第19話 アーヴィン様のご両親
長い沈黙が落ちました。
人と……竜?
頭が混乱しました。
大聖女様の言葉でなければ、笑い飛ばしていたかもしれません。
でも、アーヴィン様がその身に抱える、あの核が本当に竜由来のものであるなら。
膨大な魔力量も、外部から力を取り込んでしまうことも、説明がつくのかもしれません。
「両親は……どうなったのです?」
アーヴィン様は静かにそう尋ねました。
その声音に、胸がつきんと痛みました。
両親がどうなったかを知りたい。
それは、彼にとって、人と竜の子であるという事実よりも大切なことなのでしょう。
大聖女様は、言葉を選ぶように、ぽつりぽつりと話し始めました。
「お父様は、あなたが小さい頃に病気で急死なさったの。名前はルーカス・マイヤー。特級魔法使いだったわ」
……ルーカス・マイヤー。
それは、父との共同論文に載っていた名前です。
「そして、お母様は……」
大聖女様はそう言うと、足元に視線を落としました。
「この聖堂の地下空間で、眠っているわ」
──地下で眠る竜。
『星を食べたかった竜』の最初のページは、地下から始まります。
小さな男の子の竜が地下から出てきて、初めて夜空を見上げます。
空には満天のお星さま。
そして、「ああ、あのキラキラが食べたいなぁ」と思うのです。
アーヴィン様も同じことを思ったのでしょう。
彼は、絵本の一文を誦じました。
「お母さん、行ってきます。世界には綺麗なものがたくさんあるから……」
それから母竜はこう言うのです。
「お母さんはね、魔法使いのキラキラの魔法が大好きなのよ。いってらっしゃい。気をつけて」
それから母竜は眠ってしまうのです。
大聖女様が、ふふ、と笑いました。
「よく覚えているわね。あれは、あなたのお母様が書かれた絵本なのよ」
アーヴィン様は、何も言いませんでした。
ただ、目を伏せたまま、ひどく長い間、動きませんでした。
その横顔を見て、私はようやく気づきました。
この人は今、初めて母の声を聞いたのです。
絵本の中に残っていた、母の言葉を。
「あなたのお母様は、あなたに外の世界を見てほしいと願っていたわ」
大聖女様は、懐かしむように目を細めました。
「竜としてではなく、災厄としてでもなく、ただ一人の子どもとして。綺麗なものを見て、誰かを好きになって、美味しいものを食べて、笑って生きてほしいと」
そして、やり切れないように、手をぎゅっと組みました。
「お父様は、そのためにあなたの核に錠を掛けたの。魔力が暴発しないよう、外部の魔力を取り込まないよう、とてもきつい錠だと聞いたわ。もちろん、あなたが大きくなる前に違う錠を開発しようとなさっていたのよ。でも亡くなってしまって……」
それから私の方を向いて、弱く笑いました。
「その後も、数年はリーリエ博士が錠の調節をしてくださっていたの。でも、魔法省に目をつけられてしまって……最後に調整したのは、アーヴィンが十歳の時だったわ」
十歳。
それからずっと、彼は合わない錠に苦しめられてきた。
「その後、リーリエ博士にも連絡がとれなくなってしまったの。魔法省や学院に問い合わせても何も教えてくれなくて……ナヴィード宛てに手紙を送ったのだけれど、彼から返事はなかったわ。今思えば、魔法省か学院のどこかで握り潰されたのかもしれないわね」
どうして、そんなことを。
私は強く拳を握りました。
組織に関することではないのに。
ただ、一人の人間が苦しんでいる。
神殿の方たちは、それを救いたかっただけなのに。
けれど、大聖女様は私の考えを読んだように、静かに首を振りました。
「魔法省が悪いというわけではないのよ。あちらは人類の進歩を心から願い、神殿は幸福を願う。竜、魔法、聖術、結界、それらの取り扱いで、我々は昔から対立してきたわ。でも、唯一手を取り合えるのが、魔獣対策だったの。だから王国聖騎士団のような、二つの組織にまたがるものがあるのよ」
人類の進歩。
人々の幸福。
どちらも、きっと間違ってはいません。
魔法省は、未知のものを解き明かし、使える形にしようとする。
神殿は、未知のものを畏れ、守り、時には隠そうとする。
どちらも誰かのためなのに。
その間に落ちた人は、置き去りにされる。
「竜核の研究も、そうだったわ」
大聖女様は静かに続けました。
