第15話 恋人の日は心臓に悪いです③
「医者は、目覚めたら部屋に戻っていいと言っていた。俺の部屋と君の部屋、どっちがいい?」
……部屋。
いやいやいやいや!
それはダメです!!
何かされるとは思いませんが、この雰囲気で部屋に行くのはまずいです!いや、何もされないなら行ってもいい……のでしょうか?
いや!
万一ということもあります。
そうなったら、流される自信しかありません。
固まっていると、アーヴィン様は困ったように笑いました。
「そんなに警戒しなくても何もしない……と言いたいところだが、正直、俺も自信がない」
ないんですか?!
「しょ、食堂はどうでしょう」
「他の騎士の前で口説くのか?」
「口説かないでください」
人目がなくて安全なところ……。
「中庭はどうでしょう」
「中庭?」
「少し、風に当たりたいです。医務室の匂いが……」
それに、暗いところでないと、赤い顔がバレてしまいます。
アーヴィン様は、少し考えてから言いました。
「抱いていこうか?」
「……歩けます」
「そうか……」
……ちょっと残念そうに言わないでください。
それから私は一度部屋に帰りました。
魔法使いのローブに着替え、クッキーを持って中庭へ行くと、アーヴィン様が紅茶を淹れてくれました。野営用の保温魔導具から、ごつい保温カップに。
紅茶を注ぐ手元を見ていると、彼は苦笑を浮かべました。
「こんなものしかなくて、すまない。大聖女様に勧められて紅茶を買ったものの、器にまで気が回らなかった」
ふふ。アーヴィン様らしいです。
……って、待って。
大聖女様に勧められて?
紅茶を?
そうでした。
大聖女様という存在がいたのでした。
つまり私は手の届かない女性の代わり……?
「どうした?」
「いえ! 何も」
聞いてみましょうか。
大聖女様は、あなたにとってどんな存在なんですか。
彼女と過ごせないから、私と一緒にいるんですか。
……いや、無理。
聞けません。
ちょっと口説かれたからって彼女面するとか、勘違いにもほどがあります。
もしかして、アーヴィン様は口説くのが礼儀の文化圏で育った人かもしれません。
挨拶代わりに「君が欲しい」と言う文化圏。
ありますか、そんな文化圏。
……ない気がします。
でも、油断は禁物です。
警戒を怠ってはいけません、リーリア。
私は気持ちを落ち着けようと、紅茶を一口飲み、目を見開きました。
香り付けはされていないのに、紅茶本来の香りが立って、角のない柔らかさが静かに喉へ落ちていきます。
そして一滴の雑味もなく、ただ上質な余韻が残りました。
私が朝に飲んでいる、薄い紅茶とは訳が違います。
さすが大聖女様の選んだ品です。
こんなところでも負けました。
でも、美味しい……。
しばらくうっとりしていると、アーヴィン様に訊かれました。
「紅茶、口に合うか?」
「はい! すごく美味しいです」
私があまりに笑顔だったのでしょう。
彼は少し面食らったように瞬いた後、微笑みました。
「よかった。君と飲みたかった」
「……っ」
飲みかけた紅茶を、吹き出すかと思いました。
「く、クッキー、どうぞ」
誤魔化すように差し出しましたが、彼は気にした様子もありません。
やはり口説く文化圏出身では?
