね、ひとりにして」
「いいえ」
その声は、少し震えていました。
「仕方のない事情だったと、分かっています」
サラ様は、目を伏せました。
「でも、あなたは怒ってもいいのよ。あんなに小さいあなたを、私は……」
泣き出しそうな声に、胸が詰まりました。
愛する夫を失い、可愛い盛りの子どもを人に預け、自分は眠らなくてはならないなんて、どれだけ辛かったことでしょう。
「母上」
アーヴィン様は優しく、語りかけるように言いました。
「大聖女様をはじめ、神殿の方々には本当によくしていただきました。もちろん、寂しいと思ったこともありましたが、今の私にとっては、母上にお会いできただけで十分なのです」
サラ様の瞳が揺れました。
「……大人だわ」
泣き笑いのような声でした。
「すっかり大人になってしまって。私もあなたの成長を見たかったわ……。ごめんなさいね、自分のことを言ってしまって。あなたには何の関係もないことなのに」
アーヴィン様は首を横に振りました。
「いいえ。そう言ってくださるだけで、寂しかった幼い私も報われます」
「やっぱり大人だわ。私、息子に大人度を越されてしまったわ」
その焦ったような声音に、大聖女様が笑いました。
「本当にね。そもそもアーヴィンはルーカス様に似て、小さな頃から落ち着いていたもの」
「ショックだわ……。でもそうよね。もう番を連れてくるような年齢だものね」
ですから番ではありません、と言える雰囲気ではありません。母子ともに外堀を埋めるのがうますぎます。
「リーリアちゃん」
突然話を振られて、私は背筋をぴんと伸ばしました。
「はい」
「ルーカスの掛けた錠は、どうなったの?」
私とアーヴィン様は目を見合わせました。
苦しかった過去を伝えることを躊躇ったのです。
「私が説明するわ」
大聖女様が、一歩前に出ました。
そして、魔法省との関係が悪くなったこと、私の両親が亡くなって、アーヴィン様の錠を調整できなくなったこと、神殿ではどうにもならなかったこと、そして、最終的に私が開錠したことを、淡々と説明しました。
「この子たちは、竜核について聞きにきたのよ」
「竜核……。でも私は自分のことなのに、よく分かっていないわ。とにかくなんでも取り込んでしまうの。自分の意思など関係なく」
サラ様はそう言うと、はっと気付いたように顔を上げました。そして、アーヴィン様の胸の辺りをじっと見つめました。
「……あなた、靄を取り込んでいるわね」
その声は、少し震えていました。
アーヴィン様は、ほんの少しためらった後、サラ様を真っ直ぐに見ました。
「私も、災厄に転じることがあるのでしょうか」
その問いにサラ様が息をのみます。
私も喉の奥が詰まるようでした。
核を封印してくれと言った、アーヴィン様の固い声がよみがえったのです。
「それは……」
けれど言葉は続かず、沈黙が落ちました。
サラ様は何かを探すように視線を動かし、それから口を開きました。
「完全な竜核ではないから、災厄になるかどうかは分からないわ。でも、核になるような、硬い部分ができかけてる……苦しいでしょう、アーヴィン」
サラ様にそう訊かれ、彼はちらりとこちらを見ました。
隊舎の中庭で私が尋ねた時は誤魔化していましたが、彼はようやく「……少し」と答えました。
「ルーカス様の研究資料などは残っていませんか? 公式には、何も発表されていないんです」
私がそう聞くと、サラ様は、記憶を辿るように視線を動かしました。
「ねぇ、さっきリーリアちゃんは魔法学院の森でアーヴィンを見つけたと言っていたわよね。アーヴィンはどうしてそんなところにいたの?」
問われ、彼は小さく首を振りました。
「分かりません。魔獣討伐中に苦しくなり、気付い時には、そばにリーリアがいました」
私は、はっとしました。
……確かに。