「竜核の研究はね、一人の神官が、親を失った竜の幼子を拾って育てたことが始まりだったの。それが、アーヴィンのお母様のサラだったのよ」
竜の幼子を、神官が育てた。
それは絵本のような話でした。
けれど、大聖女様の声には、冗談の響きはありません。
「私たちは、サラを外に出すつもりはなかったのだけれど……」
大聖女様は頬に手を当て、遠くを見ながらため息をつきました。
「あの子、ほんとにやんちゃな子で……。魔獣を倒しに行ったり、魔法を習いたいと、森に住む魔法使いのところへ押しかけたり。ある日、見慣れない女の子が現れたと思ったら、変化の魔法を習得したサラだったのよ」
大聖女様は懐かしい光景を思い浮かべるように、目を細めました。
「あの子、人間の姿になったんだから魔法学院にも入れると思いこんで、正門から堂々と乗り込もうとして……」
私は、そこで思わず吹き出してしまいました。
魔法学院には、警戒魔法が張り巡らされています。許可のない人間は弾かれるか、檻の中に転移させられてしまうのです。
アーヴィン様のお母様の場合、おそらく檻の中へ直行だったでしょう。
膨大な魔力を持つ者が触れたら、そうなります。
「もしかして、そこで出会ったのが、ルーカス様だったのですか?」
私が尋ねると、大聖女様は懐かしそうに微笑みました。
「ええ。お互いにものすごく驚いたらしいわ」
私とアーヴィン様は目を見合わせて、小さく笑いました。
突然檻の中に閉じ込められた竜の娘と、膨大な魔力を検知した特級魔法使い。
驚くに決まっています。
それから、大聖女様は微笑みを消して、重いため息を吐きました。
「でも、魔法学院に行けば、サラの存在が明るみに出ることは必然だったわ。ルーカス様は報告しなかったそうだけれど、そういうものってどこからか自然に漏れるものでしょう? 魔法省は竜核の共同研究を神殿に持ちかけてきたの」
大聖女様の顔には、それが過ちだったと言うような、苦悶の色が浮かびました。
「研究が進むにつれて、サラの竜核はありとあらゆるものを取り込むようになってしまったの。魔力、聖力、魔獣の靄。そして、彼女は災厄に転じた」
災厄。
直近の災厄といえば──。
「その時のサラには、意識がなかったそうよ。でも人を傷つけてはいけないと、心のどこかで思ったのでしょうね。魔法学院から大森林へと飛び、そこで竜の本能を解き放ったの。サラを止めたのはルーカス様だったわ」
それが、三十年前に起きた、大森林氷結の真実。
大森林氷結は、たまたまあの場所で起きたのではなかった。サラさんが、必死で堪えて、飛んだ結果だった。
「……魔法省からすれば、竜核は人類が外部魔力を扱う未来を切り拓く鍵だったのでしょう。けれど神殿からすれば、竜核は可愛いサラそのもの。そして、一歩誤れば災厄を生むもの。外に出してはいけないものだと判断しました」
その言葉に、アーヴィン様は目を伏せました。
「……だから、地下に閉じ込めるしかなかった」
その声は辛そうでしたが、大聖女様を責めるような口調ではありませんでした。
大聖女様は、アーヴィン様の腕にそっと触れました。
「サラは、自分から地下で眠ると言ったのよ。あんなに外の世界が大好きで、いつも飛び回ってるような子だったけれど、災厄になりたくない、と言って。その頃にはあなたも生まれていたから、余計にそう思ったのでしょうね。ルーカス様が亡くなった後は、アーヴィンを人として育てて欲しいと、泣きながら頼まれたわ。それから、長い眠りについたの」
大聖女様は愛おしそうに、足元を見ました。
ここの地下に、外の世界が大好きだった竜が眠っている。
星を食べたかった竜。
魔法使いのキラキラの魔法が好きだった竜。
そして、アーヴィン様のお母様。
絵本の中の竜は、ただの物語ではありませんでした。
アーヴィン様もしばらくの間、床を見つめていました。
それから、大聖女様をまっすぐに見ました。
「会えますか」
大聖女様は、少しだけ目を伏せました。
「目を覚ますかどうかは分からないわ。サラは眠り続けることで、竜核を静めているから……」
けれど、何かを思い出したように、小さく笑いました。
「でも、あなたが来たと知れば、きっと目を覚ますわね。そういう子ですもの」
アーヴィン様の喉が、小さく動きました。
「会いたいです」
その声は、竜殺しの騎士様のものではありませんでした。
母に会いたいと願う、ただの息子の声でした。