包み紙を外し、箱を開けると、彼は錠前型クッキーを一枚とって笑いました。
「鍵穴の形にジャムが塗ってある」
「はい。大聖女様に対抗しました」
言ってから、しまったと思いました。
アーヴィン様が首を傾げます。
「対抗?」
「忘れてください」
「なぜ大聖女様に?」
「本当に忘れてください」
アーヴィン様は、小さく笑ってクッキーを食べました。
サクッ、と音がします。
「美味い」
その一言で、胸の奥がじんわり温かくなりました。
紅茶は高級で。
カップはごつくて。
私のクッキーは少し不格好で。
怪我をした腕は、まだ少し重い。
それでも、恋人の日の夜は、思っていたよりずっと静かで、温かいものでした。
「ありがとう、リーリア」
アーヴィン様の手が、頬にそっと触れました。
大きくて、温かな手。
心臓がひっくり返るかと思いました。
「リーリア」
その甘い声は反則です。
口説くというのは、口で説くものです。
頬に触れたり、声で示すものではありません。
ましてやそんなふうに顔を近づけるものではありません。
「いや、あの、その、ですね……」
情けない声しか出ませんでした。
拒絶するべきなのは分かっています。
でも、私の手は、軽く押し返すように彼の胸に当てられただけでした。
その時。
大森林での違和感がよみがえりました。
アーヴィン様の胸元。
奥で脈打つ、核。
あの時、意識を失う直前に見えかけた、彼自身のものではない魔力。
私ははっとして、彼の胸に当てた手へ意識を集中させました。
「……アーヴィン様」
「リーリア?」
「少し、待ってください」
声が震えていました。
今度は照れではありません。
恐怖でもありません。
もっと別の、研究者としての直感です。
アーヴィン様は、すぐに体を離しました。
「どうした」
その声は、もう甘くありません。
隊長の声です。
切り替えが早すぎます。
助かります。
でも少しだけ惜しいと思ってしまった私は、たぶん末期です。
いえ、今はそれどころではありません。
私は魔力視を開きました。
魔力門は、戦闘後の乱れを残しているものの、壊れてはいません。
問題はその奥です。
深く沈められた、大きすぎる核。
その周囲に、アーヴィン様自身の魔力とは違うものが、薄く絡んでいました。
黒い靄の名残。
大森林で見た魔獣の魔力に、とてもよく似ています。
「……魔獣の魔力?」
思わず呟くと、アーヴィン様の表情が険しくなりました。
以前、アーヴィン様は箱庭結界の聖力について、外から取り込んでいる、と言いました。
アーヴィン様の中にはないはずの力を、外から借りているのだと。
でも。
魔力まで。
それも、魔獣由来の乱れた魔力まで、取り込んでしまうのですか。
「アーヴィン様、何か自覚はありますか?」
「……いや、特には」
けれど、私には分かりました。
この人は、少しの痛みなど我慢してしまうのです。
「大森林で、魔獣の魔力に触れた感覚は?」
「……戦闘中は、周囲の魔力が濃いとは感じた」
「取り込んだ感覚は?」
「分からない」
分からない。
その言葉が、妙に怖く聞こえました。
普通の魔法使いは、自分の魔力を扱います。
聖女様は、自分の中に宿る聖力を扱います。
外にある力を、その場で取り込んで、自分の術として扱う。
まして、魔獣由来の魔力まで、体内に引き込む。
そんなこと、普通はできません。
できるとしたら、それは──
私はそこで思考に錠を掛けました。
勝手に結論を出してはいけません。
でも、見なかったことにもできません。
「アーヴィン様。先日、聖女様にお願いした資料の閲覧許可はまだ下りないでしょうか」
「こちらにはまだ何も連絡はないが……」
アーヴィン様はそう言って、少し考えるように宙を見ました。
「大聖女様に直接お会いした方が早いかもしれない」
大聖女様に。
お会いする。
心臓がどきりと跳ねました。
「何を調べる」
私は彼の胸元に手を当てたまま、ゆっくり息を吸いました。
「あなたに掛けられていた錠と、それを掛けた人について何か分かれば……」
アーヴィン様の目が、わずかに揺れました。
「今の技術では、外から入ってくる魔力を防ぐことはできません。そもそも想定外です。最初の錠が何を守ろうとしていたのか、そこから調べる必要があります」
沈黙が落ちました。
さっきまで、頬に触れられて、顔を近づけられて、心臓がどうにかなりそうだったはずなのに。
今、私たちの間にあるのは、紅茶でもクッキーでもなく、アーヴィン様の胸の奥にある見えない錠でした。
恋人の日の夜に、何をしているのでしょう。
でも、これは私が見なければならないものです。
私は彼の導師で、鍵の研究者なのですから。