あれからずっと忙しくて、深く考えていませんでしたが、魔法学院の森にも警戒魔法が張られています。
それに、大森林と直接繋がっているような森ではありません。
どうしてアーヴィン様は、警戒網に触れることもなく、あんなところに倒れていたのでしょう。
……考えられることは、ひとつ。
ルーカス様が転移魔法を組まれていたのでしょう。錠の限界が来たら、あの場所へ転移するように。
そんなことが可能なのかは分かりませんが、特級魔法使いの人外っぷりはナヴィード先生でよく理解しています。
でも、どうして魔法学院ではなく、森だったのでしょう。
「場所まで聞いていなかったのだけれど……」
とサラ様が小首を傾げました。
「ルーカスとエリクは、どこかに秘密の研究所を持っていたそうよ。もしかして、魔法学院の森だったのかしら」
その言葉に、あの時の森の様子をまざまざと思い出しました。
点在する鍵花。
朽ちかけた建物。
あれは、父とルーカス様の研究所だったのではないでしょうか。
「……鍵花」
私は、ぽつりと呟きました。
サラ様の銀灰の瞳が、わずかに見開かれます。
「鍵花が咲いていたの?」
「はい。森の奥へ誘うように、点々と」
「なら、間違いないわ」
サラ様は懐かしむように目を細めました。
「エリクが作った道標よ。あの人、鍵花の種を撒きながら歩くような人だったから」
鍵花の種を撒きながら……。
お父さん、あなた何やってたんですか。
「父上は、そこへ私を逃がすようにしていたのですね」
アーヴィン様が低く呟きました。
サラ様は、少し寂しそうに微笑みました。
「きっとそうよ。あの人は用心深かったもの。自分がいなくなった後のことまで、考えていたのでしょうね。でも、エリクまで早くに亡くなるなんて……」
サラ様は私に向き直りました。
「あなたも、辛い思いをしたのね。私にとっても、エリクとララは、大切な友人だったの。でも、その娘であるあなたが、アーヴィンを助けてくれるなんて。本当にありがとう、リーリアちゃん」
私は、胸の奥が熱くなるのを感じました。
父たちの研究所。
ルーカス様がアーヴィン様を逃がそうとした場所。
そして、私がアーヴィン様を拾った場所。
あの森で、私たちが出会うことは、必然だった──。
……いえ、それは少し都合よく考えすぎかもしれません。
あの時、私が魔法薬に使う素材をうっかり切らしたのは、偶然ですから。
けれど少なくとも、父たちはアーヴィン様を助けるための場所を残していた。
そして私は、鍵花に誘われて、そこへ辿り着いたのです。
運命ではありません。
けれど、人の思いが紡いだ細い糸を、手繰り寄せることはできたのです。
「行ってみるといいわ」
サラ様は、静かに言いました。
「ルーカスとエリクが残したものが、きっとそこにある。私の核ではなく、アーヴィンのために作られたものが」
アーヴィン様が、こちらを振り返りました。
「着いてきてくれるか?」と言わんばかりの遠慮がちな視線に、思わず笑ってしまいました。
「行きましょう、アーヴィン様」
手を伸ばすと、彼も微笑んで私の手を取りました。
サラ様は静かに息を吐き、目を細めました。
「会えてよかったわ。アーヴィン」
「私もです。母上」
「次はリーリアちゃんとの結婚式ね。必ず起こしてね」
「はい」
もう、誤解を解くことは諦めました。
これからまた長い眠りにつく人に、負担をかけてはいけません。
サラ様は安心したように、そっと目を閉じました。
柔らかな寝息が聞こえる頃、地下空間は再び、ゆっくりと闇に沈んでいきました。
私たちは、固く手を握りました。
父たちの研究所。
鍵花の導いた、森の奥。
そこに何が残されているのかは、まだ分かりません。
それでも、行かなければなりません。
今度こそ、彼に優しい術式をかけるために。




